これは長崎に限ったことではないのですが、終戦間際は、戦艦や戦闘機の燃料すら不足していたくらいですから、本土の一般人が使用できるガソリンなどの燃料はまったくありませんでした。
ですから、本土空襲が激しくなって、都市から周辺地へ疎開する場合に、主力となったのが「馬車」でした。
原爆投下前に母とともに市内から長崎市北部にあたる長与町高田郷に疎開した愛敬 恭子さんの著書「被爆哀歌」には、その時の様子が綴られています。
愛敬さん母子が疎開して47日後に原子爆弾が投下されます。
愛敬さんの父は、外地に出征していました。
父親や夫がいない内地にあって、力自慢の馬たちは頼もしい存在だったと思うのですが、文中に出てくる方と馬もおそらく無事では無かったことでしょう。
被爆前の長崎市内の地図を細かく復元した、布袋 厚さん著「復元・被爆直前の長崎」の中には、確認できるだけでも7ページに「馬小屋」が見つかります。その多くは、市の中心部より北部一帯に多いようです。
現在の「ブリックホール」から電車通りを挟んだ向かいの狭い通りには「山口馬車」という建物があったことがわかります。
福田 須磨子さん著 「われなお生きてあり」の中には、翌8月10日の岩川町あたりの様子が書かれています。
戦時下、それも敗戦色濃厚という苦しい時代にあって、人のために汗を流して働いた、何の罪もない馬たちが、かくも無残な目に遭ったという事実には、胸が掻きむしられる思いがします。
布袋さんの本の中で確認すると、私自身幼い頃から今も、何百回と通行している道路上にも「馬小屋」があったことが判りました。
現在の地図と照らしてみると山里小学校に近い、岩屋橋の辺りです。