アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

長崎鉄道・交通

活気に満ちた昭和の汽車旅の記憶をそのまま保存してある、肥前七浦駅(佐賀県鹿島市)

JR長崎本線の「肥前七浦(ななうら)」駅は、佐賀県鹿島市大字音成にある無人駅ですが、長崎本線の昭和時代のイメージをほぼそのまま残している貴重な駅舎だと思いますので、当ブログにて紹介したいと思います。

肥前七浦駅は、昭和9年4月16日、JRの前身である鉄道省によって、有明線(現・長崎本線)の駅として開設されました。駅舎の外観は当時のままの姿をとどめており、標題のごとく、「活気に満ちた昭和の汽車旅の記憶」を今の時代に、彷彿とさせてくれます。
DSC_0669

続きを読む

さよなら長崎最古級の駅舎、 島原鉄道・南島原駅

2015年2月15日より取り壊し工事に入った島原鉄道・南島原駅。南島原市にある駅ではなく、島原市の中心地(島原駅から2つ目)に近い駅で、その駅舎はなんと大正2年です。
明治30年の建築である旧早岐駅・駅舎が現在どうなっているか正確な情報がわかりませんが、いずれにしても長崎県内最古級の現役駅舎であったことは事実です。
IMG_0382

同駅の沿革・歴史については、ちょうど駅舎内に掲示してあった案内板に詳しくでていましたので、そちらをご参照ください。
IMG_0401

案内板にも記してありますが、南島原駅は大正2年9月24日に「湊新地駅」として開業。その後大正7年に「島原湊駅」、昭和35年に「南島原駅」と改称して現在に至っています。
IMG_0386

ここは港(島原内港)が栄えていた頃の玄関駅であり、かつ車輌基地という役割を果たしていたわけですね。
この堂々とした造りを見ると当時の賑わいの様子がありありと浮かんできます。
IMG_0385
続きを読む

明治期に敷設されたJR大村線と長崎本線旧線は、鉄道人達の熱きスピリットと長崎の歴史を今に伝える貴重な遺産

平成26年現在、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が大いに注目されています。名称がそのまま内容を表していますが、明治期における急激な近代化を成し遂げる要因となった「製鉄所」「造船所」「炭鉱」「紡績工場」「砲台」「教育施設」「軍養成所」などがその構成要素であり、とりわけ大陸に近く、採炭地でもあった九州西部には多くの「構成遺産」が残されています。

言うまでも無く「鉄道」は、それらの構成要素をつなぐ重要な存在だったことは疑う余地がありません。船舶もまた重要な役割を果たしたとは思いますが、天候に左右されにくいという点を考えると、当時の鉄道には及ばなかっただろうと思います。

さて、九州において明治20年に創設された「九州鉄道」が、早岐-長崎間を開通させたのが、明治31年。今回は非常に大まかではありますが、その大村線と長崎本線・旧線の中に鉄道創始期の名残りと長崎県の歴史を辿ってみることにしました。

出発は大正14年に建てられた「道ノ尾駅」からです。
IMG_0059

この駅は長崎に原爆が投下された直後、救援列車の最前線駅となりました。当時の駅前には多くの重篤・瀕死の負傷者が自力及び他者によって運びこまれ、さながら地獄絵図のようであったと伝えられています。
被爆時、救援の最前線駅となった道の尾駅」(内部リンク)
IMG_0060

原爆投下時には、この辺りにも民家の屋根を飛ばしたりするほどの爆風が吹いており、その時の柱の歪みは今でも確認することができます。この駅舎は現在、何の指定もありませんが、貴重な被爆建築物です。駅前を流れる小川は当時、火傷を負い水を求めた負傷者が折り重なるようにして亡くなった「命の川」であり、街道筋に立つ大クスは被爆木は救護所を目指した負傷者や救護者達の生死のドラマを見続けてきたものです。現在駅舎と大クスに掲げてある案内板は滑石中学校生徒会が設置したものだけです。
30d6dcaac

ちょうど道ノ尾駅に懐かしい色合いのディーゼル・カーが停まっていました。行き先は「早岐」です。これからこの列車が走るルートを辿ることになります。
IMG_0163
続きを読む

藤井フミヤさんも国鉄マンとして勤めていた、JR早岐駅は現存する長崎県最古の駅舎を有する


タイトル通り、JR早岐(はいき)駅の駅舎は明治30年、東彼杵郡早岐村(現佐世保市)時代の建築で、長崎県内ではだんとつに古いものです。また九州においても鉄道創成期に造られた駅舎として大変に貴重な駅舎のひとつであることに間違いありません。
しかし、残念ながら平成25年現在、この駅舎は「長崎県最古の駅舎を有していた・・」と過去形になりそうです。

またタイトルにもあるように、アーティストとして有名な藤井 フミヤさんが国鉄職員として、正式に勤めたのがこの早岐駅でした。藤井さんは早岐駅勤務時代、24時間勤務の休みを利用してはチェッカーズ・メンバーのいる久留米に帰り、練習・演奏を重ね、ヤマハライトミュージックコンテスト・ジュニアライト部門グランプリを獲得。昭和58年に退職した後は、ご存知の通り国民的人気グループとして一気にスターダムに駆け上っています。
IMG_0036


明治になってから「海軍鎮守府」が置かれることになって、急速に発展することになった佐世保の街。その建設の為に莫大な数の人や物資がこの地方に入ってくることとなりました。特に多かったのが佐賀から移ってきた人たちであり、早岐神社には佐賀県出身者の参拝者が多かったと聞きます。今の独特な佐世保のことばや文化にも大きな影響を与えているものと推察されますが、九州一円や西日本各地から様々な方がこの駅に降り立ったことでしょう。
この古い駅舎に様々な思い出をもつ方が一帯どれだけいたのだろうか?と考えると、それこそ想像すらつきません。

そういった意味で、この駅舎は佐世保地方の発展のみならず、長崎県における鉄道の歴史を標すモニュメントでもあるわけです。
IMG_0048 (2)

続きを読む

北松浦郡田平町の中心駅でありながら、隣の平戸市(島)の名前が付いていた「国鉄平戸口駅」(現・松浦鉄道たびら平戸口駅)

松浦鉄道・たびら平戸口駅。昭和10年、北松浦郡南田平村時代に鉄道省(後の国鉄)により設置された駅ですが、記事タイトルのごとく隣りの島である平戸島への玄関口という意味の「平戸口」という名称が付けられた時代が長く続いています。
IMG_0580

写真は昭和10年8月6日、平戸口駅開業の日のものです。造りは当時から変わっていないことがわかります。写真では多くの人がプラット・フォームに立っているのが見えますが、入ってくる一番列車を待っているのでしょうか。
当時は平戸がこの一帯の中心であったとは言え、地元の人にとって地元の地名が駅名にならないことについて、やはり議論はあったそうなのですが、結局「平戸口駅」は国鉄、JR時代もそのまま続き、昭和63年に同線が松浦鉄道として生まれ変わってから、ようやく平成元年に「たびら平戸口駅」と改称されています。
(平成5年の合併により北松浦郡田平町は平戸市となったので、もはや議論の元が解消されたわけですが。)
平戸口駅540

平戸大橋(昭和52年開通)が開通し、平戸島と本土が地続きとなっている現在、平戸へ行くほぼ全ての人が車で橋を渡っていきます。佐世保方面から向かうと、橋を過ぎて500m以上先にある「たびら平戸口駅」の名称は今ではどうしても違和感を拭いきれません。
しかし昭和10年当時、平戸島へ渡るには船しかなく、下写真の田平町「平戸口港」からは、頻繁に往復する船便がありました。(平成25年現在、船便は0となっています)
img203


またこの地域における鉄道の歴史の変遷を見ても、この名称についてうなづけるものがあります・・・
続きを読む

おくんちの日だけ歩けた、長崎港駅への貨物線鉄橋

長崎市・諏訪神社の祭礼、「おくんち」で賑わう大波止付近。中島川に架かる大波止橋の近くに廃線の鉄橋跡と蒸気機関車の動輪がモニュメントとして残されています。
DSCF2211

この鉄橋跡は、昭和5年に「長崎港駅(現・出島ワーフ付近)」に接続していた国鉄長崎本線が通っていた跡です。同62年に正式に廃止となるまでは、おくんちの日に限り、この鉄橋が通行用として開放されており、幼い頃少々恐い思いをしながら渡っていた記憶が今でも鮮明に残っています。
大波止367


続きを読む

断層を乗り越えた竹筋コンクリートの福井川橋梁

佐世保市吉井町から国道204号線を車で江迎町方面へ走ると、けっこうな登りとなり、この町境付近に大きな断層があることを実感します。
佐世保鉄道から国鉄松浦線にかわる昭和11年までは、この高低差のある断層帯に鉄道を通すことは技術的に困難とされていたようですが、戦局の進展に伴い北松炭田からの製鉄原料炭輸送と佐世保軍港への軍隊輸送と軍需品輸送のために、この区間の鉄道敷設工事が行われています。

写真の福井川橋梁は、その断層間にある福井川に架かる鉄道橋ですが、当時は鉄筋が不足していたので、なんと「竹」を骨組みにしてコンクリート造の橋を完成させています。(昭和14年完成。肥前吉井~潜竜間は昭和19年4月開通)
DSCF8049

後に学者が調査したところ、コンクリートの強度も高く、劣化もさほど無かったそうです。またこの橋の設計に関しては平面軸線に曲率もつけてあるなど、非常に高い水準のもので、当時の設計技師たちのレベルの高さを実感したそうです。
DSCF8050

長年にわたり、炭鉱に携わる人々や石炭、物資を運び続けてきた鉄道でしたが、昭和37年7月には豪雨から江迎炭鉱のボタ山が崩れ、潜竜駅一帯を押し潰すという災害が発生しています。幸い付近の住人は非難しており、一人の死者も出さなかったものの、被害は甚大で700人もの鉱員さんが解雇され、結果的に多くの人が町を離れることとなりました。
潜龍ボタ崩れ049


そういったことを少し振り返りながら、この松浦線を列車で旅するというのも、なかなか味わい深いものがあるのではないでしょうか・・・

(佐々川橋梁、吉田川橋梁も同じく、竹筋コンクリート製の橋梁です)


人気ブログランキングへ


*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は衰退しつつある、故郷・長崎の良いもの未来に向けて、広く伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月

18両のSLを擁した、旧国鉄松浦線 佐々機関区

かつての石炭の積み出し港であった臼ノ浦港(旧北松浦郡小佐々町)へと向かう臼ノ浦線と松浦線の分岐跡(北松浦郡佐々町)。
DSCF8130

今からたった40年前には、この場所に、黒い煙を吐きながらばく進している蒸気機関車の姿がありました・・・・
臼の浦線分岐560

右手後方に見えるのが、18両もの蒸気機関車を保有していた旧国鉄松浦線佐々機関区の車両基地です。
続きを読む

松浦鉄道の「日本一」を体感しよう!

松浦鉄道(MR)の日本一、それは『 駅間距離最短日本一 』なのです!・・・同鉄道の「佐世保中央駅」と「中佐世保駅」(ともに佐世保市島瀬町)はわずか200mしか離れておらず、これは日本の鉄道において文句なしの最短です。
地元では結構有名かもしれませんが、実際この「短さ」を体感したヒトは案外少ないのではないでしょうか・・・!?
mr065

では、行ってみましよう。三ヶ町アーケードと合わせて960mと一直線のアーケードとしては、これまた日本一長い四ヶ町アーケードのこの小さな路地が「佐世保中央駅」への入り口です。(もう少し目立つようにしていいと思うのですが・・・)
DSCF6345

正面が佐世保中央駅です。左のレトロ・レストランがいい味だしてますね・・・。雰囲気ぴったりです。
DSCF6346

高架駅なので階段を昇ってホームへ。小さな駅ですが、ちゃんと駅員さんのいる有人駅です。これは佐世保駅方面を見ています。
DSCF6336

続きを読む

石炭積み出し港への盲腸線だった臼ノ浦線

旧北松浦郡小佐々町の臼ノ浦港と各炭鉱を結んでいた佐世保軽便鉄道臼ノ浦(うすのうら)線は大正9年に開通した柚木(ゆのき)線に遅れること11年、昭和6年に臼ノ浦~実盛谷(さねもりだに)間が開通し、佐世保市内や柚木・大野の炭鉱地帯とつながりました。その後翌12年に佐々~実盛谷間が開通し、世知原や江迎・佐々の各炭鉱地帯と接続されています。

ちょっと大ざっぱな図ですが、かつての佐世保軽便鉄道(後の国鉄松浦線、MR)はこのような配置になっていました。カラーの部分がいずれも廃線となっています。全ては掘った後の石炭を北九州や関西に送る積み出し港、相ノ浦港と臼ノ浦港に接続することが目的であったわけです。
02e78d08a

従って現在の松浦鉄道(MR)は、かくも蛇行した路線となったわけですね・・・
02e78d08

現在、旧・臼ノ浦駅舎は「港町公民館」としてリフォームされていますが、ちゃんと残っています。看板に示してある通り、利用客減のため昭和46年12月26日をもって廃止となっています。
DSCF6321

昭和46年、臼ノ浦線運行最後の日に、臼ノ浦駅にて撮られた写真です。
IMG_0572

駅前の広場、階段はそのまま駅の雰囲気を残していますね・・・
DSCF6320





続きを読む



プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




対州屋~写真のデジタル化




荷運び馬復活を目指す長崎市唯一の対州馬、ひん太FBページ

坂ん街の暮らし、応援します。
馬運・馬搬・作業萬ず/
「対州屋」(たいしゅうや)



記事検索
☆ FaceBook ☆