松浦市福島町塩浜免にかつて存在した、日の浦炭鉱。下は明治42年に撮影されたという日の浦炭鉱の写真です。
さすがに明治時代、茅葺屋根の長屋が連なっているのが古の時代を偲ばせます。
2016年現在の同地は下のようになっています。同じように俯瞰で撮影したいと思ったのですが、昔の写真はボタ山から撮影したのか、同じような角度で撮影できる場所はありませんでした。
上の場所から山側を向くとこのような感じです。運動公園のようになっていて、かつてこの場所に炭鉱があったなんて、もう地元の方ですら知らないのではないでしょうか・・・。
佐世保・北松炭田の炭鉱
前回の記事が画質が粗く枚数も不十分であった為、「再編」としました。
この記事の目的は、①かつて鹿町鉱で生活されていた方やその親族の方に当時の様子を振り返って頂きたい②「ヤマは、ひと家族」と言われた温かなコミュニティーが存在したことを地元の方や子ども達に知ってもらい多少でも振興の一助となって欲しい、の2点に尽きます。
そういう観点で読んで頂ければ有難い限りです。
「空の大怪獣ラドン」は昭和31年12月26日に公開された東宝映画です。したがって、これから紹介する旧北松郡鹿町町・日鉄鹿町炭鉱(加勢地区)の風景は、同年の春から夏ごろにかけて撮影されたのではないかと推察されます。
【 平成26年現在でも目視確認できるもの 】
①ボタ山
だいぶ傾斜が緩やかになっていますが、2つの峰の形がまだ確認できます。(現在ここは車道が走っています)
②坑口(東坑・ラドンでロケが行われた場所)
草木に覆われてしまっていますが、しっかりとした造りは健在であるように見えます。(東坑は昭和3年に開坑されています)
当時この坑口から外を眺めると、このように見えたはずです。
佐々鉱については、一度概略を載せていますので、そちらを一読して貰えばと思います。
同鉱の写真は2014年現在で私は下の一枚しか発見できていません。この写真から想像できることは、「坑道口は山の上の方にあり、掘り出した石炭は、いったん小川沿いの道へ降ろし、そこから更に鉄道方面へ輸送していたであろう」ということです。右下の小屋の下部にポケット(貯炭施設)が見えていることから考えると、降炭には、右上の高い場所まで運んだ後、傾斜を利用してポケットまで落としていたのかもしれません。そうなると左側の軌道は人員の輸送に使われていたものなのでしょうか?全ては想像の域を出ません。
現在の同地はどうなっているのかと思い、この施設があった辺りを登ってみることにしました。いつの時代のものかは不明ですが、深い山にしてはがっちりとしたコンクリートが敷いてあります。
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※(今回、内容をイメージしやすくする為、キャプチャー画を数枚使用しておりますが、どうぞご了承ください)
テーマ : 「炭鉱」と「国鉄松浦線」
価格 : ¥1,000 DVDディスク(45分48秒)
お問い合わせ : 佐々町企画財政課 企画班
電話 : 0956-62-2101
ファックス : 0956-62-3178
Eメール : sazatyo@io.ocn.ne.jp
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まずは①で紹介しきれなかった、日鉄鹿町鉱業所内の施設から。下は日鉄4鉱を統括していた日鉄北松鉱業所本部です。
映画「ラドン」では、病院という設定で撮影が行われたようです。
東坑からボタ山・選炭所に伸びる送炭線をまたぐ陸橋を山手に登っていったところに本部はあったようです。
もちろん辺りには、何の痕跡もなく個人様の住宅が立っているだけでした。あえて痕跡と言うのならば、3枚前のモノクロ写真の中に見える立木がわずかに1本だけ残っていたようです・・・。
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昭和39年1月29日に閉山してから、約半世紀が経つ鹿町町の日鉄鹿町炭鉱跡。かつては、北松浦郡吉井町の御橋(おはし)鉱、小佐々町の矢岳鉱、佐々町の神田(こうだ)鉱、そして鹿町町の鹿町鉱の4鉱を統括する日鉄鉱業・北松鉱業所が置かれた場所です。
昭和31年に公開された東映初の総天然色怪獣映画「空の大怪獣ラドン」では、鉱山より怪獣が誕生するという設定で、映画ロケも行われました。
多くの労働力として、多くの人口を抱え賑わったであろうこの場所を、当時の面影を探しながら歩いてみました。
まずは、見当を付けるために、当時の配置図と現在の航空写真を比較してみます。
ほとんどの炭鉱は資料が乏しいか何も残っていないのですが、鹿町鉱の場合は地質図に坑口の位置や送炭線の位置まで記載してあるるのでおおよその見当がつきます。
上図からも大きな炭鉱(街)であったことがわかります。下の町誌に出ていたような鉱業所の片鱗は、どれくらい残っているのでしょうか?
今回はいずれも画像が悪いのですが、「空の大怪獣ラドン」からのキャプチャーと町誌からの画像と対比してご紹介したいと思います。
その①では鉱業所内をご紹介します。
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日鉄池野鉱は8つもの坑口を持ち、本坑の水平坑道(坑道の内、水平に伸びる部分)は幅8m、長さ1kmもあったと言います。
今ではそんなことさえ知る人も少なくなってしまったようです。
今回はいわゆるトピックではありませんが、「追悼の意」を込めまして、昭和15年に発生した出水事故の記録を紹介したいと思います。これはいたずらに炭鉱現場の危険さをひけらかし、他の注意をひこうというものではなく、悲惨な事故記録の中にも見え隠れする、当事者たちの「想い」を紹介し、炭鉱理解への一助とならんことを願ってのことです。
【 昭和15年(1940) 池野炭鉱で出水事故 死者5名 】
9月4日
過日来の豪雨で同坑より25間(約45m)の廃坑矢峰坑の水が増水、水圧でコンクリート壁をこわし浸水 入坑中の坑夫80、職員7、避難 坑口500間(坑口より約900m)で作業中の5人逃げ遅れ
遭難者 坑内係 荒川 光雄(29) 福岡出身 以下19歳(鹿児島)、21歳(佐賀)、29歳(福岡)、45歳(西彼多以良村)の坑夫4名
9月30日
事故発生以来26日、浸水による崩壊多く、作業進まず 5人まだ坑内
10月14日
遺体収容
〔 現場係 荒川 光雄社員の遺書より(抜粋) 〕
「十五年九月四日乙方
本日午前0時30分前より非常の伝令(出水でポンプ使用不能)有りしも、チェーン(採炭機械)をしめてからでも間に合うと思ってチェーンをしぼる坑道に下りたる時、十五分前、捲立に来てみれば水は殆ど身の丈くらい来ていた。切替坑道の所まで水は来ている。直ちに渡ろうとせしも、時すでに遅く、田島、仲尾は殆ど向こうまで行きたるも不能のため引き返す。一同ずぶぬれになり昇捲き場に休む。
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北松浦郡佐々町にあった住友・芳野浦炭鉱跡を訪ねてから、約2年が経ちました。しかし大きなヤマ(炭鉱)でありながら、昭和28年という比較的早い時期に閉山したためか、その痕跡を追跡することができず消化不良でしたので、今回再び同地を訪れてみました。
芳ノ浦商店街裏手にある「住友芳野浦炭鉱記念碑」のある場所から山手に登ります。
階段を登ったすぐ傍にあるのが、この円筒形の構造物。印象では水タンクのように見えますが。
閉山後、展望台として整備されたようです。そのために取り壊しを逃れたのでしょう。
ここからは東町~西町にわたる芳野浦の炭鉱街が見渡せたことでしょう。
おそらくこんな感じです。
草木が生い茂り、同じような景色を見ることはできませんが、現在の同じアングルはこんな感じですね・・・
現在の同地です。現在は社会福祉法人あしたば会さんの施設が建っています。正面の白い建物は、吉井潤心学園です。訪問の意図を伝えると、快く敷地内の撮影を許可していただけました。
宏安炭鉱は昭和27年、元九州石炭鉱業連盟次長であり、ワンマン社長と言われた安西 豊により開坑されました。
まだこの頃は坑員さんの労働時間が12時間という時代です。
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長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
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tek/fax095-857-5236
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