アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

教会・カトリック史跡等

ド・ロ神父が眠るキリシタン墓地が語りかけてくること

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パリ外国宣教会の神父として、外海(そとめ)地方を拠点に活動し、生涯故郷フランスに帰ることなく、ここ出津(しつ)の地に眠っています。

旅行者はほとんど出津教会やド・ロ神父記念館を見学して、墓地には来ないと思いますので、ド・ロ神父が眠るカトリック墓地を紹介したいと思います。

「カトリック墓地が語りかけてくる言葉」をぜひ聞いてみて欲しいと思います。

墓地は、外海中学校(旧出津小学校跡地)の向かいの出津川を挟んだ山あいにあります。

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墓地の前にはツーリスト用の駐車場があります。

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墓地は山の斜面に広がっており、レンガの門から奥へと続いています。

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その門の手前にあるのが、ド・ロ神父の墓碑で、セレモニーなどはこの場所で行われるものと思います。

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しかし、ド・ロ神父の墓はここではありません。
横の門を入り、石段を上がっていきます。

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上の方に、古い鉄の門が見えてきます。

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ここがド・ロ神父の墓地です。

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ド・ロ神父の墓碑。シンプルです。

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ド・ロ神父亡くなった年月などが刻まれていますが、風化が進み、かなり読みづらくなっています。

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ド・ロ神父の墓は斜面の中腹辺りにあり、石段の道はまだ上へと続いています。

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ここは修道会の共同墓地です。

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亡くなられると、こちらに名前が彫られます。

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登り切った場所には磔刑のキリスト像が立っており、墓地を見下ろしていました。
「I・H・S」は、ラテン語で「人類の救い主イエス」(Iesus Hominum Salvator)という意味の言葉の略です。

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キリスト像は、出津教会堂や作業所の方を向いています。


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しかし、墓地は実はここで終わりではありません。

むしろ、ここからが見て頂きたい場所なのです。
石段は、急になり道幅も狭く、鬱蒼とした茂みの中へと入っていきます。

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開けた場所が現れ、地面に無数の平たい石が並べられています。

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これが古い時代の信者のお墓です。
今回、失礼の内容に配慮しながら、撮影させて頂きました。

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ここは、もっと上の段のお墓です。

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人目を避けるように林の中に並べられた墓石。
弾圧の激しかった頃は、カトリック信者の墓だとはわからないように石だけを置き、お祈りに来るときだけ小さな石ころで「十字架状に」並べたり、木の板を十字に重ねてお祈りをして、済むと元に戻していたそうです。

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つまり、上から下にかけて、古い時代から、新しい時代へカトリック墓地のの移り変わりがわかるということなのです。

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手掘りの名前。
ひとつひとつの石に歴史が感じられ、まるで声なき声が聞こえてくるようです。

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教会や資料館を巡った後、ここに来て、ぜひ語り掛けてくる声々を聞いてみてください。

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ここへ来ると、改めて「ド・ロ神父」という存在が、この地にとって、そして多くのキリシタン達にとってどのようなものであったかが判るはずです。



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長崎のキリシタンにとって苦難の時代に現れたパリ外国宣教会の神父たちは、「神以上の」存在となった

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1986年に公開された「ミッション」。
イエズス会の南米への布教と植民地化への軋轢を描いた作品ですが、記事のタイトルを見ている内に、この映画をもう一度見たくなって、ネットで観ました。(しかし、レンタルDVDにも無いし、手頃な有料配信も無かったので、youtubeの英語版を観ました)

公開当時、自分は東京におり、仕事を辞めたばかりでしたが、何となく惹かれるままに小さな映画館で観たのでした。

今回、やっとこの映画の真髄が掴めた気がしました。
実に35年もかかっています。

この映画、テーマは宗教でも植民地支配でも、ヒューマンドラマでもなく、「人にとって大切な事は生命をリスペクトするということ。そして、どんな人もその生命(存在)は差別されるべきではない」ということなのではないかと思います。

「ミッション」は実話を元にしたフィクションですが、標題の通り、我が長崎にやってきた宣教師たちは、史実として「超人的な行い」を成し遂げています。

特に幕末から明治期に布教にやってきたパリ外国宣教会の神父たちの、その生き様は、文字通り「神以上の存在として人々に影響を与えた」、或いは「人として至高の生き方をした」と言っていいだろうと思います。

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苦難の時代に多くの孤児や棄児を救った岩永マキと十字会のカトリック信徒達は世界遺産以上の偉業を為した女性達(ひとたち)だった

岩永 マキ(1849~1920)の肖像。
写真すらほとんど残っていませんが、見る限り凛とした美しい表情をした人であることがわかります。
強さの中に秘めた優しさ、或いは優しさの中に秘めた強さ。そういうものを感じます。
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上の写真の集合写真です。マキは前でも中央でもなく写っています。見る限り、文献にあるような大柄には見えません。
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こちらの写真でも、手は細く小さく、体つきも華奢に見えます。
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岩永マキに関する文献は、ほとんど見つけることができません。
聖母の騎士社刊「お告げのマリア」と長崎文献社刊「長崎の女たち・第2集」の中で取り上げられていますが、それも多くではありません。
浦上キリシタン資料館の中に、その生い立ちを記した記述がありました。

『1849年(嘉永2)肥前国彼杵郡浦上山里村平(現:長崎市本原町)で生まれる。

父市蔵、母モンの長女、弟一人、妹三人、市蔵の祖父は「なわこもや徳右衛門」「なわこもや」は縄や菰にも)の卸問屋で信仰深い豪農であった。』(出典:浦上キリシタン資料館内の掲示物より)

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キリシタンの長い歴史を感じさせる、善長谷教会


善長谷教会。 ぜんちょうだに教会。
この名を知った時、とても大きなインパクトがありました。
「異教徒」を指す、キリシタンの言葉、それは「ゼンチョ」だからです。
従って、なぜ仏教徒の地名がある場所にカトリック集落と教会があるのか。
それを知る手がかりは、現地に向かえば、何か掴めるのか?
それを知ることが、怖いような気がして、長い間向かうことができませんでした。

深堀から西海岸沿いを蚊焼方面へ向かい、「善長谷」バス停から山側の細い道に入ります。
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かえって日本人への親近感を高めることとなった雲仙地獄でのキリシタン迫害

島原半島の中央にそびえる雲仙岳(正しくは普賢岳、国見岳など三峰五岳の雲仙連峰或いは山体)。
島原半島のシンボルであり、かつ国立公園第一号ともなった有数の観光地であるのは、有名なところです。
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明治・昭和期の浮世絵版画師、川瀬 巴水が描いた雲仙、「天草より見たる 雲仙」は、静かなこの地の風情をよく表しています。
かつてはキリシタンの郷として栄えた後、島原の乱(或いは島原・天草の乱)により一時は荒廃したこの地方が、2015年の今、再び世界遺産を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一部として注目を浴びようとしているという事を想うと、悠久の時の流れを感じるというのか、感慨深いものがあります。
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十字架山と本原教会 ~ 人の心が見せてくれる景色

「長崎の十字架山」の所在地を、一体どれくらいの方が知っておられるだろうか?という思いがありますが、そもそも十字架山の存在を知っておられることすらあやしい今日であるかもしれません。

しかし、下図のように昭和30年頃の長崎電気軌道さん(路面電車)の案内図には、かくも堂々と「十字架山」の存在が示されています。
(ちなみに、この頃は運行されていた電鉄バス路線図や、「井樋の口」や「千馬町」といった懐かしい電停、競輪場なども見えます。※以下クリックで拡大)

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案内図からも戦後復興めざましい長崎の様子がうかがえますが、片岡 弥吉著 「長崎のキリシタン使徒たち」によりますと、浦上一体がまだ住宅化の波の押し寄せていない、素朴なキリシタン農村であった頃は、汽車がこの地に入ると、小さな丘に立つ十字架が目に入ったといいます。これが当時、ポルトガル語の伝来のまま「クルス山」と呼ばれていた十字架山なのです。
当時、長崎を汽車で訪れた多くの方がまず目にしたその光景こそが、旅の序章として旅愁を掻き立てられた、「エキゾチックな長崎」そのものだった、ということなのですね。

その十字架山へ向かってみます。

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空襲の際、間一髪で直撃を逃れた ~ 佐世保市三浦町教会

佐世保市三浦町教会。JR佐世保駅に降り立つと、眼前の丘の上に見えるその建物は、佐世保市のシンボルとも言えるものでしょう。
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下は、昭和30年頃の三浦町教会です。まだ周りに高いビルも無く、本当に「街のシンボル」的な建築物であったことがよくわかります。三浦教会516

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水面に映える白亜の教会~中ノ浦教会(新上五島町)


新上五島町中ノ浦にある中ノ浦教会。
上五島空港が事実上閉鎖されている現在、旅人が奈良尾港から上陸し、北上する時にまず最初に目にするのが、この中ノ浦教会だろうと思います。
小さな入江のそばにたつ同教会は、その白壁が水面に映り、何とも美しいその姿で旅人の心を癒してくれます・・(写真を撮った時は潮位が下がっていました)。
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穏やかな内海、緩やかな山稜・・・・「幸福」に充ち満ちた風景が続きますが、この教会がある地区は、明治初年におけるキリシタン弾圧「五島くずれ」の中でも激しい弾圧が行われた場所でした。
その弾圧に耐えた信徒たちの血と信仰の強さを象徴するかのような五島つばきの赤い色が印象的です・・・
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諸外国から猛抗議を受けるという形で実現した、明治6年の「キリシタン禁教の高札撤廃」ですが、一説によるとそれは外国人居留地の近くだけで、地方では状況は一向に変わらなかった・・・と言われています。
おそらく離島のこのような地区では、旧態依然としたものであったに違いないでしょう・・・。
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長い弾圧が終わり、争いや戦が終わって、やっと平和が戻ってきたこの地ですが、少子化か過疎化か、一人また一人と人が去くことになりました。
そしてこの近くにあった上荒川小学校も閉校となってしまいました。時の流れの儚さを感じますね。

上五島へ~廃校となった若松町立上荒川小学校

教会も旧校舎もずっとこの地にあって欲しいと願うばかりです・・・。

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かつて炭鉱町の信徒によって支えられた大加勢教会

佐世保市(旧北松浦郡)鹿町・下歌ヶ浦にある大加勢(おおかせ)教会。
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日鉄鹿町炭鉱の炭鉱町にあったこの教会は、鉱員さんに多かったという信徒さんを大勢抱えていました。特に外海や浦上から移ってきた信徒さん達が多かったといいます。写真は当時の大加勢教会と炭鉱町の子どもたちです。教会は昭和22年に建てかえられていますが、基本となるデザインは昔のままです。
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26聖人上陸の地 ~ 西彼杵郡時津町

1597年2月4日、寒さの厳しい深夜。26聖人を乗せた小舟は大村湾をわたり、ここ時津の港に着きました。もちろん宣教師たちキリシタンを西坂の丘で処刑するためです。

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一行を乗船させた東彼杵郡東彼杵町の「乗船の地」が当時とほとんど変わらないと思われるのに対し、ここはまったくもって違う場所となってしまっています・・・



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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




対州屋~写真のデジタル化




荷運び馬復活を目指す長崎市唯一の対州馬、ひん太FBページ

坂ん街の暮らし、応援します。
馬運・馬搬・作業萬ず/
「対州屋」(たいしゅうや)



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