アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

被爆のこと・遺構・建造物

原爆投下は、戦争の「狂気」が為した「殺傷力のデータを得る為の人体実験」のようなもの

標題は偏った見方を連想されるかもしれません。しかし、長崎に生まれ育ち、そろそろ人生の幕引きを意識しだした今、ひとつの結論を示す必要性を感じました。もしかすると、今後この結論は覆るかもしれません。しかし、現在考えうる全神経を集中させた結果たどり着いた文言は標題のようなものでした。
また、このブログを、長崎に修学旅行で来られる中学生の方が、平和学習の参考として読んでくれるということがあるようですので、特にこの記事は「未来を担う中学生に向けて」書きたいと思います。

この夏、何故だか理由はわかりませんが、ふと「731部隊」についての資料映像・書籍をもう一度読み返してみました。「細菌戦部隊」の名のもと、外国人に対し、おぞましい人体実験を行った日本軍同部隊について、森村 誠一は著書「悪魔の飽食」の中で、以下のように著しています。

『 ・・・戦争には、程度の差はあっても兵士を共通の狂気に陥れる麻薬が仕掛けられてある。平時は(普段は)善良なる小市民をして集団発狂せしめる恐るべき”麻薬”というべきである。その麻薬は、戦争目的をすら忘れさせ、戦争によってつくりだされた「無法の自由」下において、平時では絶対に許されない悪逆無道(人の道に外れた、はなはだしい悪事)を楽しませる作用がある。戦争における、人間にもあるまじき非道は、軍が面白半分に行ったと言ってもさしつかえない。つまり、”娯楽のための非道”なのである。』

いくらなんでも原爆投下を「娯楽」とは言いたくないのですが、それでも「人心」を失った「狂気」が行わせたものであり、それは『軍事上必要の無かった科学的実験を興味本位から、「やるなら今しかない、やってしまえ!」とばかりに、行なった行為』と言っても言い過ぎではないだろうと思います。

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香焼から見た原爆の巨大なキノコ雲。
(本記事内の画像は、すべてwikipediaから引用させてもらっています)続きを読む

ほとんど誰にも知られていない、悲しみの原爆の碑

説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。

長崎市浦上地区にある西町踏み切り。何気ない風景の中を多くの人や車が通りすぎていきます。しかし、この画像の中に「ほとんど誰にも知られていない、悲しみの原爆の碑」があるのです。
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原爆の遺構は、私たちの住んでいる街そのもの

毎年、多くの修学旅行生や外国人ツーリストの方々が長崎原爆資料館や被爆遺構を訪れてくださっているようで、市民として、それは大変うれしいことだと思います。
しかし、皆さんタイトなスケジュールの中での訪問となることが多いせいでしょうか、資料館の展示やパンフレットに記載されている遺構だけが、現在残されているものだと理解されているように思えて仕方ありません。
「広島の原爆ドーム」のようなシンボル的な遺構が長崎には無い分、訪問者には見えづらい点はよく理解できますが、投下後70年以上(2016年現在)経ったとは言え、『 3000℃の熱線、秒速440mの衝撃波、人体を破壊し尽くす放射線 』によって、原子野と化した場所が、そう簡単に姿を隠しきるはずがありません。

下の写真は、原爆投下後の山里小学校と、浦上川に架かる本大橋一帯を写したものです。
(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを広く伝える為です。ご了承のほどお願い致します)
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〇で囲んだ部分には、河原に降りるための階段のようなものが写っています。爆心から、この場所までの距離は760mあまり。上記のような熱線や衝撃波、放射線の容赦なく降り注いだ場所ということになります。
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この場所は現在、どのような状況になっているのでしょうか・・・・

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深い情愛で結ばれた親子の記憶が保存してある二畳の家 ~ 永井博士親子の如己堂

長崎市名誉市民外一号である、故・永井 隆博士が亡くなる約3年前から親子三人で暮らしていた住居はたった二畳一間の家。・・・長崎に暮らす自分にとっては大いに誇らしいことであるし、その家「如己堂(にょこどう)」を今、未来ある子ども達が修学旅行の傍ら立ち寄って見学している姿というのは、なんともうれしいものです。


その思いは、名誉市民になるような人がこのような謙虚な暮らしをしていたという安堵感からくるものでも、今裕福な暮らしをする人を妬む気持ちの裏返しからくるなどという、ケチくさい了見からでもありません。


この二畳を目の当たりにする時、そこにあふれんばかりの親子の情愛が詰まっていたことを今も尚、しっかりと感じることができ、それは広さや造りの立派さとは無関係であることを再確認させてくれるからなのです。


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如己堂の名の由来となった「如己愛人」の書。これは、新約聖書マルコによる福音書12章31節にある「己の如く人を愛せよ」という言葉からとられています。

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今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ②


若草町を後にし、今回爆心地よりわずか800mという至近距離にある被爆木を探します。800mという距離はちょうど山王神社の大クスと同じ距離にあたります。
竹の久保町にある引地さん宅の柿の木とカシの木です。引地さん宅は活水学院中・高等学校と長崎西高校のグラウンドの間に位置しています。
カシの木の方は、比較的すんなりと見つけることが出来ました。
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このカシの木は被爆時、中ほどからへし折られたそうなのですが、2年ほど経ってからまた芽吹いたそうです。向かって右側が爆心にあたり、やはりそちら側には枝が伸びきれないのがわかります。
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今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ①

当初のタイトル構想は、「被爆樹木を訪ねて」でしたが、事後に「会いにゆく」変更しました。
樹木は動物とは勿論違いますが、今回対面して「生きている」というインパクトが非常に大きく感じられましたので。

長崎の被爆樹木と言えば「山王神社の大クス」が圧倒的に有名で、ガイドブックに掲載されたり、書物にも多く登場していますが、もちろん同じ熱線と爆風に耐えながら今も尚立ち続ける被爆木は他に何本もあります。しかし、残念ながら殆ど知られることがありません。事実、私ですら今まであまり惹かれるものがなかったのです。

今回、爆心から遠い長崎市北部より、爆心地を目指し、更に南側に抜けるルートで被爆木を探しました。今回追跡したのは平成8年に長崎市が発行した資料です。

まず1本目は長崎工業高校正門前にあるという被爆樹木を目指しましたが、これは完全に姿を消してしまっているようでした。
続いて爆心から約2.8kmという西北町・開念さん宅のカシの木を探しました。このカシの木は被爆前は20mほどもある大木でしたが、爆風で途中から折られ、熱線で幹を焼かれています。
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どうやらこのカシの木は、長崎工業高校グラウンドに近い高台にあるようです。
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何の標識もなく確定とは言えませんが、爆風の当たる場所、背後に見える石垣から判断すると、どうやらこの木のようです。
8年前の資料写真に見える横枝は切り落とされているようです。傷みにより風で折れる心配があったのでしょう。
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木はまだ若い葉を出し元気のようですが、幹を拡大してみると、なかなか痛々しい様子となっています。また、この場所の所有者も変わってしまっていたようでした。被爆後68年、資料作成時から17年。致し方のないことかもしれません。
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少し離れたところにある西北小学校からは、ちょうどプールの授業があっており、子どもたちの賑やかな歓声が響いていました。こういった何気ない夏の情景にこそ、長崎市民は68年前の惨禍と平和への尊さを思わずにはいられません。
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本格的な本土空襲は長崎を含む九州北西部の工業地帯・軍事基地より始まった

のどかな長崎港と街の風景。その中にぽつんと見える「長崎市のランドマークで、また貴重な歴史の証言者(シンボル)」・・・・。
何だかわかりますでしょうか?
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それは三菱長崎造船所の150トン・ハンマーヘッド型クレーン(起重機)です。
スコットランド、マザーウェル・ブリッジ社製のこのクレーンは明治42年に設置され、明治・大正・昭和・平成と4つの時代をまたぎ、今も尚現役として働いています。
そして何より度重なる空襲と原爆とをくぐりぬけて、ここに立ち続けています。
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長崎では原爆により被害が甚大であった為、あまり語られる機会もありませんが、戦時中は三菱をはじめとする軍需工場や工廠も多く、佐世保海軍鎮守府や大村海軍航空隊など大陸方面への前線基地も多かったことから原爆投下以前の空襲も多くありました。

本土への空襲が始まった昭和19年春のアメリカ軍の爆撃機拠点は中国・四川省の成都であり、航続距離の問題から爆撃機が到達できるぎりぎりである九州北西部がそのターゲットとなった為です。
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19年6月16日北九州の八幡製鉄所を攻撃目標として始まった空襲は、以後

7月8日   長崎佐世保大村諫早
8月5日   福岡、小倉
8月10日  諫早
8月11日  長崎、島根、小倉、八幡
8月20日  長崎佐世保大村、小倉、八幡
8月21日  小倉、八幡(八幡製鉄所) 
10月25日 大村(大村海軍航空廠)、長崎佐世保
11月11日 大村(大村海軍航空廠)、長崎佐世保福岡、尾道
11月21日 大村(大村海軍航空廠)、大牟田、熊本、佐賀

と続いています。
大陸に近いがゆえに前線基地として渡洋爆撃の攻撃拠点となった長崎の基地はまた、その近さゆえ爆撃のターゲットとなったというわけなのですね。
その後、アメリカ軍の爆撃機基地は、サイパン、テニアンなどのマリアナ諸島に移り、東京、大阪、名古屋をはじめ日本全国の都市への空襲が開始されます。(画像は1944.10/25 B-29により爆撃を受ける大村海軍航空廠)
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また昭和19年の爆撃は軍事施設や軍需工場などのピン・ポイント爆撃であったのに対し、翌20年からは「M69焼夷弾」による無差別爆撃へと変わりました。いわゆる「焦土作戦」の始まりですね。(アメリカ軍が初めて行ったことではありませんが)
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被爆直後に撮られた、防空壕の「ラッキー・ガール」は、まったくの創作写真だった


私がまだ幼い時に、この写真を見た印象は、「防空壕に入っていて、よかったぁ!・・と嬉しいんだね」というものでした。でも、やっぱりこの写真は数ある被爆写真の中では、それ以上の印象の無い写真でしかありませんでした。
この写真は、当時西部軍報道部カメラマンであった山端 庸介氏によって、原爆被爆の翌日1945年8月10日朝に撮られたもので、アメリカの雑誌「ライフ」にて、「ラッキー・ガール」というキャプション付きで掲載されたものです。
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山端氏もこの写真について、
『中町天主堂付近の、自宅前道路に作った防空壕に避難して助かった少女。原爆の印象は強烈な閃光と凄まじい爆風の音であった。それよりも助かったよろこびの方が強く、撮影する私に元気に話しかけてきた。』と説明を加えていました。

しかし、この写真も、この女性の微笑みも実はまったくの演出でした。
しかも多くの人に印象を与えた「ラッキーガール」というイメージとは、まったく異なる人生を、この女性はこの時背負わされていたことを、おそらく殆どの人が知りません・・・。

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厳冬期のさなか、吹きさらしの被爆校舎で授業を続けた ~ 山里小学校旧校舎

原爆・爆心地より700mの場所にあった山里国民学校は同じく500mにあった城山国民学校とともに、爆心地に近い国民学校として壊滅的な被害を受けましたが、鉄筋コンクリート造であったため、かろうじて外形を保ち、その後修復などされ、再び校舎として使用されました。(画像右上が山里校。周りのものが全てなくなっています)
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ひと口にそうは言っても授業を再開するまでには困難な道のりがあり、再開してからも、その有様というものは大変なものでした。特に冬の厳寒期に、ガラスさえもはまっていない被災校舎で授業を行ったことについては想像できないような苦難もあったようです。
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当時山里校にいて生き延びた教員林 英之さんと六年生であった生徒達によって平成2年に発刊された被爆体験記「思い出新たに」の中には、林さんが記録していた当時の授業の様子が記載されています・・・

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当時の原子野を彷彿させる被爆建築物 ~ 長崎医科大学・ゲストハウス

被爆した建物として人々に最もよく知られているのは、平成12年の夏に文化財登録の話が持ち上がった「城山小学校(旧城山国民学校)の被爆校舎だと思いますが、外側はご覧のようにかなり補強・補修され、当時の質感は想像しにくいものとなっています。多くの生徒が通う敷地にあり、資料館となっている内部には多くの見学者が訪れる場所ですので、いたしかたないとは思いますが。
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被爆後、昭和33年まで残されていた浦上天主堂の被爆遺構も解体・撤去され、原爆資料館に再現模型がありますが、実物ではありませんので、原爆の実相をうかがわせる物とは程遠い感じがします。
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そんな中にあって、長崎医科大学(現長崎大学医学部)キャンパスに残されているゲストハウス(戦時中は配電室として使用)は、崩落の危険も少ないためか、被爆時の壁や柱が大きな補修もされずに残っています。つまりその部分は、現在も私たちが見ることのできる、放射能・爆風・熱線という強烈なダメージを受けた建物の色と質感そのもの(コンクリート)と言えるのではないでしょうか。
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爆心地から約600mという至近距離にありながら、これだけの形を平成24年の取材時にも保っており、かなり堅牢な造りであったことがわかります。しかし、下の写真で周りに何も残っていないのを見てもわかるように、医科大学の建物群は強烈な爆風によって叩き潰され、続いて熱線により発生した火災により焼き尽くされました。特に主要建築物76棟のうち65棟が木造であり、中で講義を受けていた学生達は逃げるいとまも無く、この地で無念の死を遂げています。
焼け跡からは教官は教壇上で、学生たちは座ったままの姿勢という姿の遺骨が発見されたといいます。
医科大学に併設されていた病院が鉄筋コンクリート造でなかったならば、その中にいた永井 隆博士も角尾学長も即死していたことは、まちがいありません。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




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