アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

音楽

 ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」は、夢と現実を知る少年期から青年期を描いた名作

カナダ出身のアーティスト、ジョニ・ミッチェルが作った「Both sides, now」は切なくも美しいメロディーで、学生時代から好きな楽曲のひとつでした。
歌詞の内容についてはこれまで深く考えようとも思わなかったのですが、現代の世界の状況やその中に置かれた子ども達、若者のことを考えるようになってから、この邦題「青春の光と影」という楽曲が気にかかるようになり、内容をつぶさに調べてみようと思いました。

やたら韻を踏んでいるのと、やや感覚っぽい内容である為に、直訳することの難しい歌詞だと思ったのですが、私の個人的な解釈として、標題のように『 理想と現実を知る少年期から青年期の心情を描いた楽曲 』として訳詞を考えてみました。
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(*本記事に使用している画像は全て著作権フリーのもので、内容とは直接関係がありません。)

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こういう音楽の先生に習いたかった ~ シンガーとしての齋藤眞理(天地真理)さん

いつ削除されるか、わかりませんが、下に動画を貼り付けているので、まずはイメージを取り払ってその歌声を聴いて欲しいと思います。

「言葉を置きにいく」・・・とでも言うのでしょうか。非常にクリアーな言葉が、すっと心に染み入ってくるような気がします。「この広い野原いっぱい」が作曲:森山良子さん、歌;天地真理さんと知らずとも、この声で「日本の名曲」としてアーカイブして欲しい、と思うのはひいき目と個人的な感傷なのでしょうか?




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齋藤眞理さんは昭和26年、埼玉県大宮市(現さいたま市)生まれ。2歳の頃、両親が離婚し、母親に引き取られ、母ひとり子ひとりで育っています。昭和26年の大宮市。同市は戦時中、大規模な空襲は受けなかったこともあり、甚大な被害を受けた東京に代わり、経済・交通の要衝として栄えています。そんな中で離婚に至ったのは、何らかの理由があったのでしょうが、戦後の復興期で「生き馬の目を抜く」といった時代に、女手ひとつで子どもを育てたということは、想像を超える苦労があったことでしょう。
眞理さんの母親は、保育園の調理師として眞理さんと共に住み込みで働いていたといいます。保育園と言えば、父親や祖父母、兄弟姉妹など、行事ごとに楽しそうな家族の姿を目にすることも多かったと思いますが、眞理さんの前で母親は、そんな寂しさを感じさせないくらい明るく振舞っていたであろうということは、いつも笑っている眞理さんのポートレートからも予測がつきます。
そして母親は小2の時、眞理さんの為にピアノを買い、それからピアノの練習を始めた眞理さんは私立である国立音大付属中学校のピアノ科に入学しています。その後国立音大付属高校に進学した彼女は、途中から声楽科に転科し、声楽を学んでいます。

高校時代に影響を受けたというのがアメリカのフォーク・シンガー、ジョーン・バエズだそうです。ジョーン・バエズはメキシコ系のアメリカ人。黒髪の地味なルックスにアコースティック・ギター1本で歌うというスタイルで、社会の不正や差別、反戦などを訴えた「プロテスト・ソング」シンガーの代表的な人物の一人でもあります。
現在、こういうことを公然と表現するアーティストは日本では殆ど見当たらないし、いたとしてもメディアには露出されないと思いますが、眞理さんが国立音大付中に入学した1960年代初頭は、アメリカで人種差別撤廃を求めた「公民権運動」が最高潮となる時で、ボブ・ディランウディ・ガスリーピート・シーガーなど多くのアーティストが注目されていました。(1963年にキング牧師の呼びかけによりワシントンDCで行われたワシントン大行進では、バエズやボブ・ディラン、チャールトン・ヘストンらのアーティスト・俳優等を含む20万人が参加し、世界中に大きな影響を与えています。この時キング牧師が行った演説が有名な「I have a dream」です。)
着飾らず質素ないでたち、アコースティック・ギター1本で歌うバエズの姿は、眞理さんの心に深く刻まれたことでしょう。
下の動画の中で、バエズは聴衆の前にギター1本でのぞみ、聴衆とハモっています。(バエズが下のメロディーですね)


アルバイトしながら授業料を捻出し、「齋藤 マリ」の名でヤマハ・ポピュラー・コンテストにチャレンジしたこともあったという眞理さん。スター「天地 真理」にならなければ、音楽科の教師をしながらシンガーという道を歩んだのではないでしょうか。

しかし、今日私たちが彼女の歌声に出会うことができたのは、2012年11月15日現在、5日前に亡くなられた、女優・森 光子さんという存在があったからなのですね。
デビュー後、眞理さんは「天地 真理」として活動をスタートし、TBSの人気ドラマ「時間ですよ」の中の従業員役に応募するも、最終選考で落選となってしまいます。しかし、主役であり選考委員として参加していた森さんが眞理さんの不合格を惜しみ、それまでの台本にない急ごしらえの新登場人物として出演させることを制作サイドに提案したことにより、眞理さんは番組の中で人気が出て、一躍脚光を浴びることとなります。

「ピアノの先生として将来、生計を立てられるように」との思いで、ピアノを買い与え、我が子の幸せを願った実の母親も苦労続きの中で亡くなり、自分に実の娘のように接してくれ、芸能界の中で育ててくれた人もまた亡くしてしまった眞理さんですが、最近では「子守唄 母の愛」を作曲するなど、ずっと音楽活動を続けておられます。
自分が受け取った愛情を、実の娘さんだけでなく、多くの方に届けようとされている姿勢は、すばらしいですね。

このような音楽の先生がいて、どこか広い場所でギター1本で一緒に歌ってくれる・・・こんな出会いがあったとしたら、生涯忘れることは、ないでしょうね・・。

クリアー&メロウなGeorge Bensonの「Nothing gonna・・」は、黒煙に覆われたピッツバーグの下町から生まれた


ビリー・ジョエルやリアン・ライムスなどクリアーな英語を使うアーティストの楽曲には心惹かれるのですが、ジョージ・ベンソンの「Nothing gonna change my love for you」(Gerry Goffin&Michael Masser作)もそんな楽曲のひとつです。

初めて聴いた印象は「これだけ発音がクリアーなのは、白人の正統派シンガーだな・・」というものでしたが、あとになってそのイメージはまったくもって見当違いであったことがわかりました。

ジョージ・ベンソンは1943年、ペンシルバニア州ピッツバーグ・ヒル地区(hill district)に生まれ育ったアフリカ系のアメリカ人です。
ピッツバーグと言えば、鉄鋼王カーネギーに象徴されるように、「鉄鋼の街」であり、1857年頃(日本では黒船の来航した幕末頃)には1000以上の鉄鋼工場が建ち並び、その生産を支える為の労働者が大量に移入しました。
しかし、労働者のおかれた環境は劣悪であったと言います。
大量に燃やされる石炭によって大気は黒煙に覆われ、スモッグにかすんだピッツバーグは「hell with the lid off(恐ろしいもののありったけを見せられた地獄)」と呼ばれました。
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ジョージが生まれたヒル地区は住人の大半がアフリカ系アメリカ人で(白人は人口の約6%を占めるのみ)、住人の約40%は貧困以下のレベル生活を余儀なくされていました。
6人きょうだいの一番上で、病院における賄い仕事で生計を立てていた母親に育てられていたジョージの家には7歳の頃まで電気がありませんでした。
またかつて「アメリカの約1/2の鉄鋼を生産していた」と言われたピッツバーグも第二次大戦後、安価な輸入鉄鋼に押され、鉄鋼業は衰退、街には大量の失業者が溢れ、人口も激減しました。
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しかし、移入者たちが集まった街、ピッツバーグはあたたかく明朗な街であり、裕福でなくとも人々はジャズなどの音楽を楽しむ風習がありました。
ジョージの継父トーマス・コリアーはジョージのために自身のエレキギターを質屋から出したり、ゴミ箱に捨ててあった壊れたウクレレを修理しては、弾き方を教えたりしています。
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ジョージは新聞販売の合間にそのウクレレを持っては、街角で歌い、ひと晩で母親の一週間分のお金を稼ぐようになりました。
つまりジョージに才能があったことも確かですが、街には音楽を愛する少年をあたたかく育てる気風に満ちていた、ということもまちがいないようです。

こうしてジョージのキャリアはスタートし、現在に至っています。
クリアーでメロウな美声の基は、ピッツバーグの下町で育まれたわけです。
こうして考えてみると、「豊かさ」や「文化水準」とは何だろうか、と考えてしまいます。

現在のピッツバーグは芸術も盛んで、大学に通う若者の溢れる文化的な街となっています。




If I had to live my life without you near me
The days would all be empty
The nights would seem so long
With you I see forever oh, so clearly
I might have been in love before
But it never felt this strong

Our dreams are young and we both know
They'll take us where we want to go
Hold me now, touch me now
I don't want to live without you.

Chorus 1
Nothing's gonna change my love for you
You oughta know by now how much I love you
One thing you can be sure of
I'll never ask for more than your love.

Chorus 2
Nothing's gonna change my love for you
You ought to know by now how much I love you
The world may change my whole life through but nothing's gonna change my
love for you.

If the road ahead is not so easy
Our love will lead the way for us like a guiding star
I'll be there for you if you should need me
You don't have to change a thing
I love you just the way you are.

So come with me and share this view
I'll help you see forever too
Hold me now, touch me now
I don't want to live without you.

Chorus 1, Chorus2, and Chorus 1 again

映画「幸福の黄色いハンカチ」とポップス「幸せの黄色いリボン」は同じルーツ

表題の件はかなりメジャーなトピックかもしれませんが、両者ともかなり年代的に古くなってきましたので、掘り起こすという意味も兼ねて取り上げてみました。

まず1973年に大ヒットしたトニー・オーランド&ドーンの「幸せの黄色いリボン:(原題Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree)は、英語もわからない時代に、ラジオから流れてきた軽快な曲として耳にしていました。
しかし、その歌詞の内容というのは、軽快なリズムとは裏腹で、動画に流れる通り、刑務所を出所した男の心理を追ったものです・・・

以前取り上げたサイモンとガーファンクルの「水曜の朝、午前3時」もそうでしたが、犯した罪を悔やむ心理と愛憎というのは、非常に人間的に深いものを表現できる題材であると感じます・・・




一方、映画「幸せの黄色いハンカチ」は、ハンカチとリボンという違いはあるものの、ほぼ基本的なストーリーは同じ、ということで、私は長い間この映画は楽曲の方をヒントにして作ったものだ、という誤解をしておりました。

しかし、あらためて映画のポスターを見ると「原作:ピート・ハミル」とあります。
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これについてですが、ジャーナリストで小説家であったピート・ハミルは、「幸せの黄色いリボン」の歌詞は、伝承を元に自分が1971年(楽曲ヒットの前年)に執筆したコラム「Going Home」に基づいたものだとしてオーランド側を提訴したらしいのですが、結局被告オーランド側の調査で、ハミル以前にもこの伝承をまとめた文献があることが示され、訴訟は取り下げられた・・・とひともんちゃく?があったらしいのですね・・・。
どういう経緯かわかりませんが、映画サイド(1977年公開)では「ピート・ハミル原作」としたようです。また提訴されると面倒だ!とでも思ったのかもしれませんが・・・・?
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私としては、監督が「男はつらいよ」の山田洋次氏であり、主役の高倉 健さんと重要な役である武田 鉄矢さんが、ともに九州出身という設定で、ストーリーがかつての炭鉱町・夕張に向かうというだけで、大いに魅力のある映画なのですが・・・


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昭和38年の空気感をパックした、ジェリー・マリガンの「 Night Lights 」

アメリカのジャズ史上、数少ないバリトン・サックス奏者ジェリー・マリガンが代表作「Night Lights(ナイト・ライツ)」を世に出したのは、1963年。つまり昭和38年でした。
昭和38年のポップスと言えば、なんだか色あせてしまったような気がしますが、この「Night Lights」は、あの時期の古き良き昭和の空気を、そのままパックしたしたような気がして、聴くたびに、その時代の色や音、風の匂いまで蘇ってくるような気がするから不思議です・・・
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「Night Lights」・・・「街の灯」を自分の生まれ育った街でイメージするならば、下の梶川清彦さんの版画がぴったりくるような気がします。「灯り」が生活そのものであり、人々が身を寄せ合い、ひたむきに生きていた時代。確かに、それは「懐かしい」感覚です。
1963年は自分の生まれた年であることも、より一層この楽曲に親しみを覚えさせます・・・・
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「明日に架ける橋( Bridge Over Troubled Water )」   唄:リアン・ライムス



LeAnn Rimes


Bridge Over Troubled Water
        「明日に架ける橋」 
P. Simon       訳詞 T.Ejima

 When you're weary  feeling small
 君が疲れきってしまい、どうしようもなくなった時
 
 When tears are in your eyes  I will dry them all
 涙があふれてしょうがない時、僕がその涙をぬぐおう
 
 I'm on your side oh when times get rough
 どんなに辛い時だって 僕は君の側につく
 
 And friends just can't be found
 たとえ友と呼べる人がひとりもいなくなったとしても・・・
 
 Like a bridge over troubled water 
 激流にも架かる橋のような
 
 I will lay me down  
 そんな存在に僕がなろう・・・ 

 When you're down and out
 君がうちのめされた時
 
 When you're on the street
 道の途中で立ちすくむ時
 
 When evening falls so hard
 夕暮れに落ち込みそうな時には・・・
 
 I will comfort you
 僕が君をいやそう

 I'll take your part oh when darkness comes
 痛みばかりが続いて、この世が闇と感じる時には 

 And pain is all around
 僕がそばにいよう
 
 Like a bridge over troubled water
 激流に架かる橋のような

 I will lay me down
 そんな存在に僕がなろう・・・ 
 
 Sail on silvergirl sail on by
 銀髪の少女よ、船出しよう

 Your time has come to shine
 これからが君の輝く時だから

 all your dreams are on their way
 君の持っている夢に向かっていけばいい

 See how they shine oh if you need a friend
 その光に満ちた夢を、わかってくれる友はきっといる 

 I'm sailing right behind
 さぁ 僕が背中を押してやろう

 Like a bridge over troubled water
 激流に架かる橋のように

 I will ease your mind
 僕が君をいやしてやろう・・・

 Like a bridge over troubled water
 激流に架かる橋のように

 I will ease your mind
 僕が君をいやしてやろう・・・



troubled water は、ヒトの状態を表す場合によく使われるようですが、今のこの時期の日本では、様々な響きを持って私たちに、うったえてくるように思います・・・

リアン・ライムス(LeAnn Rimes)の声で聴く、この曲がとても好きです。
ヘボい訳詞で恐縮ですが、歌詞を追いながら聴いていただければ、幸いです・・・。


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Wednesday morning , 3 AM / Simon & Gerfunkel

多分、サイモンとガーファンクルの「水曜の朝、午前3時」を聴いたのは、兄貴がLP版を買ってきた、小学生の頃だったと思います。

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このジャケットを見て、「ふ~ん。午前3時。早いねぇ・・。ニューヨークっていうところは、夜中の3時でも こんな風に地下鉄が走ってるとばい。すごか!」・・・ぐらいにか思っていなかった。
当然英語はわからないし、曲調も軽快なので、「爽やかな、早起きの唄」だろう・・・と勝手にイメージを持ってしまっていたのです。

ところが、しかし。この曲、ご存じの方も多いかと思いますが、曲調とはかけ離れた、とんでもない内容の歌詞となっています。
ネットを探してみても、自分にすっと入ってくる訳詞が見つかりませんでしたので、また無謀ながら、自分で訳詞を書いてみることにしました。




Wednesday Morning, 3 am
Paul Simon 1964



水曜の朝、午前3時
ポール・サイモン

I can here the soft breathing of the girl that I love            
As she lies here beside me asleep with the night
And her hair in a fine mist floats on my pillow
Reflecting the glow of the winter moolight

夜の闇の中で、横で眠っている君の静かな寝息だけが聞こえている
枕の上に波打つ君の髪が、冬の月に照らされて輝いている

She is soft, she is warm,but my heart remains heavy
 And I watch as her breasts gently rise gently fall
For I know with the first light of dawn I'll be leaving
And tonight will be all I have left to recall

君はやわらかく そしてとても あたたかい
でも僕の心は鉛のように重い
なぜなら君の胸が静かに上下するのを見ていても
今夜が二人にとって最後の夜で 夜明けとともに僕は
ここを出ていかなければならないことを知っているから

Oh, what I have done why have I done it
I've committed a crime I've broken the law
For twenty-five dollars and pieces of silver
I held up and robbed a hard Liqur store

まったく 僕はなんてことをやってしまったんだ!なんてことを・・・
僕は罪を犯してしまった 法を破ってしまったのだ
たった25ドルと数枚の銀貨のために
うらぶれた酒屋に強盗にはいるなんて

My life seems unreal my crime an illusion
A scene badly written in which I must play
Yet I know as I gaze at my young love besides me
The morning is just a few hours away

こんなのは嘘だ 僕の犯した罪は幻想だと言ってくれ
僕にしむけられた 悪い芝居のひとコマだと・・・
それでも わかってる
愛する君を見つめる僕に 
もう朝までそれほど時間が残っていないということを・・・


この曲の背景は、わかりませんが、何となくイメージのもととなった事件なり、手記なりがあるような気がしています。
そして何より感じるのは、この曲の中に表されている
「彼女をいとしく思う気持ち」 と 「金欲しさに強盗をやってしまったことに対する罪悪感」
というものは、全ての人の心の中に、常にあるものではないかということです。

金の為にすさみきった心と、人を愛するという豊かな心。ともに、その時代の若者の心情というものをうまく反映させているように思います。
歌詞の中の青年は、心情として十分罪を悔い、償っていると思うのですが、さてこの後朝がきて、どうするのか・・・というのを考えてみるのは、なかなか興味深いことであるように思います・・・




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本田 路津子さん

ほんだ るつこさん・・・・恥ずかしながら、私はずっと「ろつこ」さんだと思っていました。

この人の声が好きである。昔から。
特に本田さんが歌う「今日の日はさようなら」がいい。

ちょっとwikipediaで調べてみると・・・・

日本の元フォークシンガー、現ゴスペルシンガー。福岡県大牟田市出身。その後、家族(当時両親、妹)と共に、新潟県に転居し、桜美林大学附属高等学校入学と同時に、東京都町田市に単身で転居。その後、桜美林大学に進学。 路津子の名前の由来は、両親がキリスト教徒であったので(本人は結婚するまでキリスト教徒ではなかった)、旧約聖書の「ルツ記(英語ではルース)」に出てくるボアズの誠実な嫁ルツからとったものと言われている。本来のキリスト教での表記は「路律」であるが、路律子ではあまりに難読となるため、路津子にした、とのことである。「路」の字は「路加(るか)(英語ではルーク)(ルカ記)」という読み方でも知られている。

「大牟田」、「カトリック」は私にとって非常に興味をそそられる?キーワードです。加えて、影響を受けたのが、ジョーン・バエズ、ピート・シーガー・・・益々惹かれますね



小学4年の時、6年の兄のクラスのハイキングについていったことがありました。
担任の先生がとてもいい先生で、男子も女子も、みんなで、賑やかに遊んだ最後、みんなで車座になりました。
そこでみんなで歌ったのが、この「今日の日はさようなら」でした。
その時のみんなが、とても自然ないい顔をしていて・・・。きっといい先生だから、こんな風な感じに自然になるんだと、子どもながらに思いました。
その時以来、私にとって「いい先生」とは、その先生であり、そのかすかな後ろ姿を目指して、後に自分も教師になったように思います。

それから時は流れ、その先生は、長崎に原爆が落ちたとき、まだ少女で、自分は無事だったのだけど、まわりに大怪我をした人や、水を求めながら死んでいく人たちを目の当たりにしたのだと、だいぶ後に新聞の「被爆体験」欄で知りました。

子どもたちの信頼を集めながら、平和を求め続ける凛とした芯を持ち続けた、ひとりの先生。
こういう教師像も、今では随分「まぼろし」となってしまったような感があるのがちょっとさびしいです・・・

本田さんのゴスペル、いつかどこかで聴いてみたいです。

「 七つの水仙 」 ブラザース・フォア

ひと月前くらいから、なぜかこの曲が頭の中に時々浮かんできます。なぜかは、わかりません。
正月、実家に帰った時に、ブラザース・フォアのCDが目に入ったので、この曲をボリュームを大きくして聴いてみました。
・・・やっぱりよかった。
曲をかいたのは、リー・ヘイズという人物。
反戦フォークシンガーであり、また政治活動家であって、アメリカ当局からブラック・リストに挙げられるということもあったようです・・・。
この人物のことを詳しく読んでみたいのですが、英語版のwikipediaしかなく、私の英語力の弱さを今更ながら、恨めしく思いました・・・。

「 七つの水仙 」 1957年 作詞・作曲リー・ヘイズ  訳詞:江島

I may not have mansion,
わたしは豪邸なんて持てない

I haven't any land
土地も持っていない

Not even a paper dollar to crinkle in my hands
しわくちゃにするドル札すら持ってない

But I can show you morning on a thousand hills
でもわたしはあなたに
1000の丘にのぼる朝を
見せてあげられる


And kiss you and give you seven daffodils
そしてキスと7つの水仙をおくろう

I do not have a fortune to buy you pretty things
あなたにアクセサリーを
買ってあげられる富もない

But I can weave you moonbeams for necklaces and rings
でもわたしはあなたに
月の光を織って
ネックレスや指輪を
つくってあげられる


And I can show you morning on a thousand hills
それからわたしはあなたに
1000の丘にのぼる朝を
見せてあげられる


And kiss you and give you seven daffodils
そしてキスと七つの水仙をおくろう

Oh seven golden daffodils all shining in the sun
陽光に輝く金色の七つの水仙は

To light our way to evening when our day is done
一日の終わりの夕暮れ時に
私たちの帰り道を照らしてくれる


And I will give you music and a crust of bread
そしてわたしはあなたに
ひとかけらのパンと音楽を・・・


And a pillow of piny boughs to rest your head
それから松の枝の枕をおくろう
あなたが休むための枕を・・・



「親父の一番長い日」「案山子」 さだ まさし

今年のワールドカップの一番の思い出は、息子と一緒にTV観戦できたことでした。深夜の放送帯では全部観るのは無理でしたが、それでも「観たい!」と言っていた気持ちがうれしかったりしました。自分の少年時代とやっと息子の代とがつながった感じというか・・・。
そしてキャプテンの長谷部という選手は記事にもピックアップされていましたが、本当に誠実な人柄がにじみ出ていて、好感が持てました。
試合前、エスコートの子どもに何やら話しかけてやってる姿が確認できたのは、この長谷部選手だけでした。またドイツリーグ、ブンデスリーガに帰っても頑張ってほしいものです。

ついこの間まで、下の子はべったりひっついて、離れない子?でした。
時間があると、毎日のように量販店の中にあるペットショップへ子犬や小動物を見に行ってました。それは、二人で無料のミニ・動物園に行っている・・・という感覚でした。今ではその子も、もう学校から帰ると友達のところへすぐ行ってしまうようになりました。
子どもが育つということは、同時に親からの距離も徐々に離れていくことであり、それは大事なことなのだけど、思ったより「その時は」突然?であり、そこに戸惑ってしまう・・・というのが実感です。
この間死んだネコも、前日まで歩きまわっていました。 「何かが変わる」というのは本当に「あっと言う間」・・・・・のような感じがします。
そういうのは、多分いつまで経っても慣れることはないのでしょうが。

さだまさし氏の↓、この2曲が今、「親」として本当に身にしみます・・・・・。
そして、この2曲、個人的に日本の文化遺産的な楽曲であるように思うのですが・・・・・・

「親父の一番長い日」



「案山子」



プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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