アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

対州馬

三池炭鉱・宮原坑において、坑底に下げられた対州馬などの坑内馬は、囚人坑夫たちの不満を抑えるための見せしめとして敢えて残虐な扱いを受けた

武松輝男さんという、三井三池炭鉱で働かれていた方がおられまして、もう亡くなられてしまっているんですが、この方すごい方でして、どうすごい方かは、またいつか話していきたいと思いますが、この武松さんが描かれた「坑内馬と坑内馬と馬夫と女坑夫 地底の記録−−呪咀」とう本があります。

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この本が、もしこの世に無ければ、炭坑の坑内で働かされた馬たちのこと、とりわけ三井三池炭鉱の宮原坑で残虐な扱いを受けた対州馬を中心とする在来馬たちの真実は、文字通り坑底の闇の中に永遠に葬り去られていたでしょう。

 

武松さんの執念ともいえる取材が、そして深い地底で無念の死を遂げていった馬たちの魂が、今私にこうして語らせていると言っても、何ら誇張はありません。

残念ながら、この本。出版社が無くなっていることで絶版となっており、もう古書か図書館でしか見ることができません。

 

思えば、私の対州馬との出会いそのものが、何か見えない力によって、三池炭鉱宮原坑に導かれるための伏線であったような気がしています。

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長崎原爆投下時、疎開など人々の移動の際の主力は、馬だった

これは長崎に限ったことではないのですが、終戦間際は、戦艦や戦闘機の燃料すら不足していたくらいですから、本土の一般人が使用できるガソリンなどの燃料はまったくありませんでした。

ですから、本土空襲が激しくなって、都市から周辺地へ疎開する場合に、主力となったのが「馬車」でした。

原爆投下前に母とともに市内から長崎市北部にあたる長与町高田郷に疎開した愛敬 恭子さんの著書「被爆哀歌」には、その時の様子が綴られています。

・・・私の家は長崎市の南西地には国鉄浦上駅や兵器工場があり、四月頃から強制疎開によって周辺は段々と人の姿が見られなくなってきていた。
母はひしひしと危険を感じていた。しかし、疎開できるあてもない。親戚を頼ろうにも身重の母が相談に出向くには遠すぎた。
そんな時、父の知人が疎開先を世話してくれたのである。そればかりか、混乱の最中に入手困難な荷馬車の手配から荷造りまで手伝ってくれた。
そのおかげで小さな荷馬車に、家具や布団、そして着物と台所用品などの生活に必要な最小限度の品物を乗せて疎開することができた。

愛敬恭子著 「被爆哀歌」より

愛敬さん母子が疎開して47日後に原子爆弾が投下されます。

「長崎は地獄だそうだ」
地獄と聞いては母は、身震いしたという。
(疎開しないでいたら今頃は・・・・・・)
私たちがいる高田郷は、長与村内でも長崎に一番近い位置にある。
真昼だというのに黒煙が上がり空が赤々と燃えているのがはっきりと見えた。家族や知人を思い、泣きだす人もいた。
(馬車ひきの小父さん、大丈夫だろうか)
母が呟いた馬車ひきの小父さんとは、私たち親子が疎開するときお世話になった知人のことである。

愛敬 恭子著 「被爆哀歌」より

愛敬さんの父は、外地に出征していました。
父親や夫がいない内地にあって、力自慢の馬たちは頼もしい存在だったと思うのですが、文中に出てくる方と馬もおそらく無事では無かったことでしょう。


被爆前の長崎市内の地図を細かく復元した、布袋 厚さん著「復元・被爆直前の長崎」の中には、確認できるだけでも7ページに「馬小屋」が見つかります。その多くは、市の中心部より北部一帯に多いようです。

現在の「ブリックホール」から電車通りを挟んだ向かいの狭い通りには「山口馬車」という建物があったことがわかります。

福田 須磨子さん著 「われなお生きてあり」の中には、翌8月10日の岩川町あたりの様子が書かれています。

真直ぐに岩川町の通りを進んでいく。
荷馬車があちこちにたおれているのが目につく。
この通りには安い飲食店が何軒かあった。馬車曳きたちのたまり場みたいな店で、店先に馬を止め秣(まぐさ)をあてがい、自分たちは飲んだり食ったりしている風景をよく見かけたものだ。
恐らく原爆の時も一仕事した連中が一休みしていたのであろう。
横倒しになって死んでいる馬、すかと思えば、まだ死にきれず、目を悲しげにまたたかせている馬、口から白い泡をブクブクとふいて荒い息をしている馬がごろごろしている。
死んだ馬も、シュッシュッ、シュッシュッと音を立てて肛門から白い湯気を噴き出していた。その悪臭は、昨日以来つきまとう悪臭とも違っていた。
何と言ったらいいのか、腐乱した動物の屍臭と、咽喉をつき刺すようなアンモニヤとを混ぜ合わせたような耐えられぬほどの悪臭である。

福田 須磨子著 「われなお生きてあり」より

戦時下、それも敗戦色濃厚という苦しい時代にあって、人のために汗を流して働いた、何の罪もない馬たちが、かくも無残な目に遭ったという事実には、胸が掻きむしられる思いがします。


布袋さんの本の中で確認すると、私自身幼い頃から今も、何百回と通行している道路上にも「馬小屋」があったことが判りました。
現在の地図と照らしてみると山里小学校に近い、岩屋橋の辺りです。

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住𠮷方面から進むと、「岩永時計店さん」の手前辺りです。
この場所を通過する時には、亡くなった多くの馬たちのために祈りたいと思います。


馬小屋

私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その⑥

馬という生き物にハマる


初めて会った対州馬という馬は、対馬の原産で、日本における在来馬8種の中の1種です。
私の住む長崎市はほとんど平地のないところで、港を取り囲む山の斜面地にへばりつくように街が広がっています。斜面地を蜘蛛の巣のように這う小径は、階段状になっている場所も多く、地元では坂段(さかだん)と呼ばれています。
当然車両などは入ることができず、坂の街に家を建てたり、道路や墓所を築く時には往生することになります。そこで重宝されたのが荷運び馬として適していた対州馬なのです。
しかし、この時点で現役の馬搬による荷運び業者は、既にゼロとなっていました。
ともかく話でも聞きたいという胸いっぱいに膨れ上がりました。

今、私は妻や子どもたちから「ウマくん」と呼ばれていますが、その第一歩がここから始まったのでした。


2009年の2月まで長崎市で最後の馬搬業者としてがんばっていた方を探し当て、荷運びの話を聞いたり、そのまま残されている厩舎(馬小屋)を見せてもらったりしました。
話を聞くことができた元・馬方さん達というのは、どなたも大変感じのいい方ばかりでした。どこの馬の骨ともわからない者の質問にも丁寧に応えてくれました。そのことで、益々私は対州馬=荷運び馬に惹かれていくことになりました。
最後の馬方さんが使われていたのは、残念ながら対州馬ではありませんでした。廃業後に或る施設に譲ったという2頭は、道産子のミックスと木曽馬でした。
私は当然、その2頭を訪ねて行き、その施設の引き馬を手伝ったり、数十キロを馬と一緒に歩くイベントに参加したりしました。


その中で、簡単な馬の調教にも触れたのですが、教えてくれたのは「馬好きの乗馬が趣味」程度の人だったので、色々とうまくいかないことを目の当たりにしたりする内に、調教に関する疑問も湧いてきて、調教に関する資料を手あたり次第に探しました。


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私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その⑤

対州馬との出会い


イラストレーターの仕事をしている時に、地元新聞社の仕事で県内の各地を舞台にしたイラスト&エッセーの「ぼくの子ども絵日記 ~ ながさきの四季」という連載を持つ機会が3年間ほどありました。
その連載の取材の為に、県内を離島を含め隅々まで周ったのですが、大村市に行った時に、ある山中のカフェで一頭の対州馬に出会いました。
長崎市で対州馬が街中で荷運びをすることは知っていたのですが、それまで対州馬に対して熱狂的な興味があるというわけではありませんでした。
初めて間近で見る対州馬はけっこうな歳の牝馬でした。柵のところへ近寄っていくと、私の方を注目しているのですが、近寄ってはきません。
名前は知っていたので、その名前を何度か呼んでみました。すると最初はモジモジしていたのですが、ゆっくり私のところまで歩いてきました。
そして、顔を私の体に擦り付け、まるで犬か猫のように甘えてきたのです。着ていたジャンパーの裾を噛みますが、馬本来の強い噛みではなく、遊ぶように軽く噛んできます。
私は完全にこの馬に惚れ込んでしまいました。惹き込まれてしまいました。
それからは、私の中で「対州馬」という存在が大きく膨らんでいきました。

後から思えば、ここでまた私の壮大な「買い被り」が起きたのかもしれません。



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長崎で役馬として働いた荷運び馬の馬装

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長崎の街で建築資材や墓石などを運んでいた「荷運び馬」の馬装をイラストにしました。
こういうものでも、残しておけばいつか役に立つこともあるかもしれないので。


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私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その④


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学校と教師とHSP


対州馬につなげる為に、もう少し私自身のことを話したいと思います。
先日、娘が通う高校で三者面談がありました。いつもは私の妻が参加するのですが、今年はコロナ・ウィルスの影響で妻が職場を抜けられなかった為です。
実は私の娘も自身で「私はHSP!」と公言しているのですが、普段から担任教師の事を毛嫌いしていることはよく判っていました。
「これは下手すると担任と激論になる。それだけは何としても避けたい!」と思っていた私は、前日たまたま観た「大草原の小さな家」の再放送の中で父親チャールズが示したような寛容な態度を心がけて(笑)面談に臨みました。


そのおかげか、最後まで穏やかに面談を終えたのですが、その担任の言動・価値観以前の人柄は「教師の前に、人として最低」なものでした。
私自身が教師として何度も三者面談を経験していますから、一般の方よりは客観的にその面談を測ることができると思うのですが、簡単に言うと、その面談は時間内ずっと娘に対してネガティブな内容を話し続けるような内容でした。

そしてその担任が放ったある言葉が印象的でした。「娘さんは、私との連絡帳に一言ぐらいしか書かないんですよね。それから、クラスの前で私が話すときに他の子よりリアクションが無いんですよ。社会に出たら、もう少しその辺をどうにかしないとね」と。これはまるで「芸人の私がネタをやっているのに、ちっとも笑わないじゃないか。なぜもっとリアクションしないんだ!」というような話に聞こえました。
つまらない、面白くないからリアクションしないのに決まっているのに、自分のネタに問題があるのではなく、笑わない観客にあるのだというようなものです。

私は内心「なぜこの教師は、自分が受け入れられてないし、娘との間に信頼関係が構築されていないから日誌の言葉が少ないのだし、リアクションもしないのだ」と思わないのか、不思議というか滑稽でした。私自身は教師として授業をしていた時に、常に授業を受けている生徒たちの表情を見ていました。真剣に聞いている時は表情が違っていましたし、つまらない時には眠そうな顔。それが自分にとっての授業の内容・質のバロメーターでした。日誌についても同じで、大きな学校の時は15クラス45人全員、つまり600人くらいと日誌を交わしていました。当然、何も書かない生徒も沢山いますが、私は授業を合間を見つけて、かならず全員に一言書いて返していました。そんな生徒がある時、「今日は楽しかった」と一言書いているのを見つけると、教師として大いに励まされ、やり甲斐を感じました。
面談の最後に少し時間があったので、そのようなことを担任の先生にやわらかくかいつまんで話しました。担任は「はい。」と言ってただうつむいていましたが、おそらく内容などちっとも入っておらず、ただクレームっぽい親が何か言ったぐらいにしか伝わっていなかったでしょう。

こういったこともアーロン博士らのHSPを用いれば、見事なほど完璧に説明がつきます。
また、私が両親や兄について同じような違和感をもっていることも25%ということから妙に合点がいきます。

私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その③

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「買い被り」は昔のことだけではありません。
数々のアルバイトでは、「応募する前と実際では大違い」といったことは、おそらく誰もが一度は経験したことがあるでしょう。
しかし、ある語学学校の校長職も十分この「買い被り」によって落胆させられた事例に該当するものでした。
私は開校申請前の校長職としてある会社から招かれました。
教育学部卒で実存主義やフリー・スクール構想について仲間と学んだ経験のある私は、外国の青年たちにとって「真の教育」を与えられる学校を創ることができると信じて、各資料を練り上げ、文部科学省までヒアリングに行きました。
運営会社の社長の肩書はそれこそ、立派なものが幾つも並べられていました。
その社長が参加する姿を一度も見たことも聞いたこともない、不登校の生徒たちが通うフリースクールの理事とか、県内の青年協議会の会員とか。
そこでも、またもや「買い被って」しまったのです。
開校後、目の当たりにした現実は、「酷い」を遥かに超えた「悲惨」なものでした。
これは、あくまで私のいた日本語学校の話ですが、ネパールやインドなどのアジア諸国において、学校と契約した現地ブローカーが『経済力のある日本に行けば、留学生ビザでアルバイトができる。その稼いだ金で生活費はもちろん次の学費(100万円とか)も工面できる。更には、母国の家族に仕送りもできる』などと言って巧みな嘘で騙し、一生かかっても返せないような借金を負わせた上で日本へ留学させます。
家族や一族は日本円に換算すると1000万から1500万というお金を借金するために土地や建物を担保にします。おそらく利息も日本では考えられないような額になるはずです。
そんなことをして日本にやってきたアジアの若者たちがどんな悲惨な運命をたどるか、詳しくは本題からあまりにそれてしまうので、ここではやめておきます。
私が「校長として未来のあるアジアの若者の人生に寄り添える」と思った買い被りは、実際は生活費にも苦労をし、借金の為に帰国することもできないという地獄にすり替わってしまっていたのでした。校長の権限を持ってしても、その状況を覆すことはできませんでした。
「月に1万5千円の家賃が払えない」と担当教員に相談した外国人生徒に、担当教員が「お金を〇日までに払わないなら、部屋を出て、近くの公園で寝てください」と答えたのが、私は人として許せませんでした。それは運営会社の指示で言わせられたことでした。生徒は泣きながら私に訴えてきました。
「そういう言葉を言うのは、悪いことですよね?」と。私はうなづくしかありませんでした。

私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その②

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親戚や親兄弟に対してもほぼ同じような感情があります。
親というものは、どんな人にとっても無二の存在ですが、それが故にその存在は幼い頃にとっては絶対的な影響を与えますね。
私の場合、家庭に特に虐待や極度の貧困という問題はなかったものの、基本的に次男である私は「特に興味を持たれない」という存在でした。それは基本今も変わっていません。


今、HSPという言葉がメジャーになりましたね。これは「ハイリー・センシティブ・パーソン、とても繊細に感じる人」という意味でアメリカのエレイン・アーロン博士が提唱したものです。説明によると人類の約20%にあたり、タイトルにある馬という動物ももHSPにあたるとされています。率直に言うと、私はHSPのど真ん中に(?)いると思っています。
しかし、このアーロン博士による提唱はとても有難いことです。この提唱のおかげで、実に何十年も解けなかった人生の疑問が解けてきました。

話を戻し、もう少し「買い被り」について述べてみます。
私は幼い頃、「大人やその大人たちが築く社会は、とてもよくできたものに違いない」と勝手に思い込んでいました。
幼稚園の時、クラスの前方にある教卓の陰で1人ずつ下半身を露出させ、肛門に蟯虫検査の

テープを押し当てるシスターの行いも、
小学生の時、工事を見物していると、遠くの商店まで「タバコを買ってきてくれ」と言ってお金を渡し、走って買いに行ってきたのに、駄賃も何もくれなかった工事のおじさんの行いも、
同じく小学生の時に大人気だった「仮面ライダー」スナックを買ったのに、必ずもらえるはずのライダー・カードを「カードは無かよ」と言い放った店のおばさんの行いも、
同じく小学校で好きな方だった男の担任がある時、浅野くんというクラスメートがちょっと何かしらの問題を起こした時に「忠臣蔵では、浅野内匠頭が悪い奴だったから、同じ名前のお前も悪い奴だ!」と叱ったその行いも、
そんなことは枚挙にいとまがないのですが、「よく出来ているはずの社会の大人がすることだから」と自分の中に違和感を感じながらも自分の中に押し込めていました。

私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その①

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生い立ちとHSP

タイトルの内容について語るには、少々大げさな言い方かもしれませんが、私自身の生い立ちを述べなければなりません。と言っても、馬に関するドラマティックなエピソードがあるというわけではないのですが。
まず第一に私は生来、「大概、買い被ってしまう」というところがあります。
それは人に対してはもちろん、社会やその仕組みに対してもそうだと言えます。
「買い被る」=「期待値が高すぎる」と言い換えてもいいかもしれません。例えば、今の時代だと昔の友達や仲間とSNS上で再開し会話をする、或いは直接会うということも可能になりました。今現在も高校や大学時代の友人とSNSで繋がってはいますが、正直言うと改めて目の当たりにする友人の人柄・意識の稚拙さにがっかりすることが、かなり多いです。
失礼ながら、「彼(彼女)は、大学時代からまったく成長してないんだな」と思ってしまいます。もちろんそんなことを直接言うと相手は激怒するでしょうから、そういう場合はこちらから連絡もせず、リアクションもしないので、そのうち関係はほぼ枯れていきます。それでも尚、形だけの「友だち」は残り続け、こちらが求めてもいないのに、その日食べた食事の画像を見せられたり、宴会で酔っぱらった醜態などを見てしまった時には、SNSで再会してしまったことを激しく後悔することになります。SNSはその人の頭の中、意識しているもの、感じているものを如実に映し出してくれますので。

対州馬の飼養と調教 36「 イノシシは対州馬にとって害があるか 」

害はありません。山の中の放牧地でも新しい放牧地でも、山中に餌が不足しているのか、ひん太のすぐ傍までイノシシはやってきました。
最初の放牧地では、その強大な力とイメージに恐れをなし、ひどく心配になり、対馬の保存会などに対策情報を求めました。その時、「ラジオをかけっぱなしにすると効果がある」と聞いたので、夜中など放牧地を離れる時には防水ラジオを馬が触らない場所に置いておきました。近くの畑所有者は鉄製の檻を仕掛け、猟友会も動き回っていると言っていました。しかし、結局何もおきませんでした。
新しい放牧地はかなり民家の傍なのですが、ここにもイノシシはやってきました。親一頭の時は、私の姿を見ると逃げるのですが、ある時子どものウリ坊を連れた母イノシシが姿を見せるようになりました。母イノシシは、やはり子どもを守ろうとするのか、逃げません。しかし、イノシシは馬に何もしないし、馬とイノシシでは共通する食料もないので、放っておきました。ある時、ひん太を曳いて外にいる時にこの親子に出くわしました。ウリ坊はさっさと藪の中に逃げたのですが、母イノシシはこちらをずっと見たまま動きません。さすがに自分より大きな馬が近づいてきたら逃げるかと思い、ひん太を曳いて少し母イノシシの方に歩いたのですが、母イノシシはまったく動じることなく動きませんでした。直観的に「これ以上進めると、ウリ坊を守るために突っ込んでくるな!」と予感し、引き返すことにしました。結局、このニアミスもまったく問題ありまんでした。イノシシだって馬と同じ生物ですから、何もしないのにやたら攻撃してくることはないと私は確信しています。我が子を守ろうとするのは、それこそイノシシも馬も、そして人間も同じでしょう。ただ私はミミズなどを掘っている時に間違って柵内に入ってしまうと、馬が興奮して怪我する可能性も完全に否定できないので、柵に動物除けのスチールネットを巡らせていました。これは、馬が頭を柵に挟む事故を防ぐ意味の方が大きかったのですが。
私は正直言って、SNS上でイノシシなどを仕留めて、その亡骸を得意げにさらすような人間がすきではありません。むしろ馬にとっての一番の害であり、脅威は何をしでかすかわからない人間の方なのです。

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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
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