しかし、子どもに布団の上で読み聞かせするのにはちょうどいいサイズだと思います。
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長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!
第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。1945年5月、沖縄戦で歩兵と同行中、日本軍の砲弾の爆風により全身を負傷し、約2年の療養生活を送り、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、スミスは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。
1954年には『アルベルト・シュヴァイツァー A Man of Mercy』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。
1961年、PR写真撮影のために来日。
1970年、アイリーン・美緒子・スミスと結婚。ともに、チッソが引き起こした水俣病の汚染の実態を写真に撮り、実際に座り込みなどにも参加するなど、世界にその悲劇を伝えた。1972年1月、千葉県のチッソ五井工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が会社側の雇った暴力団員に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生する。スミスもカメラを壊された上、脊椎を折られ片目失明の重傷を負う。この事件でスミスは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。その後『ライフ』1972年6月2日号に「排水管からたれながされる死」を発表し、大きな反響を得た。
1977年12月、脳溢血で倒れる。翌年奇跡的に回復し、セミナーを行うまでになったが、1978年10月15日にアリゾナ州トゥーソンの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、致命的な発作を起こし死去。59歳。
《参考リンク》
刻む 水俣と表現者たち<3> 世界へ 気づかせるのが強さ 写真家 W・ユージン・スミス(西日本新聞)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20060907/20060907_028.shtml
MAGNUM PHOTOS
http://www.magnumphotos.com/archive/C.aspx?VP=XSpecific_MAG.PhotographerDetail_VPage&l1=0&pid=2K7O3R139C2T&nm=W.+Eugene+Smith
最も有名な写真の1枚として、水銀に冒された少女をお風呂に入れる母親のものがあります。彼女は智子ちゃんといい、胎児性の患者でした。
智子さんは1977年に21歳で亡くなっていますが、それはユージンが倒れた年と重なっています・・・・・。彼女の死後、何度も使われた写真に対し、母親は「もう智子を休ませてあげたい」と言われたそうです。よくわかります。この写真は簡単に掲載したりする性質のものではなく、一人一人が記憶の中に焼き付けなければならないものだと、私は考えています。
そして、ヒトの親となった今、その写真から語りかけてくる言葉はずしりと重みを増してきます・・・。
尊敬してやまないユージンだが、私が一番好きな彼のポートレートは、下の1枚なのです・・・・・。誰が撮ったのだろう・・・・