南島原市加津佐町津波見(つばみ)名。島原半島の観光地である小浜温泉のある雲仙市と南島原市の境付近にある小さな集落であり、半島の南端である口之津へ向かう251号線からは集落がよく見えない為、その存在を知らずに通り過ぎる観光客も多いと思います。
251号線沿いに立っている「本朝二十四孝の一人安永安次生誕の地」と記された看板から山側に入るとすぐに集落が現れました。
その中心に建っているのが、南島原市立津波見(つばみ)小学校です。
コンクリート造の校舎の前には、平屋の木造校舎がまだ現役で使用されています。
平成25年10月現在、児童数12名ですが、H14-11人、H15-7人、H16 -10人、H17 -13人、H18-12人、H19 -13人、H20-16人、H21-17人、H22-15人、H23-18人、H24-15人とここ10年は横ばいで推移していました。しかし、残念ながら津波見小は、統合の為、残り数ヶ月で創立130年という長い歴史に終止符を打つこととなります。
長崎の街で・・・
加津佐町より山手にしばらく走ると山口小学校の敷地が見えてきます。
初めて目にした山口小学校は・・・。
恥ずかしながら、このような「映画の中にしか出てこないような」木造校舎の小学校が長崎にあったとは、知りませんでした。
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伝説を非常に要約すると、雲仙から近い場所にある岩山、高岩山には「雲仙に腰かけて、高岩山に足を乗せる」ほどの大男がいて、普段は人々から好物の味噌を貰って暮らしているのだけど、ひとたび水害などの天災が起きると、人々の為に活躍するというものです。
その伝説の高岩山の麓に抱かれた里に「塔ノ坂(とうのさか)」という集落があります。よほど親類か知人がいない限り訪れることもないような山の中の小さな集落ですが、その集落の中の小さな分校が閉校するという記事を見て、最後の一日を見ておきたいと思いました。
島鉄バス「塔坂入口」から下る細い道が塔ノ坂へと続く道です。
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写真を撮ったのは24年3月21日。次の日が終業式ですので、この日が「授業のある普通の日」ということになります。
ぜひ子どもたちの普通の様子を見ておきたいと思い、出向いてみました。
校地のすぐ横を流れる多以良川は護岸こそブロックで整えてありますが、自然な状態の河川が残されており、まさに「ビオトープに抱かれた学校」という印象です。きっと四季を通じて様々な体験学習がこの場所で行われ、多くの子どもたちにとって想い出の多く残る場所であることでしょう。
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西海市では他に、炭坑で栄えた松島の松島小学校と多以良小学校が実質閉校し、瀬戸小学校と合併、平成25年度から瀬戸小学校校地にて「大瀬戸小学校」となります。
おそらくメディアでは地元誌に小さな記事として載るだけのことでしょう・・・
雪の降った1月のある日。今ある同校を訪ねてみました。
市内ではまったく冠雪しなかった雪も、同校のある山間に近づくにつれ深く積もり、125ccのバイクのタイヤが横滑りしながらノロノロと進んでいきます。
そしてやっと分校前に到着。路上の雪もなくほっとしますが、遠く望む山並みはうっすらと雪化粧をしていました。
本当に周りには何もない田畑の中にその建物が見えました。
さいかい交通バス「分校前」バス停から幸物分校への小路が続いています。
何とも親しみの持てる手作りの看板が迎えてくれました。
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しかし子どもの頃、目にしていた夜景は下の画像のようなもので、今とは随分違っていたように思います。(画像は昭和30年前後頃の絵葉書より)
まだ高いビルやマンションなどがなく、灯りのひとつひとつは家々のもの。それも青白い灯よりほのかなオレンジの灯が多かったように思います。
それがすり鉢状に港を囲み、山々の上の方まで続くというものでした。たとえ世界三大夜景であってもなくても、夜景はこの街の大好きなものであり、他県の方に見て欲しいという思いがありました。
それは子どもながらにも、「あの灯のひとつひとつが人が生活をしている灯なのだ」という、温かみに似た感情を抱いていたからだと思います。
(以下は2015年3月頃撮影)
山田 洋次監督の名作シリーズ「男はつらいよ」の中で昭和48年に公開された「男はつらいよ・寅次郎忘れな草」の中の1シーンに、次のようなやりとりがあります。
場末の歌手・リリーと寅次郎が網走で出会った時の会話です。
網走に向かう夜汽車の中で、涙を拭くリリーのことを寅次郎が見かけ、商売の途中で二人は偶然出会います。
寅 「どうしたい、昨夜は泣いてたじゃないか。」
リリー 「(笑って)あら、見てたの、嫌だ」
寅 「何か辛いことでもあるのか」
リリー 「別に・・・ただなんとなく泣いちゃったのさ」
寅 「なんとなく?」
リリー 「うん、兄さんなんかそんなことないかな・・・・夜汽車に乗ってさ、外見てるだろう、そうすると何もない真っ暗な畑の中なんかにひとつポツンと灯りがついていて、ああこんなところにも人が住んでるんだなァって、そう思うとなんとなくもの悲しくなって涙が出ちゃいそうになる時って、ないかい」
寅 「うん、こんなちっちゃな灯りがスーッと遠ざかっていってな・・・・・ああ、あの灯りの下は茶の間かな、もう遅いから子供たちは寝ちまって、父ちゃんと母ちゃんが二人でしけたセンベイでも食いながら紡績工場へ働きに行った娘のことを話しているんだ、心配して・・・・・暗い外を見てそんなことを考えていると汽笛がポーッと聞こえてきてよ。なんだかふーっと涙が出ちまうなんて・・・・分かるよ」
「灯り」には、そんな想像をかき立てるものがありますね。
山の斜面にはり付くように建った家々の灯りこそが、「長崎の夜景」というイメージが今でも私の心の中に焼きついています。
ところが、今の夜景は巨大な橋のライトアップやイルミネーションはあっても、小さな家々の灯は随分と減ってしまいました。
高層ビルやマンションの規則的に並ぶ青白い光だけがやけに目につきます。
「懐かしい長崎の灯」がずっとこの街にともり続けることを願ってやみません。
〇募集期間
平成24年10月1日(月)~平成25年1月11日(金)
〇資料の応募・問い合せ先
佐々町役場 企画財政課 企画班
「町制70年の歩み~炭鉱・国鉄松浦線とともに~(仮称)」資料収集係
〒857-0392
長崎県北松浦郡佐々町本田原免168番地2
TEL(0956)62-2101/FAX(0956)62-3178
e-mail sazatyo@io.ocn.ne.jp
佐々町役場HP
※くわしくは、下記チラシをご覧ください。
「町制70年の歩み~炭鉱・国鉄松浦線とともに~(仮称)」映像制作事業資料募集チラシ
(PDF:16.47メガバイト)
町制70周年を迎えるという、北松浦郡佐々町。下図をご覧になればわかる通り、平成の大合併の際、近隣の町は佐世保市や平戸市と合併という道を選んだのですが、同町はそれをしませんでした。結果、このように、佐世保市に周りをぐるっと囲まれたような形となっているわけなんですね。
しかしながら、合併しなかったからこそ、町独自の記念行事も組めるし、貴重な記録である写真などを集め、実t来のために残すという行政が今回できた、ということでしょう。
佐々町~日鉄神田炭鉱跡
最後に良き鉱主と巡り会った、佐々町 佐々炭鉱
北松炭田の理想郷と謳われた報国炭鉱 ~ 北松浦郡佐々町
里山炭鉱 ~ 北松浦郡佐々町
小浦炭鉱 ~ 北松浦郡佐々町
北松浦郡佐々町~江里炭鉱
佐々町~住友芳ノ浦炭鉱跡をたずねて
松浦鉄道・神田駅 ~ 馬たちが送炭トロッコを曳いていた軌道
18両のSLを擁した、旧国鉄松浦線 佐々機関区
石炭積み出し港への盲腸線だった臼ノ浦線
ブログ内で佐々町にあった炭鉱については、この7鉱を取り上げましたが、佐々町はまさに「炭都」の名にふさわしく、中小の炭鉱が無数にありました。
ぜひ佐々町のプロジェクトをこのブログを通じて応援したいと考えております。心当たりのある方はぜひよろしくお願い申し上げます。
その他の佐々町にあった炭鉱名
・大岳炭鉱
・吉丸炭鉱
・鴨川炭鉱
・南山炭鉱
・佐々浦炭鉱
・立岩炭鉱
・岩瀬戸炭鉱
・高野炭鉱
・平原炭鉱
・鷲尾炭鉱
・一ノ瀬炭鉱
・高峰炭鉱
・川添炭鉱
・韮山炭鉱
・新但馬炭鉱
・矢羽津炭鉱
・大開炭鉱
・山口炭鉱
・芳ノ崎炭鉱
・古川炭鉱
・門前炭鉱
・椎葉炭鉱
・園山炭鉱
・大茂炭鉱
・平野原炭鉱
・黒灰炭鉱
・野後炭鉱
・吉ノ浦炭鉱
・末永炭鉱
・全仏炭鉱
など
高校時代の友人が岡郷の出身だったので、私はかろうじて場所の見当がつくのですが、ほとんどの人は車で通過していくだけで、その土地名も知らないだろうと思います。
しかしここに昭和55年まで長与小学校岡分校は確かにありました。
同町の図書館に何度も通い、資料を探しましたが、岡分校については簡単な沿革だけで、写真については、ついに1枚も発見することが出来ませんでした。
本当にこんな場所に分校はあったのでしょうか・・・・
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と思われるかもしれません。
しかし、長崎に生まれ育って半世紀、奉納踊りはテレビでしか見たことがありません。そして今後もきっと見れないでしょう・・・
画像にあるような山車というか曳き物を目に出来るのは、披露場所やあいさつ廻り(庭先廻り)の移動途中だけです。
踊り場や境内に設置された観覧席から奉納踊りや演技を見るには有料チケットが必要であり、入手も容易ではないからです。
従って、関東地方から嫁いできたうちの家内にとって、残念ながら「おくんち」は大不評となってしまっています・・・・。
何故そうなのか?・・・諸説あるようで一概には言えませんが、wikipediaにあるように、
『・・・この諏訪神事の奨励の背景にはキリシタン宗門一掃のねらいがあったと言われている。』という部分が大きく影響しているように思います。
長崎弁風に言うと「キリシタンもんは、かっちぇん(参加させない)。見てもいけん!」・・・というぐらいのものでしょうか。
現在はもちろんそういう意図は無いのですが、誰でも見れるわけではないというスタイルだけは、今も残っているということかもしれません。
しかし考えてみれば、今ある「長崎」の街をまず作ったのはポルトガル人達だと言っても過言ではないのですから、こういった過去の歴史は未来へ向けての1頁だと考えればよいのではないでしょうか。
(したがって、上のようなカトリック勢力であった南蛮船(ポルトガル船)の曳き物自体も大変めずらしい存在ということになります。)
そんな僕らでも「おくんち」と聞くとやはりこころ弾むものがあります。小学生の頃は学校が半どん(午後の授業打ち切り)になり、縁日に繰り出せるからです・・・
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数年前、朝日新聞で特集として掲載されたのが下の写真でした。
長年の農作業によるためか、随分と節くれだち、ごつごつとした「手」が写されていますが、これは長崎出身のアーティスト福山 雅治さんが、自分の祖母の手を生前に撮影したものです。
その写真には次のような文が添えてありました。(一部、違っている場所があるかもしれません)
『 長崎県大村湾沿いののどかな農村。この地で、女性は女手一つで子どもを育てた。
雨の日も風の日もひたすらみかん畑で農作業に励んだ。
楽しみといえば読書くらい。
常に自分のことよりも子どもや孫の幸せを願っていた。
人一倍苦労したはずなのに、いつも笑顔を絶やさない。
一緒にいるだけで、穏やかな気持ちになれる。そんな祖母が少年は大好きだった。
だから親の言うことは聞かなくても、夏休みは必ず祖母の家で農作業を手伝った。
そんな少年のまぶたの裏には、長年の農作業で荒れてしわだらけになった祖母の手が深く焼きつけられている。
少年は18歳になると、ミュージシャンを目指して上京。
やがてドラマやCMにも引っぱりだこの大スターになった・・・・(後略) 』
爪の間にまだ泥がこびりついているかのようなごつごつした手・・・。
人知れず働きぬいた「手」。こういった手こそが「長崎の遺産」ではないか、とふと思いました。
- (動画版)三池炭鉱・宮原坑において、坑底に下げられた対州馬などの坑内馬は、囚人坑夫たちの不満を抑えるための見せしめとして敢えて残虐な扱いを受けた
- 三池炭鉱・宮原坑において、坑底に下げられた対州馬などの坑内馬は、囚人坑夫たちの不満を抑えるための見せしめとして敢えて残虐な扱いを受けた
- 映画「小さな恋のメロディ」冒頭に出てくる馬のシーン
- 名馬キャリコ / バージニア・リー・バートン
- 長崎原爆投下時、疎開など人々の移動の際の主力は、馬だった
- ド・ロ神父が眠るキリシタン墓地が語りかけてくること
- 馬と人の絆のストーリー ~ 八丸 由紀子さんと馬車馬 ダイちゃん
- The priests of the Paris Foreign Missions Society, who appeared in times of hardship for Christians in Nagasaki, became "more than God".
- Les prêtres de la Société des Missions étrangères de Paris, apparus dans les moments difficiles pour les chrétiens de Nagasaki, sont devenus « plus que Dieu ».
- 長崎のキリシタンにとって苦難の時代に現れたパリ外国宣教会の神父たちは、「神以上の」存在となった
長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236
以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。
馬運・馬搬・作業萬ず/
「対州屋」(たいしゅうや)