長崎の街で・・・
幸物分校最後の生徒となった4人の児童のうち、6年生だった2人は2017年現在、高校2年生になっているはずです。
あらためて分校のことを思い出すこともあろうかと思い、記事を書いてみようかと思い立ちました。
初めて幸物分校を訪れたのが、2013年の1月。よりによって小雪の舞う日でしたが、標高の高い山中にある同分校には、けっこうな雪が積もっていました。
何のアポもなしに訪ねたのに、その時職員室におられた教頭先生は、快く受け入れてくださいました。
そして、校内を取材・撮影後、お礼の挨拶を述べると、教頭先生は私に対し、「2月に開かれる閉校記念式典にいらっしゃいませんか」と。 こんなことって、あるでしょうか? 突然やって来た、どこの馬の骨とも判らないような人間に対して!!
思いがけないお誘いに「ぜひ、伺います」と返事して帰ったのですが、数日後ちゃんと招待状が送られてきました。
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タイトル通り、路面電車の軌道跡である斜面に出来た勝山市場にあった、なじみのお婆ちゃんのお店が、いつの間にか、ひっそりと閉店していました。
久しぶりに、あのお婆ちゃんのお店でパンを買って食べよう」と、久しぶりにやって来たのですが・・・・
数年前に撮ったお店。
遂に松浦市立養源小学校も閉校してしまうことになりました。初めて同校を訪問したのは、2011年の秋のこと。私の大好きな映画「にあんちゃん」のロケが行われた学校として、是非とも見てみたい小学校でした。(当時の記事)
当時は、間もなく統廃合の波に呑み込まれてしまうのではないかと心配していましたが、正式な発表も聞かないので、なんとか存続し続けてくれるものと、かすかに期待していましたが、やはり駄目でした。
行くと寂しくなってしまうのではと躊躇していたのですが、やはりもう一度しっかり見ておくべきと思い直し、同校に到着後、校長先生にお会いし、写真を撮らせてもらうことにしました。大変有難いことに、以前の記事の事を知っておられて、快く承諾して頂いたばかりか、閉校式のご案内までも頂きました。本当に恐縮しました。
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通常は地名が付けられることが多いのだと思いますが、木の名前が付けられるとはいったいどういうわけでしょうか?日本の小学校の黎明期とも言える明治初期の8年に、この学校が創立した時から、その「大楠」の名が付けられています。
その「大楠」の名の元になったのは、もともと集落のある二ノ瀬集落にあったという巨大なクスノキです。現在は大クスがあったという場所に二代目のクスノキがあります(下画像・学校から坂を少し下った場所)
しかし、校名の「大楠」は、『梢までの高さが約23.6m。幹の周囲は16.9m、直径は5.4mあり、幹の一部が空洞になっていて、畳八畳が敷け、中に大人15人が立てた』というその桁外れな大きさ・知名度にあやかったわけではありません。
明治27~28年頃、樟脳を採る為にやむなく切り倒された初代大楠を売ったお金でこの小学校を建てることができたからなのです。
つまり、初代大クスは、この学校に姿を変え、ずっと子どもたちを育んできたということなのです。
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南島原市。伝説の巨人、みそ五郎の見つめる雲仙山麓のこの地に、本年度27年度末をもって、6校(受け入れ校を含めると8校)もの小学校が、地域から消えてしまいます。
本来であれば、長い歴史を持つそれぞれの学校を取材し、ていねいに記事を書かなければならないことは重々承知していますが、あまりの多さにそれができずにおります。
そこで、今回は「学校があった頃の音=子ども達の声々」を少しでも残したいと思い、短時間ですが動画を撮りました。
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その伝説とは・・・・・
『 昔むかし、西有家で一番高い高岩山に大きな男が住んでおった。この大男、人が良く、ちから持ちでだれやかれやから好かれておったそうな。みそ五郎どんは畑仕事の手伝いをしたり、山を切り開いて、畑を造ったりして、みそを分けてもらっておった。 高岩山を住みかにしとったので、朝起きて雲仙岳に腰を下ろし、有明海で顔を洗うのを日課にしておった。 そして、唯一の楽しみは雲仙岳に座り、高岩山の八間岩に足をのせて、九州の山脈、遠くの海を眺めることじゃった。そのころ遊んだお手玉石や足跡のくぼみが、今も高岩山に残っている。今日も、大きな鍬をかついで、山を切り開いて、畑にする仕事をしておった・・・・・ 』
というもの。人が良くて、力持ち。おまけに働き者・・・という、いかにもこの地方らしい、とても良い人物なのです。(画像は、西有家町にある南島原市役所前のみそ五郎どんの像)
みそ五郎どんゆかりの高岩山は、南島原を見下ろす高峰。その高岩山の麓にあるのが塔ノ坂(とうのさか)という小さな集落で、この塔ノ坂集落には、みそ五郎どんの人柄にも負けない、大変性格が良く利口な「大五郎」という犬がおります。(画像は、高岩山と塔ノ坂集落)
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それでも尚、閉校ラッシュが続いているのは、財政問題やその他の事情が存在するということなのでしょうが、毎年何校も閉鎖されていくこの「速さ」にはいささか恐怖すら覚えます。
今回はタイトル通り、2014年の秋、「平成26年度をもって統廃合の為閉校となる南島原市の4小学校(正確には5小学校となる)を巡り、少しだけ写真を撮らせてもらってきました。残念なことには、この日、同地区の校長会が開かれていたらしく、まったく校長先生にお会いすることができなかった為、十分なお話の取材が叶いませんでした。
したがってまったく深み・掘り下げの無い、ただ外観写真を並べただけの実に粗野な内容の記事となっており、関係者様には無礼千万であると、ただただ恐縮の限りですが、それでも遠く故郷を離れられている方には写真を眺めるだけでも、いくらか役に立つこともあろうかと思い、記事にしました。その点をどうぞご了承下さい。
まず初めに訪れたのが、南島原市立梅谷(うめだに)小学校です。 (南島原市南有馬町己2889番地)
梅谷校の開校は明治19年。「清谷学校」の名で、1棟の倉庫からスタートしています。その後、「簡易古園小学校」「古園尋常小学校梅谷分校」「古園尋常小学校梅谷分教場」「南有馬町古園国民学校梅谷分教場」「南有馬町立梅谷小学校」と名称を変え、移転・改築を繰り返して今に至っています。
現在の正面玄関です。靴箱に置いてある靴の数でおおよその生徒の数が想像できます。
正面の掲示板、左下に掛けてある写真は、この古写真です。
これは、昭和6年に撮られた、梅谷分教場の落成式の記念写真です。写真に写る人たちは紋付羽織袴やスーツに身を包み誰もが晴れやかな顔をしています。
地元の子ども達が通う学び舎が段々とよくなってきたことへの喜びがひしひしと伝わってきます。
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平成26年2月末で長崎玉屋(正式には、佐世保玉屋長崎店)は昭和44年の開業以来、約45年の歴史に幕を降ろしました。
画像は最終日の長崎玉屋の姿です。ただ外観を見ただけでは、「老朽化が否めない地方百貨店」と映るかもしれませんが、この長崎玉屋の「在り方」はいろんな意味で、今後の大規模商業施設にとって手本とすべき、或いは多くの教示を与えうるエッセンスがあるように思われます。そのことを確信させる光景が、この最終日に幾つも垣間見えました。
最終日、店内には多くのお客が詰め掛け、たいそうな混雑振りでした。最初それは、最大7割~8割引という閉店セールによるものかと思いましたが、様子をうかがっているとどうもそれだけではないことが判ってきました。
老若男女を問わず多くの方が、明らかに店員さんに労いの言葉をかけたり、店の様子を名残り惜しそうに眺めているといった様子があちこちで見られました。
他の百貨店が集中する繁華街とは離れた新大工町商店街に、ただひとつの百貨店として、言わば独特な立ち位置で営業をしていた長崎玉屋。この地を撤退するという感じではなく、「地区の為に本当に今日までお疲れ様でした」、とでもいうような空気感に包まれていました。
現在の新大工商店街は、若い人の姿こそ目立ちませんが、寂れたという感じではなく、年配のお客さんの往来は常に絶えません。
その新大工商店街の一役を担っていたのが長崎玉屋でした。今の大型商業施設にはあり得ない発想かもしれませんが、玉屋ビルの商店街に面した一階は「新大工市場」となっています。
ですから、内部は実際に鮮魚店や豆腐屋さん、青果店などがびっしりと詰まった市場となっています。
商店街側のデパート・フロア出入口は、こんなにも慎ましいものでしたが、こちらの出入り口の方に馴染みのあった方も随分と多いことでしょう。
平成26年3月末で閉校する 南島原市立堂崎(どうさき)小学校 木場(こば)分校は、南島原市 有家(ありえ)町木場地区にあります。同地区は島原半島の中央に鎮座する雲仙山系の広くなだらかな山裾にあり、辺りには広大な畑が広がっています。
この分校は、1年生から3年生までの児童が通う分校で、4年生からは本校である堂崎小学校に通うことになります。
タイトル通り、「幼い一年生や下級生が、自分の力で歩いて登下校できるように」という目的で存在する分校なのです。
分教場が出来たのは、明治・東有家村時代のことです。その後、南高来郡有家町立の時代が長かったわけですが、同町はまるで下図↓↓のように、「雲仙岳を中心として、ピザのように細長く切り取った」ような形をしています。(クリックで拡大)
赤いアンダーラインをした「三又」「藤原」「六郎木」といった地区が、木場分校の校区なのですが、海岸部にある堂崎小本校に行くよりは、西側の新切(しんきり)小学校や布津(ふつ)町の飯野小学校のほうが距離的には近い気がします。
「では、なぜこのような細長い校区となっているか?」ですが、これは推測の域をでませんが、「島原の乱後の移民政策」が深く関係しているような気がします。
- (動画版)三池炭鉱・宮原坑において、坑底に下げられた対州馬などの坑内馬は、囚人坑夫たちの不満を抑えるための見せしめとして敢えて残虐な扱いを受けた
- 三池炭鉱・宮原坑において、坑底に下げられた対州馬などの坑内馬は、囚人坑夫たちの不満を抑えるための見せしめとして敢えて残虐な扱いを受けた
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- 名馬キャリコ / バージニア・リー・バートン
- 長崎原爆投下時、疎開など人々の移動の際の主力は、馬だった
- ド・ロ神父が眠るキリシタン墓地が語りかけてくること
- 馬と人の絆のストーリー ~ 八丸 由紀子さんと馬車馬 ダイちゃん
- The priests of the Paris Foreign Missions Society, who appeared in times of hardship for Christians in Nagasaki, became "more than God".
- Les prêtres de la Société des Missions étrangères de Paris, apparus dans les moments difficiles pour les chrétiens de Nagasaki, sont devenus « plus que Dieu ».
- 長崎のキリシタンにとって苦難の時代に現れたパリ外国宣教会の神父たちは、「神以上の」存在となった
長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
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