アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

長崎人物・歴史

多くの女学生が魚雷製造に従事した地 ~ 川棚町石木郷トンネル疎開工場跡

長崎県東彼杵郡川棚町石木郷。今はひと気も無く、のどかな風景が広がるばかりの同地ですが、向かって左側の山すそには、20本以上もの疎開工場(海軍工廠)トンネルが掘られ、「九一式航空魚雷」製造の為の軍需工場地帯となっていました。
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長崎市最古のRC造・橋梁の名は、「 新橋 」

長崎市大黒町。駅前の大通りから一本入った場所にある新橋。橋の上には店舗や住居の入る建物があり、一見橋とは思えない景観となっていますが、これが市内最古のRC(鉄筋コンクリート)造の橋梁である新橋です。
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架設年は、なんと大正4年(1915)。下画像は年間7万人ものツアー客が訪れる軍艦島・最古のRCアパート30号棟ですが、この30号棟の建設が大正5年ですから、これよりも1年古いRC構造物ということになります。
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戦時中、最大の人口を抱えた、東彼杵郡・川棚町 ~ 川棚海軍工廠跡②

地図上に「川棚町郷土資料館」とあったので、早速行ってみました。なかなか立派な資料館でした。建物は古いのですが、よく資料が集められ、整理されていました。

海軍工廠についても詳しい展示がされていました。画像は工廠時代と現在との定点比較ですが、こういう展示の仕方は非常にわかりやすいですね。川棚高校や中学校校地にも戦後までは宿舎が建っていたようです。
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「工員宿舎は現存数は極めて少ない」と資料集などにはありますが、はたして本当にそうなのでしょうか。疑うわけではありませんが、あまりそういうものを鵜呑みにせず、実際跡地を歩き、人に聞いてみることにしました。

けっこうそれらしい建物が幾つも目に付きます。
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戦時中、最大の人口を抱えた、東彼杵郡・川棚町 ~ 川棚海軍工廠跡①

タイトルでは「戦時中、最大の人口を・・」としていますが、この地に海軍工廠(軍需工場)が設けられて(昭和17年)からの流入人口の増加ぶりは尋常ではありませんでした。
昭和15年に7,500人ほどだった人口は、戦時中50,000人を超えたといいます。実に6.7倍です! まさに「激増」という言葉があてはまります。(2012年現在、同町の人口は約1,5000人)

今はそんな歴史も本当にあったのか?というほど静かな町内に戻ってしまっていますが、町を見下ろす城山公園には当時の海軍工廠のあった風景を表したレリーフ碑が立てられています。
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川棚町のシンボルでもあった高い煙突、のこぎり状の屋根・・・今ではまったくもって見ることができません。
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佐世保東山海軍墓地 ~ 航空母艦「大鷹」慰霊碑前で

「佐世保東山海軍墓地」(佐世保市東山町)は佐世保海軍鎮守府が当時、東彼杵郡日宇村福石免と呼ばれていた時代の同地を買収してつくったもので、日清戦争以降の個人碑や合葬碑が数多くあります。

(画像は墓地の一角と福石小学校)
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海軍墓地から遠くない中学校に赴任していた時、海軍墓地を借りてスケッチ大会をしたことがありました。
今思い返せば、どうかと思いますが、この時三年生の担任だった私は、「この生徒達であれば、マナーを守り、問題なく行うことが出来る」という確信があり、事実その通りでした。
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生徒たちは、おそらく佐世保の街が海軍鎮守府とともにできたことも、日清・日露戦争時に連合艦隊が佐世保港から出撃していったことも知らなかったでしょう。
ましてや、同墓地に立つ像が、かつて佐世保海軍鎮守府の司令長官や連合艦隊司令官として世界に名をとどろかせた「東郷平八郎」のものであると気づく生徒はいなかったでしょう・・・。無理もないですが。
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石の記憶 ~ 大村市萱瀬・海軍航空廠疎開工場跡

長崎新聞での連載「僕の子ども絵日記」で、2009年6月28日の21回は、大村市の萱瀬ダム下流の田下町を舞台にしました。大村市内あちこちを方々歩いて、ここへ来た時、この石垣にひと目見て惹きつけられ、すぐにここに決めました。
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この回の作品は、自分なりに気に入っている作品のひとつになりました。
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後にこの場所を訪れた時に、この石垣の「由来」について知ることとなりました。
太平洋戦争の最中、この場所には大村海軍航空隊の航空廠(軍の航空機工場)のプロペラ製造工場があったそうです。おそらく激しくなってきた本土空襲を避けるために、このような山間の場所に疎開してきたのでしょう・・

そして、石垣の石は、朝鮮半島の人たちによって郡(こおり)川から運ばれ、築かれたのだそうです。独特の丸みがあるのは、この為だったのですね。それにしても、これだけの大石を運び上げるのは、さぞ大変であったことでしょう・・・。
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日中戦争突入により拡大した戦線、さらに緊迫した国際情勢に対応するため航空機増産の必要性が高まり、昭和16年10月に大村に「第21海軍航空廠」が開設されました。
同19年の竣工時には、大村航空廠は200棟の工場群、従業員4万人を超す、「東洋一の航空機生産工場」となっていました。

画像は昭和18年に撮影された海軍航空廠でのスナップで、学徒動員の大村中生たちが零式水上観測機の前とで教官とともに写っています。「学徒」と呼ぶには、あまりにも幼く見えます・・・
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その大村海軍航空廠も同19年の10月25日にB-29による大空襲を受け、壊滅的な打撃を受けています。彼らは無事だったでしょうか。

私が描いた石垣は、おそらく疎開工場の軍幹部の管理事務所か何かがあった場所なのでしょう。そしてプロペラ工場に関する資料や映像はおそらく永久に出てこないでしょう。
それらのものは、進駐軍がやってくる前に全て焼却処分されているでしょうから・・。
語り継ぐ人がいなくなれば、この石垣のことも、やがては完全に忘れ去られるでしょう。

それでも、私がこの石に惹かれたのは、石たちが呼びかけていた、ということなのでしょうか・・・。

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私たちの生活の身の周りにある道路、石垣、トンネルの中にも、同じような歴史を持つものが案外たくさんあるのかもしれません・・・

「長崎人物・歴史」 記事一覧



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龍馬や海舟など、幕末の著名人がことごとく渡った一の瀬橋は長崎の陸の玄関口だった

「蛍茶屋」・・・地名でも町名でもないこの名は、路面電車の終点にその名をとどめたことにより、市民には馴染みのある響きがありますが、電停の奥へ進むと、うら寂しいさびしい風景がひろがるばかりとなっています。
とうの昔に閉まった商店、昭和時代のアパート。そんな中にポツンとある古い石積みの小橋。それが「一の瀬橋」です。
この先は道幅が狭くなり、そばに34号線が通っていることもあるので、よっぽど用事か目的のある人でない限り、この橋を渡る人は今ではいないでしょう・・・。
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軍艦島の名の元になった戦艦土佐は、同島に通った夕顔丸らに曳航され、廃船の旅に向かった

三菱高島炭鉱端島鉱業所は今や通称である「軍艦島」の方がはるかに知名度が高くなっていますが、その名の由来は、島の外観が三菱長崎造船所で建造された「戦艦土佐」に似ていたことだと言います・・・
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外観が軍艦に似ていることは容易に理解できますが、なぜそれが「戦艦土佐」に限定されるのでしょうか・・・


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百万頓ドックに、南極観測船宗谷に、つながる松尾造船の始まりは、旭大橋のたもと

長崎市弁天町にある三菱電機体育館。高台にあるこの体育館は、地元の人にとってなくてはならないレクリエーションの場ですが、この場所こそ松尾鉄工(後の松尾造船)の創設者、松尾孫八の邸宅跡です。
当時の海岸線は、この崖辺りで、画像に見えるバスの走っている場所は渚であったと思われます。
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広重や北斎が描いた長崎随一の景勝地 ~ 淵神社

稲佐山に登る長崎ロープウェイ、麓駅のすぐ側にある「淵神社」。誰も気にもとめないような神社ですが、幕末頃には広重や北斎が「長崎の景勝地」として錦絵に描いた場所であり、当時としては長崎随一の景勝地として知られていたようです。
画像の鳥居は享保18年(1773)に建てられたものです。この鳥居は約230年の間、いろいろな長崎の歴史を見つめてきた鳥居なのです・・・
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




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