アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

軍艦島・西彼炭田の炭鉱

香焼(こうやぎ)炭鉱 ~ 長崎市香焼町

伊王島へつながる伊王島大橋の開通で、多くの車が通りすぎていく香焼町安保(あぼ)地区。
かつて、香焼が島であった頃の大正から昭和初期、ここは島の中でもっとも発展し、多くの人口を抱える賑わいのある場所だったのですが、今となっては、そんなことを知るよしもなく、すべては「まぼろし」のようです。
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バス停だけが残された、ここ安保地区は、明治32年大阪舎密(せいみ)工業(株)の進出に始まり、以後、川南鉱山(株)、香焼鉱業(株)と発展してきた炭鉱町の中心地だったのです。
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手前に見える2階建ての社宅は、つい2年前ぐらいまで残っていたのですが、解体・撤去され、ご覧のような更地となっています。
(画像は2009年、解体時)
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手前に張り出しているのが、浴室です。海岸に近く、とても快適に住めそうなアパートだったのですが、勿体ないことです。





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軍艦島に生まれ育った方にお話しを聞く

Kさんとしておきます。
軍艦島(端島)で生まれ、育ち約30年間軍艦島で過ごされたそうです。
お父様が伊王島の出身で、機械工として伊王島、高島を経て軍艦島にこられたそうです。お父様は、外国から来ている人にも親切に接するような人物だったらしいのですが、Kさんが10歳の時に病気で亡くなったそうです。

ガイド時代、「軍艦島に住んでいた」という方にも何人かお会いしましたが、やはりKさんも、第一声が「軍艦島はよかった!」ということでした。

住居は、日給社宅19号棟の8階だったそうです。これは、電気洗濯機で洗濯しているところですね。ナショナル製の丸型で、これはけっこう古い時代のものだと思います。当時の軍艦島は、最新の電気製品が溢れていたと聞いたことがありますから、これもおそらく出たばかりなのでしょうね。写真からも光り輝いているのが、わかります。
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松島炭鉱大島鉱業所跡 ~ その④間瀬商店街・蛤住宅その他

炭鉱時代、商店や居酒屋などがひしめいていた間瀬(まぜ)商店街です。
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お気づきだと思いますが、左側コンクリートの段々の場所には、ひと区画ずつ、お店が出ていました。
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炭鉱・好景気の頃は、この通りが人で埋め尽くされ、流れに逆らって歩くのは無理だったそう・・・また、給料日の後などは、飲み屋にくり出した炭鉱マンたちであふれ、翌朝、通りをほうきで掃くと、一万円札が2~3枚落ちていたそうです。立ち寄った酒屋のご主人が話してくれました。
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(昭和20年頃の同商店街)



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軍艦島 ~ 日本最古の鉄筋コンクリート建築・30号棟

2010年の3月4日、長崎市の許可の元、テレビ番組の収録で、軍艦島に入った時に撮影した画像を紹介したいと思います。
その時の画像を元に、私の本の中の数点の作品がつくられました。

これから紹介するのは、「無人となった空間」ですが、その一枚一枚の中に、とてもあたたかなコミュニティの中で生活していた、子どもたちや人々の姿を重ねて見ていただければ、幸いです。


大正5年に建てられた、7階建て(地下1階)の30号棟。日本最古の鉄筋コンクリート製(RC)建築と言われています。
そして、ツアーにおいて、もっともゲストの方がコースから近づいて見ることのできる建物でもあります。
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30号棟の立つ外洋側南西部は、船で言う「ブリッジ」の場所にあたり、ひとたび海が荒れると、一番激しい風雨、波が打ちつける場所でした。
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軍艦島 ~ 階段・通路など

2010年の3月4日、長崎市の許可の元、テレビ番組の収録で、軍艦島に入った時に撮影した画像を紹介したいと思います。
その時の画像を元に、私の本の中の数点の作品がつくられました。

これから紹介するのは、「無人となった空間」ですが、その一枚一枚の中に、とてもあたたかなコミュニティの中で生活していた、子どもたちや人々の姿を重ねて見ていただければ、幸いです。


今回は、住人の方や子どもたちが、生活をしていた通路や階段などのうち、軍艦島らしさを表していると思われるものを数点ご紹介します。


独身寮である67号棟の「X(エックス)階段」。昭和25年の建設ですが、非常にモダンなと言うか、斬新なデザインが目をひきます。
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このX階段は、クルーズ船からも、見ることができますので、機会があれば、ぜひ見てください。
ここは当時から、やはり絵になるのか、よく撮影スポットとなったようですね。
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軍艦島 ~ 日給社宅

2010年の3月4日、長崎市の許可の元、テレビ番組の収録で、軍艦島に入った時に撮影した画像を紹介したいと思います。
その時の画像を元に、私の本の中の数点の作品がつくられました。

これから紹介するのは、「無人となった空間」ですが、その一枚一枚の中に、とてもあたたかなコミュニティの中で生活していた、子どもたちや人々の姿を重ねて見ていただければ、幸いです。

大廊下でつながれた16、17、18、19、そして20号棟は、まとめて「日給社宅」と呼ばれます。
炭鉱では以前、日給制をとっていた時代があり、この日給制で働く鉱員さんたちが入っていたことから、この名がつきました。
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大正7年に建てられた、この9階建てのアパート群。
近代建築の魁と言われた、東京・横浜の同潤会アパート群が、大正15年以降ですから、この日給社宅がいかに当時としては、先をいっていたかが、わかると思います。
ただの岩礁であった場所に人口岩盤・擁壁を築いて人工島を造り、地底1kmの深さ、数キロにも及ぶ坑道と10階にも及ぶ鉄筋コンクリート製の高層アパートの建設。
「軍艦島」は間違いなく、当時の三菱の、最高傑作でしょう!
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画像でわかると思いますが、陽当たりを考えて、フロアーを少しずつずらして造ってあります。
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軍艦島 ~ 65号棟と端島幼稚園・保育園

2010年の3月4日、長崎市の許可の元、テレビ番組の収録で、軍艦島に入った時に撮影した画像を紹介したいと思います。
その時の画像を元に、私の本の中の数点の作品がつくられました。

これから紹介するのは、「無人となった空間」ですが、その一枚一枚の中に、とてもあたたかなコミュニティの中で生活していた、子どもたちや人々の姿を重ねて見ていただければ、幸いです。

終戦をまたいで完成した65号棟。この頃はまだ小中学校も木造であり、島内最大の建物としての威容を誇っています。別名、「報国寮」と呼ばれました。
ボイラー煙突から吹き出す煙が、「軍艦島」らしさをいっそう引き立てていました。
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軍艦島の学校

2010年の3月4日、長崎市の許可の元、テレビ番組の収録で、軍艦島に入った時に撮影した画像を紹介したいと思います。
その時の画像を元に、私の本の中の数点の作品がつくられました。
取材時の日記は、こちら

今回は、70号棟、端島小中学校を紹介します。

軍艦島ツアーにおいて、まず最初に見えてくるのが、この7階建ての建物、端島小中学校です。
4階までが小学校、5階と7階が中学校、6階は講堂(時に体育館)として使用されました。
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昭和33年に建てられたという、この校舎。当時、このような場所に、この高層建築があったということは、驚き以外の何ものでもありません。台風や大波に晒され続けながらも、立ち続けているという事実に、感慨深いものがあります・・・
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松島炭鉱大島鉱業所跡 ~ その③浜町炭鉱住宅街周辺

昭和30年頃の炭鉱住宅街、浜町の様子です。
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大島の中では、もっともその面影が残っている場所ですが、さすがに時代は移っているようです・・・
家の基本構造は変わっていないのですが、壁を直したり、増改築されている家が多くなっています。
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壁をトタンなどで、覆うお宅も多かったようでした・・
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向かって左側の家は、そのままの板壁のままでしたが、こういうお宅は本当に稀という感じでした・・・・
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松島炭鉱大島鉱業所跡 ~ その②ほぼ完璧に残っている炭鉱住宅!

昭和33年頃の大島鉱業所付近です。小さなブロックのように見えるのは、全て炭鉱住宅です。
私の場合、坑口とか、鉱業所の遺構にも興味がありますが、もっとも興味があるのは、この「炭鉱住宅街」の面影です・・・
ターミナルの売店の方は、ほとんど面影は無くなった・・・と話していましたが・・・・・
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いきなり、そこに現れたのは・・・「ほぼ完璧な姿で残っている炭鉱住宅」!!・・・・しかもかなり古い時代のもので、ここまで完全なものを見るのは初めてでした。(((( ;゚д゚)))
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今回は、余計な説明抜きで、ぜひこの炭住を見てやってください!!
ちゃんと、持ち主の方のご了解を得て、撮らせてもらいましたヾ(=^▽^=)ノ





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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




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