戦前から昭和30年あたりまで長崎に住んでいた人にとっては、「千馬町(せんばちょう)」は、馴染みのある町名かもしれない。同町は、今の出島町にあたる。
今、多くの観光客が訪れる「出島跡」や飲食店が立ち並ぶ出島ワーフなどがある場所と言えば、わかりやすいだろう。
下の写真は、千馬町の町名の由来を説明するもので、多くの写真から推察すると明治37~38年の日露戦争の為に大陸へ輸送されるのを待つ馬たちと思われる。
沖に停泊しているのは軍艦ではなく輸送船であろう。
出島・元船岸壁が整備されたのもこの頃であるが、写真が撮影された時に、大型の輸送船が横づけできたかどうかは、この写真からは確定できない。
積み込むためには艀のようなものに乗せ換える必要があるので、かなりの時間がかかったであろう。
必然的に千馬町にはその名のごとく、何千という馬たちが係留・滞在していたわけである。

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対岸の稜線の形からすると、この出島ワーフの辺りかと思われる。
もちろん当時の海岸線とはまったく違うので、内陸側ではあるのだが。


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かつて「千馬町」という路面電車の停留所があったのだが、今ではその名残を示すものは殆ど無くなってしまっている。唯一とも言えるのが、写真の日進ビルのプレートで、プレートには「千馬町三ノ三」とある。
日進ビルは昭和28年の建築なので、間違いなく千馬町時代の建物なのだ。
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ちなみに「日新恒産株式会社」で検索したが、情報は得られなかった。福岡に「日新恒産フェルト株式会社」とあったが、関係があるのかどうかは、わからない。

現代の同地は、非常に賑わいのある場所で、とても何千という馬たちがいたとは思われないのだが、古い長崎港の埋め立て資料を突き合わせると、当時の様子がわかってくる。
明治38年頃、「出島・元船岸壁」が造成されているが、これは前述したとおり、大陸に軍馬として多くの馬たちを船に積み込むための場所であって、その主な戦は日露戦争にほかならないだろう。
明治25年頃の港湾地図を見ると、まだ出島の辺りには埋め立てが無く、出島そのものも残っている。
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これが37年頃になると、出島の南側に広い埋め立て地があり、またその南にも埋立地ができている。
長崎駅周辺がもまた埋め立てが進んでいることから、鉄道を整えるとともに軍備も強化していたことが伺える。
つまり、軍馬として日本各地から馬たちが陸路で運ばれて、この地に集められ、「千馬町」が出来たということだろう。
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古い海岸線と現代の航空写真を並べてみると、その成り立ちがよくわかる。
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実は2025年のこの春、私の娘が街の中心部にある会社に就職した為、引っ越しをしたのが出島町であった。
その事から、出島界隈を歩く機会が増え、「千馬町」をよく調べてみようと思ったのである。
しかし、今思うのは、日本各地から軍馬として「徴用」され、集められた馬たちには、人間が引き犯した戦争など、何の関係も無い。
飼い主と哀しい別れをした罪も無い多くの馬たちが、大陸の泥沼の戦場で、大砲を曳かされたり、銃弾や爆弾に傷つき亡くなっていったことを思えば、この地に碑のひとつでも建てて、その魂を慰めてやりたいと思うのは、私だけだろうか?

明治期の千馬町を写したものは、最初の一枚しか見つかっていないが、この時期の千馬町の様子を描いた一枚の絵がある。
それは長崎市出身の夭逝の画家、渡辺(宮﨑)与平による「白日」という絵画である。

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渡辺与平。明治22年(1889)~明治45年(1912) 長崎市西古川町宮﨑徳三、ケイの次男としてに生まれる。旧姓宮崎。京都市立美術工芸学校に入学,号を抜天として日本画を学ぶ傍ら,鹿子木孟郎に学ぶ。明治39年(1906)同校卒業後,上京し,中村不折の太平洋画会研究所で学ぶ。この頃から『ホトトギス』をはじめ,雑誌や新聞のイラスト(コマ絵)の仕事をするようになる。明治41年(1908)第2回文展に《金さんと赤》が初入選。明治42年(1909)渡辺文子と結婚。姓を渡辺と改める。明治43年(1910)第4回文展で《ネルのきもの》が三等賞を受賞,太平洋画会員となった。コマ絵では「ヨヘイ式」と呼ばれて人気があり。竹久夢二と並び称された。明治44年(1911)第5回文展に《帯》が入選するが,翌年東京で病歿した。

13歳で京都の京都市立美術工芸学校絵画科に入学後、17歳で上京、太平洋画会研究所にに入所した与平だったが、明治40年の18歳の秋に脚気と肋膜炎を患い、約一年間、故郷長崎に帰省、療養している。
実家は西古川町(現・古川町、有名な眼鏡橋の近く)であったから、病み上がりの与平にとって千馬町は、海沿いの丁度良い散歩道であっただろう。
その頃の千馬町は、日露戦争も終結していたので、急速に「軍都」と豹変しっつあった長崎も、のんびりとした空気が漂っていたのではなかろうか。

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私は「白日」を一度だけ鑑賞したことがある。意外に小さな作品ではあったが、画像の通り明るい陽射しの中でくつろぐ馬車馬が描かれており、この画面の中には飼い桶の中に顔を突っ込む馬など、計5頭もの馬が描かれている。
おそらく当時の千馬町は、戦争も終結したことから、軍馬たちが集められていた緊張感も無く、馬車馬や荷運び馬たちがゆっくりと過ごせる気持ちのいい場所となっていたであろう。
与平もその千馬町を気に入り、何度も足を運んだのではなかろうか。
画面の奥には、出島の特徴的な教会建築が見えることから、不思議なことに、与平が馬をスケッチしたのは、ちょうど今の日新ビルが建っている辺りとなる。
つまり、日新ビルは、与平を追悼する記念碑的な役割も果たしているということだ。

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療養後、東京に戻った与平は、隅田川沿いでモチーフとなる「荷運び馬」を探し続け、選んで描いたものが「金さんと赤」で、これは文展で入選している。
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与平19歳の作、「金さんと赤」。赤とは荷運び馬の名だろう。一度だけ現物を鑑賞したことがあるが、とっても彩度が高い印象的な作品であった。働く馬と水辺というイメージは、間違いなく千馬町で見た馬たちから来たものであることは間違いない。

19歳で太平洋画会研究所で知り合った2歳年上の渡辺 文子と結婚し、文子の渡辺姓になると、その愛情と無垢なものに対するリスペクトはそれまでの「子どもたち」や「動物たち」に加え、妻文子にも注がれることになる。

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与平が亡くなる前年20歳の時に、妻文子を描いた「帯」。これも一度だけ鑑賞したことがあるが、文子が実物大に描いてあり、前に立つとその愛情がひしひしと伝わってくる。(長崎県立美術館蔵)


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与平は、「コマ絵」と呼ばれる漫画風の挿絵などを多く手掛けている。「コドモ絵ばなし」の序文中で、 『 こども  私は、子どもが、大好きでございます。  出来ることなら、私も、も一度、子どもになってみたいと思います。  そうして、いつまでも、いつまでも、子どもであったら、どんなにか嬉しかろうと思います。  私は、皆さんのお友達になって、いつまでも、いつまでも、子どもの絵を描いていようと思います。』と書いている。

二児に恵まれ、「帯」が文展に入選するなど、幸せな日々を過ごしていた与平と文子だったが、その日々は長く続かなかった。
22歳であった明治45年の6月、咽頭結核と肺炎の為亡くなっている。

「長崎 千馬町」という言葉を聞いた時に、「出征していった多くの馬たちと与平のこと」をふと思い出して頂ければ幸いである。


渡辺文子大正4~5
大正4~5年頃の文子と長女美代子、長男一郎。