1986年に公開された「ミッション」。
イエズス会の南米への布教と植民地化への軋轢を描いた作品ですが、記事のタイトルを見ている内に、この映画をもう一度見たくなって、ネットで観ました。(しかし、レンタルDVDにも無いし、手頃な有料配信も無かったので、youtubeの英語版を観ました)
公開当時、自分は東京におり、仕事を辞めたばかりでしたが、何となく惹かれるままに小さな映画館で観たのでした。
今回、やっとこの映画の真髄が掴めた気がしました。
実に35年もかかっています。
この映画、テーマは宗教でも植民地支配でも、ヒューマンドラマでもなく、「人にとって大切な事は生命をリスペクトするということ。そして、どんな人もその生命(存在)は差別されるべきではない」ということなのではないかと思います。
「ミッション」は実話を元にしたフィクションですが、標題の通り、我が長崎にやってきた宣教師たちは、史実として「超人的な行い」を成し遂げています。
特に幕末から明治期に布教にやってきたパリ外国宣教会の神父たちの、その生き様は、文字通り「神以上の存在として人々に影響を与えた」、或いは「人として至高の生き方をした」と言っていいだろうと思います。
明治政府と言えば、現政権につながる、一応近代政府なのですが、差別はやりたい放題で、キリシタンについては、捕縛し流刑地に送る際に、「一匹、二匹」と数えたりなど鼻っから人間扱いしていません。
拷問にしても「いかに苦しみを長引かせるか」と享楽的な観点だけから、様々なおぞましい手法を編み出しています。
牢の中に身動き取れないほど詰め込んで、幼児が死んでも死体が足元に落ちるままだとか、また刀の試し切りにと酔った勢いで胎内に嬰児のいる妊婦を切り殺したり、人間扱いどころか生命を生命とも扱わない残虐行為を繰り返しています。
また郷民の間でも嬰児殺しや、捨て子は普通のことでした。障害のあった子どもや病児などは、即刻遺棄されたことでしょう。
(田舎道を走っていると、今でも所々に水子地蔵群などが残っていますね)
運よく成長できても、幼くして口減らしのために奉公にだされたり、年ごろの娘の場合だと、いくばくかの金のために、外国の娼館に売り飛ばすなど、今の道徳観では全く受け入れられないようなことも行われています。
こんな時代にやってきたフランス人神父たちは、野に棄てられている嬰児や幼児を集めて養育し、らい病患者など、最も激しい差別を受けていた人々にも医療活動を行うなどの活動を行っています。
特に長崎において今でも「ドロさま」と親しみを込めて呼ばれるド・ロ(De lots)神父は、本来の布教という範疇をどう考えても遥かに越える行いを成し遂げています。
その一部を箇条書きにしてみます。
※明治7年、九州を襲った台風後、長崎で赤痢が蔓延した折には、救護隊を結成し、治療にあたった。フランス時代医学と薬学を研究したことがあるド・ロは、新患者の迅速な発見、隔離、予防措置、消毒、病人の扱い方、看護人の感染予防など、当時の日本医療体制では想像もつかないほどの行き届いた看護体制をしくという活躍をした。まだ赤痢菌が発見される23年も前のことである。
※海難事故で働き手をなくした女性たちや仕事を持たない娘たちを集め、パン・マカロニ・そうめん・醤油・織物などの授産場を設けた。授産場はその後救助院として発展し、在俗修道女たちの生活の場であるとともに、貧者救済の社会福祉をすすめる場ともなった。ド・ロはそこで機織・染色・裁縫・製粉・搾油などの技術も教えるとともに、読み書き・算術なども講義した。
フランスから機織機を20台、ドイツからメリヤス織機を、オランダからは編み物用計算機を取り寄せ、自ら計算して図をひき、織り方を実践してみせた。
※修道院というのは、たてまえであって、修道女になるかどうかは本人の自由意志によって決めさせた。また修道女であっても、結婚を希望する者には、ド・ロが嫁入り支度をして、修道院から嫁がせた。
決して宗教を押し付けるようなことはなかった。この点は岩永 マキらの十字修道会も同じ姿勢だった。もしカトリックの押し付けのようなものであったら、たちまち拒絶にあっていただろう。
※地域産業の育成を考えていたド・ロは、零細農家救済のため、青年教育所を設けた。同所では農具の使い方や農耕法のみでなく、井戸堀や土木工事に関することも教授した。
※付近の原野の開墾を始め、綿・茶などを栽培した。他にもフランスより優良な小麦やじゃがいもの苗を取り寄せ、栽培・普及に努めた。
※産業を育てるために手すきのイワシ網工場を建てるが、採算が取れなくなると、閉鎖して保育所に改良し、200人ほどの子どもたちを預かった。
※潮流の変化によるイワシやイカの移動状況にも深い知識を持っていたド・ロは、イワシ網漁を指導し、合わせて豚の飼育も行った。
※北松浦郡田平町と平戸島の紐差(ひもさし)村に土地を買い、信徒家族を開墾移住させた。(現在両地とも立派な教会が建つ、大きな街となっている)
※教会堂建築に関しても、カトリックの伝統様式にとらわれず、その土地の気候や素材に合わせ、柔軟に対応した。
外海地方にある大野教会建築では、海沿いの強風に対応するため、平べったく伏せたような形状の造りにし、付近から多く出土する石を使い、石壁を築いた。この石壁や構造物は今も尚、しっかりとした形を保って現存している。
いたずら好きで茶目っ気があり、よく長崎弁でジョークをとばしたというド・ロ。
日本人のことを見下すどころか、日本人が見下すような人々にも手を差し出した、この人の存在が「神以上」でないはずがありません。
その人間性は、キリシタンとして流刑に処された岩永 マキら十字修道会らの女性たちに引き継がれています。
この「志」と「人間性」こそが世界遺産の本質であるのだと確信しています。
このような高みにまで昇華した記録は、長い世界史を紐解いてみてもそうざらにあるものではないでしょう。
今、2018年に世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の中でも重要な景観資産として明治期に創建あるいは再建された教会群や集落跡が登録されており、今後も多くの人がその地を訪問することになるでしょう。
私たちは、その史跡や建物をただの観光資源だとして利用するのではなく、宣教師たちが成した功績を後世に伝え、またその「志」や「人間性」を普段の生活の中に引き継いでいかなくてはならないと思っています。
長崎に生まれ育った自分にとって、まず幼稚園がカトリック系で、先生はシスターでした。
私は信者ではありませんでしたが、時々礼拝堂の前に座ってお祈りをしていました。祭壇に置かれた容器の中にはシスターが言うように、本当のキリストの血が入っていると思っていました。
願わくば、その純粋な頃から、「命はどんな命でも大切にしなくてはいけない」「ほかのちがう人をいじめたり、わらったり、なかまはずれにしてはいけない」と口酸っぱく教えて欲しかったと思うのです。