クリント・イーストウッドがメガホンをとった「硫黄島からの手紙」によって知られるようになった西 竹一は、日本人として唯一オリンピック馬術競技でメダル(昭和7年、ロサンゼルス大会、馬術大障害飛越競技で金メダル)を獲った人物だが、私は正確には、これは「ウラヌス号と西 竹一との信頼関係」が獲った金メダルだと表現したい。
2021年8月の現在、コロナ・ウィルスの為に1年延期となった「東京オリンピック」が開催中で、昨日、日本の戸本選手が総合馬術個人で4位という快挙を挙げたのだが、マスコミで大して取り上げられなかった上に、騎乗した馬の名前に至っては、ネット上で検索するもヒットすらしなかった。
原爆禍や終戦記念日に近い八月にあって、「平和とオリンピック」というテーマにとって、これほどタイムリーなニュースは無いと思うのだが、未だに日本の「オリンピックに対する価値観と意識」はこんな程度。
一世紀近く経っても、戦前からほとんど進歩していないのが現状だ。
ウラヌスと西 竹一の話に戻ろう。
西は華族という、上流階級に生まれたものの、実の母の顔を知らず、実父とも10歳で死別している。
莫大な富と地位だけを相続しているが、もし西がウラヌスという馬と出会わなかったら、後世に名を遺すことは、まず無かっただろう。
乏しい資料の中でさえ、西とウラヌス号の信頼関係をうかがわせるものが幾つか残っているので以下、箇条書きに記したい。
◎西が気にいって自費で購入したウラヌス号は、もともとイタリア軍の騎兵中尉が所有していた馬だったが、とんでもないじゃじゃ馬で、イタリア人でも持て余していた大柄な馬だった。
(こういう個性の強い馬と信頼関係を築くには、誠実さと辛抱強さなど、豊かな人間性が要求される。馬には財産も男爵位も関係ないので。ウラヌス号と信頼関係を築く間に、西の人間性が確立されたのだろうと推測される。
オリンピックに関しても馬にはそんなことはわからない。ただ毎日信頼する人間と毎日行ってきたことを、同じ人間と行ったに過ぎない)
◎生前の西は「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」と語っていた。
◎続くベルリン・オリンピックでの不振とそのリベラルな性格が軍部から反感を買い、硫黄島へ左遷配置される際、小笠原諸島付近で乗っていた輸送船がアメリカ軍の潜水艦から撃沈された。
何とか助かった西は、いったん東京へ戻った際、馬事公苑にいたウラヌス号に会いに行った。
西の足音を聴いたウラヌスは狂喜して、西に首を摺り寄せてきたという。
西は、その時ウラヌスの鬣(たてがみ)の一部を切り取り、それを死ぬまで身に付けていた。
アメリカ軍によって発見されたその鬣は、現在北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められている。
◎西の後を追うかの如く、西が硫黄島で戦死した1週間後に、ウラヌスも東京世田谷の馬事公苑の厩舎で静かに息を引き取った。(実に不思議な因縁を思わせる感慨深い事である)
馬(生きとし生けるもの)へのリスペクトを知り、信頼関係を築いていた西にとって小さな島国の当時の理不尽な思想は、とても受け入れられないものであっただろう。
その為に最終的には硫黄島という大左遷の憂き目に遭いながら、その「死の最前線」において、負傷したアメリカ兵を乏しい薬品で治療したり、戦線を離脱した日本兵に対しても情け深い対応をしたという西 竹一の人間性をうかがわせる幾つかのエピソードが遺っている。
これもやはり、ウラヌス号と西 竹一との信頼関係が築いた貴重な「記憶遺産」なのだ。
メダルの数やその色だけに注目していると、大事なものを見落とすことになりかねない。
障害を越えるウラヌスと西。通常、馬が障害を越える際、馬は前足を折りたたむことが多いが、ウラヌスは真っすぐに伸ばしている。これもウラヌスと西が築き上げた技と言えるだろう。
戦火をあげる硫黄島。この写真が撮られた時、西はまだ生きていてこの島のどこかにいたはずだ。