遂に松浦市立養源小学校も閉校してしまうことになりました。初めて同校を訪問したのは、2011年の秋のこと。私の大好きな映画「にあんちゃん」のロケが行われた学校として、是非とも見てみたい小学校でした。(当時の記事)
当時は、間もなく統廃合の波に呑み込まれてしまうのではないかと心配していましたが、正式な発表も聞かないので、なんとか存続し続けてくれるものと、かすかに期待していましたが、やはり駄目でした。
行くと寂しくなってしまうのではと躊躇していたのですが、やはりもう一度しっかり見ておくべきと思い直し、同校に到着後、校長先生にお会いし、写真を撮らせてもらうことにしました。大変有難いことに、以前の記事の事を知っておられて、快く承諾して頂いたばかりか、閉校式のご案内までも頂きました。本当に恐縮しました。
市町村合併により松浦市となったものの、養源小があるのは、佐賀県と橋でつながっている島、福島です。
かつて炭鉱の島として大いに栄えた福島は、南に福島小、北に養源小と2校でずっとやってきたわけですが、28年度からは福島小を「福島養源小」と改称し、整備を行うことになっているようで、実質養源小の閉校ということなのですが、「養源」の名が残されることは、せめてものことでしょう。
掲揚台にはブルーシートの掛けられた石碑がありました。閉校式に披露されるものでしょう。
合併とは言うものの、地域の人たちにとっては、学校が無くなることに変わりはないことで、喪失感は計り知れないものがあるでしょう。
玄関には、古写真なども掲示してありました。
昭和31年に撮影された養源小学校(向かって左側)、右側は30年3月まで福島中学校養源部として使用された校舎です。
人文字で「泉」という形をつくっていますが、なぜ人文字が「泉」なのかが、どうしてもわかりません。
下駄箱。やはり生徒数は減っていたのでしょう、だいぶ余裕があるようです。
玄関から奥を向いた図。「養源魂」という文字が見えますが、そもそも校名になった「養源」は地名でも無さそうだし、どんな由来があったのか、知りたいところですが、資料を見つけることはできませんでした。
掲示板の新聞記事や集合写真。
玄関の脇には、集まって話し合いなどをするスペースがあります。こういうところは、小さい学校ならではの「良さ」でしょう。
掲示板に掛けてあった言葉。手書きの文字、いいですね。
個人的な興味で恐縮なのですが、どうしても映画「にあんちゃん」の中に出てきた養源小学校の姿と結び付けてしまいます。映画の中の「ピチピチした子供」と書いてある額が掛かった教室内などが思い出されました。
グラウンドの隅には、「にあんちゃん」撮影の地の碑が立っていました。
映画の中で確認できる場所を何か所か紹介いたします。
お弁当のない高一(たかいち=にあんちゃん)が昼休みに高鉄棒に乗っている場所。背後には福島と同じく炭鉱で栄えた島、飛島が写っています。
そこへ妹の末子が、自分の弁当を食べろとやってきますが、「いや、お前が食べろ!」と追い返されます。
その場所には鉄棒はなくなっています。映画の中に見える若木が成長したのか、樹木が茂り、海側を眺めることも難しくなっていましたが、確かにこの場所から飛島のボタ山跡がちゃんと見えました。
高一が校舎に向かって走った場所。
校舎も鉄筋造に建て替わっていますが、階段だけは当時のまま残っているようです。
高一が水を飲んだ水飲み場。
水飲み場は変わっていないようですね。ただし、今は飲むというより、手洗いに使用することがほとんどのようです。
ちなみに安本末子さんの「にあんちゃん」は、佐賀県東松浦郡入野村にあった杵島炭鉱大鶴鉱業所で親を亡くした4人の兄妹が、貧しいながらも懸命に暮らした日々の出来事を日記として綴ったものです。末子や高一が通ったのは、佐賀県の入野小学校大鶴分校でしたが、映画のロケ時には炭鉱も閉山し、大鶴分校も閉鎖されていた為、近隣で地形等の比較的似ていた福島の鯛之鼻炭鉱と養源小学校でロケが行われたということです。
映画「にあんちゃん」の中に見る、佐賀県肥前町高串からの鯛の鼻炭鉱の街の灯
映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛の鼻炭鉱の風景①
映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛の鼻炭鉱の風景②
映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛の鼻炭鉱の風景③
校旗。見えにくいですが、二枚の桜の中央に「養」の文字があります。
校舎側から正門を見た風景です。正面に飛島が見えています。夜ともなれば、24時間操業の炭鉱の灯と、街の灯がお互いによく見えていたことでしょう。私もその灯をぜひ見てみたかったものです。
昭和35年に移築された旧中学校養源部校舎です。昭和25年の建築ですので、「にあんちゃん」の頃はもちろん、戦後間もない頃の雰囲気がよくわかる貴重な建築です。
校区には、鯛之鼻をはじめ、徳義、鍋串などの炭鉱があったので、実際に多くの炭鉱街の生徒たちもこの校舎で学んだことでしょう。
現役で使われているだけあって、中には、まだ子どもたちの行き交う姿が見えるようでした。
数々の運動会を盛り上げてきたであろう道具たち。
この時は、赤・青・黄に分かれての運動会だったのでしょうか。
数々の夢を描き、未来に向けて巣立っていった多くの中学生たちに想いを馳せました。
体育館の壁面には、修学旅行や学校行事の思い出が共同制作でペイントしてあります。
養源ソーラン。黒髪山登山。養源西遊記・・・数々の楽しかった思い出が描かれていますね。
稲佐山から見た長崎市の夜景が、こんなに星のように見えたと感じてくれたのだとしたら、市民としてこれほど嬉しいことはありません。
様々な思い出、それはここを巣立っていった卒業生、或いは学んだことのある児童、全員の貴重な財産です。それは必ずしも形だけではないかもしれませんが、何年経っても振り返った時にそこにあるものであってほしいと願いつつ同校を後にしました。
かつて炭鉱の島として大いに栄えた福島は、南に福島小、北に養源小と2校でずっとやってきたわけですが、28年度からは福島小を「福島養源小」と改称し、整備を行うことになっているようで、実質養源小の閉校ということなのですが、「養源」の名が残されることは、せめてものことでしょう。
掲揚台にはブルーシートの掛けられた石碑がありました。閉校式に披露されるものでしょう。
合併とは言うものの、地域の人たちにとっては、学校が無くなることに変わりはないことで、喪失感は計り知れないものがあるでしょう。
玄関には、古写真なども掲示してありました。
昭和31年に撮影された養源小学校(向かって左側)、右側は30年3月まで福島中学校養源部として使用された校舎です。
人文字で「泉」という形をつくっていますが、なぜ人文字が「泉」なのかが、どうしてもわかりません。
下駄箱。やはり生徒数は減っていたのでしょう、だいぶ余裕があるようです。
玄関から奥を向いた図。「養源魂」という文字が見えますが、そもそも校名になった「養源」は地名でも無さそうだし、どんな由来があったのか、知りたいところですが、資料を見つけることはできませんでした。
掲示板の新聞記事や集合写真。
玄関の脇には、集まって話し合いなどをするスペースがあります。こういうところは、小さい学校ならではの「良さ」でしょう。
掲示板に掛けてあった言葉。手書きの文字、いいですね。
個人的な興味で恐縮なのですが、どうしても映画「にあんちゃん」の中に出てきた養源小学校の姿と結び付けてしまいます。映画の中の「ピチピチした子供」と書いてある額が掛かった教室内などが思い出されました。
グラウンドの隅には、「にあんちゃん」撮影の地の碑が立っていました。
映画の中で確認できる場所を何か所か紹介いたします。
お弁当のない高一(たかいち=にあんちゃん)が昼休みに高鉄棒に乗っている場所。背後には福島と同じく炭鉱で栄えた島、飛島が写っています。
そこへ妹の末子が、自分の弁当を食べろとやってきますが、「いや、お前が食べろ!」と追い返されます。
その場所には鉄棒はなくなっています。映画の中に見える若木が成長したのか、樹木が茂り、海側を眺めることも難しくなっていましたが、確かにこの場所から飛島のボタ山跡がちゃんと見えました。
高一が校舎に向かって走った場所。
校舎も鉄筋造に建て替わっていますが、階段だけは当時のまま残っているようです。
高一が水を飲んだ水飲み場。
水飲み場は変わっていないようですね。ただし、今は飲むというより、手洗いに使用することがほとんどのようです。
ちなみに安本末子さんの「にあんちゃん」は、佐賀県東松浦郡入野村にあった杵島炭鉱大鶴鉱業所で親を亡くした4人の兄妹が、貧しいながらも懸命に暮らした日々の出来事を日記として綴ったものです。末子や高一が通ったのは、佐賀県の入野小学校大鶴分校でしたが、映画のロケ時には炭鉱も閉山し、大鶴分校も閉鎖されていた為、近隣で地形等の比較的似ていた福島の鯛之鼻炭鉱と養源小学校でロケが行われたということです。
映画「にあんちゃん」の中に見る、佐賀県肥前町高串からの鯛の鼻炭鉱の街の灯
映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛の鼻炭鉱の風景①
映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛の鼻炭鉱の風景②
映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛の鼻炭鉱の風景③
校旗。見えにくいですが、二枚の桜の中央に「養」の文字があります。
校舎側から正門を見た風景です。正面に飛島が見えています。夜ともなれば、24時間操業の炭鉱の灯と、街の灯がお互いによく見えていたことでしょう。私もその灯をぜひ見てみたかったものです。
昭和35年に移築された旧中学校養源部校舎です。昭和25年の建築ですので、「にあんちゃん」の頃はもちろん、戦後間もない頃の雰囲気がよくわかる貴重な建築です。
校区には、鯛之鼻をはじめ、徳義、鍋串などの炭鉱があったので、実際に多くの炭鉱街の生徒たちもこの校舎で学んだことでしょう。
現役で使われているだけあって、中には、まだ子どもたちの行き交う姿が見えるようでした。
数々の運動会を盛り上げてきたであろう道具たち。
この時は、赤・青・黄に分かれての運動会だったのでしょうか。
数々の夢を描き、未来に向けて巣立っていった多くの中学生たちに想いを馳せました。
体育館の壁面には、修学旅行や学校行事の思い出が共同制作でペイントしてあります。
養源ソーラン。黒髪山登山。養源西遊記・・・数々の楽しかった思い出が描かれていますね。
稲佐山から見た長崎市の夜景が、こんなに星のように見えたと感じてくれたのだとしたら、市民としてこれほど嬉しいことはありません。
様々な思い出、それはここを巣立っていった卒業生、或いは学んだことのある児童、全員の貴重な財産です。それは必ずしも形だけではないかもしれませんが、何年経っても振り返った時にそこにあるものであってほしいと願いつつ同校を後にしました。
私は福島小学校出身ですが、よく養源に行きました。
今は海外にいますが、ふと夢で思い出し、朝の四時に検索してたどり着きました。
もう30年前ですが、当時から人口減少は止められなかったのですね。。
ずいぶん長く帰ってませんが、今年は帰ろうと決意できました