平成28年3月末をもって閉校となる、東彼杵郡東彼杵町立大楠(おおぐす)小学校。以前の記事でも紹介しましたが、この学校の校名である「大楠」は地名ではなく、樹木の「大クス」からとられています。
通常は地名が付けられることが多いのだと思いますが、木の名前が付けられるとはいったいどういうわけでしょうか?日本の小学校の黎明期とも言える明治初期の8年に、この学校が創立した時から、その「大楠」の名が付けられています。

その「大楠」の名の元になったのは、もともと集落のある二ノ瀬集落にあったという巨大なクスノキです。現在は大クスがあったという場所に二代目のクスノキがあります(下画像・学校から坂を少し下った場所)

しかし、校名の「大楠」は、『梢までの高さが約23.6m。幹の周囲は16.9m、直径は5.4mあり、幹の一部が空洞になっていて、畳八畳が敷け、中に大人15人が立てた』というその桁外れな大きさ・知名度にあやかったわけではありません。
明治27~28年頃、樟脳を採る為にやむなく切り倒された初代大楠を売ったお金でこの小学校を建てることができたからなのです。
つまり、初代大クスは、この学校に姿を変え、ずっと子どもたちを育んできたということなのです。



通常は地名が付けられることが多いのだと思いますが、木の名前が付けられるとはいったいどういうわけでしょうか?日本の小学校の黎明期とも言える明治初期の8年に、この学校が創立した時から、その「大楠」の名が付けられています。

その「大楠」の名の元になったのは、もともと集落のある二ノ瀬集落にあったという巨大なクスノキです。現在は大クスがあったという場所に二代目のクスノキがあります(下画像・学校から坂を少し下った場所)

しかし、校名の「大楠」は、『梢までの高さが約23.6m。幹の周囲は16.9m、直径は5.4mあり、幹の一部が空洞になっていて、畳八畳が敷け、中に大人15人が立てた』というその桁外れな大きさ・知名度にあやかったわけではありません。
明治27~28年頃、樟脳を採る為にやむなく切り倒された初代大楠を売ったお金でこの小学校を建てることができたからなのです。
つまり、初代大クスは、この学校に姿を変え、ずっと子どもたちを育んできたということなのです。



それ故、この学校は、
大楠小学校(明治8年) → 蔵本小学校大楠分校(明治13年) → 公立中等彼杵小学校大楠分校(明治14年) → 簡易大楠小学校(明治19年) → 大楠尋常小学校(明治25年) → 彼杵尋常高等小学校大楠分教場(大正2年) → 彼杵町国民学校大楠分教場(昭和16年) → 彼杵町立彼杵小学校大楠分校(昭和22年) → 彼杵町立大楠小学校(昭和24年) → 東彼杵町立大楠小学校(昭和34年~現在)
と何度も名前を変えながらも、一度も「大楠」の名が外されたことがありません。

校歌の歌詞、2番にも大楠のことが語られています。
「東彼杵郡東彼杵町立大楠小学校校歌」
昨年、平成27年まで実に140年の長きに渡って、子どもたちを育ててきた学校なのでしたが、人々の間では、そんな歴史さえも忘れ去られてしまったかのようです。
しかし、児童たちはちゃんと感謝の言葉を張り紙にして表していました。
「 ありがとう 大楠小 たくさんの思い出を いつまでも 」と書いてあります。

どこの学校でもそうなのですが、とりわけこの大楠小の場合は、「ありがとう」の文字が胸にしみます・・・。

通用門側から見た校舎です。

この時は授業中でした。人数はだいぶ少なくなったようでしたが、中からは児童たちの元気な声が時折響いてきていました。

航空写真の跡でしょうか。グラウンドに「大ぐす」のラインが残っています。

体育館下のコンクリートの壁には、卒業制作の壁画がありました。仲が良く楽しかった学校生活が浮かんでくるようです。

いつの時代からあるものかはわかりませんが、古い門柱がひっそりと立っていました。
学校が無くなった後も、この石柱だけはずっとこの地に、立ち続けてゆくのでしょうか・・・・。

学校を訪問した時(もちろん職員室にも挨拶しました)は、午後3時をまわっており、一年生は下校時間となっていたようでした。
大楠小学校では、おうちの方が一年生を迎えに来て一緒に下校しているようでしたので、遠くから撮らせていただきました。たった一年だけの思い出となってしまいますが、きっとこの小学校のことは一生忘れることはないのだろうと思いました。
大楠小学校(明治8年) → 蔵本小学校大楠分校(明治13年) → 公立中等彼杵小学校大楠分校(明治14年) → 簡易大楠小学校(明治19年) → 大楠尋常小学校(明治25年) → 彼杵尋常高等小学校大楠分教場(大正2年) → 彼杵町国民学校大楠分教場(昭和16年) → 彼杵町立彼杵小学校大楠分校(昭和22年) → 彼杵町立大楠小学校(昭和24年) → 東彼杵町立大楠小学校(昭和34年~現在)
と何度も名前を変えながらも、一度も「大楠」の名が外されたことがありません。

校歌の歌詞、2番にも大楠のことが語られています。
「東彼杵郡東彼杵町立大楠小学校校歌」
作詞 堀池正夫
作曲 橋村文夫
一
東雲そめる あかつきの
輝くのぞみ むねにひめ
高き理想に 生きる子ら
共に進まん 共に進まん
おお我ら
二
はるかに続く 山脈の
姿のごとき 大楠に
まつわる歴史 うけつぎて
誇り守らん 誇り守らん
おお我ら
三
豊けき里に 星みちて
明日の夢を 描く子ら
ほほえむ顔に 幸多く
平和きずかん平和きずかん
おお我ら
昨年、平成27年まで実に140年の長きに渡って、子どもたちを育ててきた学校なのでしたが、人々の間では、そんな歴史さえも忘れ去られてしまったかのようです。
しかし、児童たちはちゃんと感謝の言葉を張り紙にして表していました。
「 ありがとう 大楠小 たくさんの思い出を いつまでも 」と書いてあります。

どこの学校でもそうなのですが、とりわけこの大楠小の場合は、「ありがとう」の文字が胸にしみます・・・。

通用門側から見た校舎です。

この時は授業中でした。人数はだいぶ少なくなったようでしたが、中からは児童たちの元気な声が時折響いてきていました。

航空写真の跡でしょうか。グラウンドに「大ぐす」のラインが残っています。

体育館下のコンクリートの壁には、卒業制作の壁画がありました。仲が良く楽しかった学校生活が浮かんでくるようです。

いつの時代からあるものかはわかりませんが、古い門柱がひっそりと立っていました。
学校が無くなった後も、この石柱だけはずっとこの地に、立ち続けてゆくのでしょうか・・・・。

学校を訪問した時(もちろん職員室にも挨拶しました)は、午後3時をまわっており、一年生は下校時間となっていたようでした。
大楠小学校では、おうちの方が一年生を迎えに来て一緒に下校しているようでしたので、遠くから撮らせていただきました。たった一年だけの思い出となってしまいますが、きっとこの小学校のことは一生忘れることはないのだろうと思いました。