島原半島の中央にそびえる雲仙岳(正しくは普賢岳、国見岳など三峰五岳の雲仙連峰或いは山体)。
島原半島のシンボルであり、かつ国立公園第一号ともなった有数の観光地であるのは、有名なところです。
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明治・昭和期の浮世絵版画師、川瀬 巴水が描いた雲仙、「天草より見たる 雲仙」は、静かなこの地の風情をよく表しています。
かつてはキリシタンの郷として栄えた後、島原の乱(或いは島原・天草の乱)により一時は荒廃したこの地方が、2015年の今、再び世界遺産を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一部として注目を浴びようとしているという事を想うと、悠久の時の流れを感じるというのか、感慨深いものがあります。
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平成3年6月3日に発生し、死者・行方不明者43人を出した大火砕流でも全国にその名を知られた雲仙は九州では阿蘇や桜島とともに知られた火山です。
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大火砕流を起こした普賢岳とは離れた温泉街に隣接して噴気や熱水が噴き出す場所、それが雲仙地獄です。
幼い頃、国鉄長崎駅に県内観光地のパネルが張ってあったのですが、その中でも、脳裏に焼きついている一枚のパネル写真がありました。それが、下の雲仙地獄で撮られたもので、柵から中を覗いているお婆さんの写真でした。観光写真なのに、なぜだかお婆さんは笑顔ではなく、なにやら侘しそうな顔をしていました。
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キリスト教の「地獄」と仏教の「地獄」では、その意味合いやイメージが随分と違うのだと思いますが、高温の蒸気や熱湯が噴き出す様が、仏教の「地獄」のイメージと重なったのでしょう。古代より僧坊などが林立していた地であることもあって、雲仙地獄は間男をした悪女が落ちる「お糸地獄」や地獄に落ちる人々の叫びを表すという「大叫喚地獄」など、この世の悪を戒めるための名が多く付けられています。しかし、元々は青緑色をした「藍染屋地獄」や噴気口が二つ並んだ「兄弟地獄」など、たんに噴気の外観を名にしていたようです。
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さて、その仏教的にいかにも地獄のイメージと重なるこの場所が、キリシタンの弾圧あるいは大虐殺に使われた最初が、あの「島原の乱」の元凶とも言える悪政者、島原領主・松倉 重政の発案によるものでした。
1627年2月28日、パウロ内堀作右衛門ら16人(女、子どもを含む)のキリシタンがここに連れてこられ、裸にされた上で首に縄を巻かれて引きずられ、硫黄のたぎる中に投げ込まれて殺されています。同じ年5月17日にもヨハネ松竹庄三郎ら10人がここ雲仙地獄で殺されました。

その後も残忍な領主や奉行が楽しむかのように続けた雲仙地獄でのキリシタン拷問及び惨殺は当時のヨーロッパにおいて衝撃を持って伝えられています。
1669年アムステルダムで発行されたモンタヌスの「日本誌」に掲載された「雲仙地獄の殉教」図は有名になり、1691年パリで再版されたほか、1705年ロンドンで英語版、1722年ベネチアでイタリア語版、1737年アウグスブルグでドイツ語版、1749年リスボンでポルトガル語版が出版され、広くヨーロッパ中に知られることとなりました。
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当時の為政者の残虐極まりない行いはともかく、ヨーロッパの人たちが関心を寄せたのは、拷問を受け続けたキリシタン達が、命を奪われてもなお信仰を捨てず、むしろよりいっそう強くしたという、その精神性に対してであり、そのことが日本人への親近感を高めさせたといいます。
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そういう歴史を知った上でここに立つと、ごうごうと噴き上げる蒸気の音は、何だか人々の叫びのようにも聞こえてくるから不思議です。(正面が大叫喚地獄)
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1629年になると、長崎奉行 竹中采女正重義(たけなか うねめのしょうしげよし)も松倉重政からの勧めで、長崎の牢にいたキリシタンを雲仙地獄へ連れて行っています。いったい何の勧め?なんでしょう。
長崎ではそれを「山入り」と称し、茂木から船で小浜へ渡り、雲仙まで登るというルートでした。

途中のバス停には、その名残りが残っています。
「耳採」の地名。このあたりで連行していたキリシタン達の耳を切り採ったことから、その名がついたと言われています。表向きの拷問の名目は、「キリスト教を棄てさせる為」としながらも、脱走したとしてもキリシタンである証を消させないために、このように耳や手足の指を切り落としたり、また額に「切支丹」の焼印を付けたりしたといいますから、結局はこのような拷問・惨殺も、一般民への恐怖の植え付けと、残虐な振舞いへの享楽への結果であったと言っても言い過ぎではないでしょう。
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雲仙地獄の一角には大十字架と二つの記念碑が立っていますが、目立たない場所であるためか、ここまで足を運ぶ人はそう多くはありません。
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一つは昭和14年に長崎県が建てた「聖火燃ゆの碑」
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そして昭和36年にカトリック長崎大司教区が建てた「キリシタン殉教記念碑」です。
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この碑には、6名の殉教福者の名が刻まれています。
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今では避暑地としても多くの観光客で賑わっている雲仙温泉と雲仙地獄。
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遠い歴史に想いをはせるのも一興でしょう。
また、島原半島は昭和初期まで荷馬車などを曳く、「島原馬」の産地でもありました。巴水の描いた下の版画のごとく、大らかで平和な郷であった時代の風情を楽しめる場所として、今後も多くの訪問者が訪れたくなる場所であって欲しいと思っています。
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