2014年の4月にNHKで「廃校が招いた過疎」という特集が放送されました。番組をあらためて見直してみるまでもなく、「小中学校の廃校」→「子どもを持つ若い世代の流出」→「人口減少」→「医療機関や商業施設等の閉鎖」→「更なる人口減少」→「急激・深刻な過疎化の進行」という図式は誰にでも理解できますが、更に番組のデータファイルサイト、「DETA FILE.JAPAN」では、『教育効果を上げる為の統廃合すらも限界にくる!』と予想しています。  

それでも尚、閉校ラッシュが続いているのは、財政問題やその他の事情が存在するということなのでしょうが、毎年何校も閉鎖されていくこの「速さ」にはいささか恐怖すら覚えます。

今回はタイトル通り、2014年の秋、「平成26年度をもって統廃合の為閉校となる南島原市の4小学校(正確には5小学校となる)を巡り、少しだけ写真を撮らせてもらってきました。残念なことには、この日、同地区の校長会が開かれていたらしく、まったく校長先生にお会いすることができなかった為、十分なお話の取材が叶いませんでした。
したがってまったく深み・掘り下げの無い、ただ外観写真を並べただけの実に粗野な内容の記事となっており、関係者様には無礼千万であると、ただただ恐縮の限りですが、それでも遠く故郷を離れられている方には写真を眺めるだけでも、いくらか役に立つこともあろうかと思い、記事にしました。その点をどうぞご了承下さい。

まず初めに訪れたのが、南島原市立梅谷(うめだに)小学校です。 (南島原市南有馬町己2889番地)

梅谷校の開校は明治19年。「清谷学校」の名で、1棟の倉庫からスタートしています。その後、「簡易古園小学校」「古園尋常小学校梅谷分校」「古園尋常小学校梅谷分教場」「南有馬町古園国民学校梅谷分教場」「南有馬町立梅谷小学校」と名称を変え、移転・改築を繰り返して今に至っています。

現在の正面玄関です。靴箱に置いてある靴の数でおおよその生徒の数が想像できます。

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正面の掲示板、左下に掛けてある写真は、この古写真です。
これは、昭和6年に撮られた、梅谷分教場の落成式の記念写真です。写真に写る人たちは紋付羽織袴やスーツに身を包み誰もが晴れやかな顔をしています。
地元の子ども達が通う学び舎が段々とよくなってきたことへの喜びがひしひしと伝わってきます。
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校舎は集落を見下ろす高台の上にあります。近くの民家の庭先に立つ幟(のぼり)が風にはためいていました。
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幟には「「五穀豊穣・・・」と書かれています。実りの黄色と空の青。まさに「豊穣の秋」そのものですね。
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しかしその幟の近くには梅谷小の残り日数を示す切ない看板が設置してありました。
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看板の一部に描かれているイラストは現在の児童を描いたものなのでしょうか?なんとも愛らしいイラストですね。
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梅谷小学校は屋根部分のオレンジが青空に映える、美しい校舎です。
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広いグラウンド。
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グランドの隅に経つ、大きなモチの木です。
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絵本でも有名な「モチモチの木」は、ずっとここで子どもたちの活動を見守ってきたのでしょう。
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こちらは体育館わきに並ぶサクラ。春には満開となり新1年生たちを迎えていたのでしょう。
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この時は高台に続くスロープにコスモスが咲いていました。自然に囲まれたこの学校はいつも四季おりおりの花に囲まれていたことでしょう。
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にわとりの飼育小屋です。「コケッコランド」という可愛い名前がついています。
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体育館の下足箱の上には楽しそうな学校生活の様子を描いた卒業制作が飾ってありました。
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写真に見える集落の人たちにとって「希望の象徴」であったであろう梅谷小学校の存在・・・・。このバス停で乗り降りする人もまた少なくなってしまうことでしょう。
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こういった「学校があった痕跡」も来年度には徐々に姿を消してしまうのでしょうか?
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次に白木野(しろきの)小学校へと向かいます。海に突き出た場所は「島原の乱」の舞台となった原城址です。手前には溜め池が見えています。
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地図アプリ等で見ると、よくわかりますが、この辺りには無数の溜め池が存在します。つまりこの辺りの土壌が水持ちが悪かった為、このように多くの溜め池を作らなければならなかったということを示しています。農作業の苦労にも関わらず、重税と領主による残酷な仕打ち。上の写真は「島原の乱を感じる一枚」とも言えますね。


戦乱の地、原城址はここからどのように見えていたでしょうか・・・。しばし思いに耽ります。
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白木野小学校前にも閉校までのカウントダウンの看板と古写真の展示がありました。が、なんとも迷惑?な駐車車輌の為、写真を見ることができませんでした。残念なことです。
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なんとか車をよけて撮ろうとしたのですが、この通り・・・。校舎の前に多くの児童が集まっていることはわかるのですが。
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こちらは集合写真ですね。着物を着ている児童も見えるので昭和初期頃かと思いますが、何となくカラー写真のように見えるのが不思議です。
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南島原市立白木野小学校 (南島原市南有馬町丙1796番地)。こちらも明治8年の創立以来、「白木野小学校」「初等白木野小学校」「簡易白木野小学校」「白木野尋常小学校」「南有馬町白木野国民学校」「南有馬町立白木野小学校」と改名を繰り返し、今に至っています。
白木野小学校も、台風による倒壊や新校舎建設の度に個人宅や神社拝殿などを利用して授業を続けてきています。
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日本を代表する彫刻家、北村 西望は南有馬村時代の白木野の生まれであり、白木野尋常小学校へ入学しています。有馬尋常高等小学校を卒業し小学校準教員免許取得した後は、代用教員として母校・白木野小学校で3ヶ月間教鞭をとっています。
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玄関には、その学校の「顔」があります。
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正門から見た校舎。
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正門に立って外を見ると畑の向こうには海が広がり、遠く天草が見えています。
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グラウンドの一角には、大きな2本のクスノキが立っています。
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歴史を感じさせる雄大な姿をしています。
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その根元にはコンクリート造のトリが3羽。デザインから察すると、かなり古い時代のものではないでしょうか?
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学校の近くにある簡易郵便局と商店。ずっと学校の傍にあって、買い物をする児童たちで賑わってきたことでしょう。集落が出来て、最初に必要なもの、それが「学校」「郵便局」そして「商店」であるような気がします。その中の中心的な「学校」が無くなってしまうのは、いやがうえにも寂しくなるでしょうね。
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校舎から体育館に向かう渡り廊下。
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校舎北側と玄関口。
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玄関から内部を見た図です。
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校舎からは授業を受ける子ども達のにぎやかな声が聞こえてきていました。
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次に向かったのが、明治7年に開校した南島原市立古園(ふるぞの)小学校です。(南島原市南有馬町己234番1号)
この小学校もまた、141年の歴史の間に、「古園小学校」「簡易田中小学校」「簡易古園小学校田中分校」「田中尋常小学校」「古園尋常小学校」「南有馬町古園国民学校」「南有馬町立古園小学校」と名称を変えつつ歩んできています。
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古園小学校の正門前には、お寺(常光寺)とひかり保育園がまるでくっつくように建っています。その間には田があり、ちょうど稲干しの作業中でした。
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その一角は学校田となっているようです。よく実っていますね。
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しばらくすると、ひかり保育園の園児たちが園庭に出てきました。その中の一人が作業者の中に自分の父親をみつけたようで、大きな声で「おとうさーん!」と叫んでいました。
作業に精を出す大人と子ども達の姿・・・。なんともほのぼのとした平和な光景でした。しかしこの子達が直ぐ横の小学校に歩いて通うことはおそらく永遠にありません。
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創立百年記念の石碑も、寂しく映るばかりです。
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校舎の前。花壇が見えています。
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正門の文字は北村 西望筆とありました。
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正面玄関です。
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撮影時は授業が行われており、各教室から先生と児童たちの活発なやりとりが聞こえてきていました。
「1年生」たちは、この学校に一年だけ学ぶことになります。
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フェンスに張られた、「ありがとう古園小学校さようなら」の文字。
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標題の4つの小学校が統合される先が、この南有馬小学校です。南有馬小学校は明治7年に開校し、やはり長い歴史の間に、「尋常浦田小学校」「尋常原城小学校」「尋常有馬小学校」「有馬尋常小学校」「南有馬尋常高等小学校」「南有馬町南有馬国民学校」「南有馬町立南有馬小学校」と名称を変えながら歩んできています。
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統合先とは言え、やはりこの南有馬小学校も閉校ということになります。
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27年4月からは、この「輪っか」が増えるわけなので、皆で仲よく頑張ってほしいと思いますね。
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南有馬小学校は一時、「尋常原城小学校」という名称であった時代がありましたが、「島原の乱」で有名な原城址からとても近いところに建っています。
かつて島原鉄道南目(みなみめ)線が通っていた頃の「原城」駅が近くに残っていました。
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「島原映画案内」の案内板。観光や行楽で賑わった当時がしのばれます。
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最後に向かうのは、明治8年に開校した南島原市立吉川(よしかわ)小学校です。(南島原市南有馬町甲612番地)
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この吉川小学校も140年という長い歴史を持っていますが、「吉川小学校」「簡易吉川小学校」「吉川尋常小学校」「南有馬町吉川国民学校」「南有馬町立吉川小学校」と、「吉川」の名称だけは変わらずに今に至っています。
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吉川小にも閉校までの日数のカウントダウンを知らせる看板がありました。本当に「ありがとう」としか言いようがありませんね。
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正門から見た校舎です。
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正門から入るとすぐ「二宮金治郎」像が。こうしてじっくり見ると、いかにもこの地島原にふさわしい像に思えます。
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学校園(花壇)です。
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そして飼育小屋。
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やはりここも授業中であり、活発な児童の声が響いていました。
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グラウンド。思いっきり走りまわれそうです。
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グラウンド側から見た校舎。
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体育館の中に見えた、「にゅうがく おめでとう」の看板。もう使われることはないでしょう。
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同小を後にし、帰路へつく為に海側に下っていきました。どこまでも蒼い海が広がっておりました。
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2015年1月現在、文部科学省は、1学年1学級以下でクラス替えができない6学級以下の小学校と3学級以下の中学校について、「統合の適否を速やかに検討する必要がある。統合が困難な場合は小規模校のメリットを最大限生かす方策を積極的に検討、実施する必要がある」としている。

自治体に委ねるとしながらも、具体策を出せない小規模校は、今後もどんどん閉鎖=統合すべし!という意味なのでしょうか?
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海岸沿いには西望の彫刻が、海側でなく半島側を指差して立っていました。「建国の雄姿」というのだそうです。意味は次の写真にある通りです。
像はまるで、「そこに先達たちが汗を流し、守り育ててきた学び舎があったのだ!」・・・とでも言わんばかりに見えます。
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この地の児童・生徒達の未来に幸多かれと願いつつ、島原を去りました。



ご参考までに  

NHK 2014 4/13 放送「第2回 廃校が招いた過疎」 DATAFILE. JAPAN (他サイト)