平成26年3月末で閉校する 南島原市立堂崎(どうさき)小学校 木場(こば)分校は、南島原市 有家(ありえ)町木場地区にあります。同地区は島原半島の中央に鎮座する雲仙山系の広くなだらかな山裾にあり、辺りには広大な畑が広がっています。
この分校は、1年生から3年生までの児童が通う分校で、4年生からは本校である堂崎小学校に通うことになります。
タイトル通り、「幼い一年生や下級生が、自分の力で歩いて登下校できるように」という目的で存在する分校なのです。
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分教場が出来たのは、明治・東有家村時代のことです。その後、南高来郡有家町立の時代が長かったわけですが、同町はまるで下図↓↓のように、「雲仙岳を中心として、ピザのように細長く切り取った」ような形をしています。(クリックで拡大)
赤いアンダーラインをした「三又」「藤原」「六郎木」といった地区が、木場分校の校区なのですが、海岸部にある堂崎小本校に行くよりは、西側の新切(しんきり)小学校や布津(ふつ)町の飯野小学校のほうが距離的には近い気がします。
「では、なぜこのような細長い校区となっているか?」ですが、これは推測の域をでませんが、「島原の乱後の移民政策」が深く関係しているような気がします。
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そのあたりの歴史をひもとくには、木場分校のすぐ近くにある玉垂(たまたれ)神社の案内板が役に立ちそうです。
案内板にあるように、島原の乱後、無人となった南島原には幕府の政策により西日本各地から多くの人が移住しています。
この木場地区には、筑後より末吉一族(現在の久留米市辺りか?)が、隣りの六郎木地区には肥前白石(いろいし)から白石(しらいし)一族が移り住んでいます。
この玉垂神社は末吉一族が故郷・高良(こうら)大社(古くは高良玉垂命神社と呼ばれた)から持ってきた分霊を祀ったものだ、とあります。
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調べてみると、高良大社は「古代から筑紫の国魂と仰がれ、筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に篤い信仰圏が見られる」とあるので、この玉垂神社は、木場・六郎木両集落で昔より大事にされてきたのでしょう。
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「なぜ細長い集落に?」についてですが、木場・六郎木が谷を挟んで分けてあるように、入植地が基本、谷や河川などを境にして分けられたからではないのでしょうか?
これはあくまで私の推測ですが、畑に必要なのはやはり水源で、雲仙岳から放射状に流れていた河川を基本として入植地を分けたのではないでしょうか・・・。南高来郡時代の町境を見ると、やはり谷間の河川で分けられている場所が多いように思えます。
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玉垂神社は「安産」の神様で、御神体は「稚児を抱いた、白い髭の老武者」なのだとか・・・。子を大事に守り育てようとするこの土地の気風を象徴しているように思えます。
この小さな鳥居をくぐることが出来れば、ご利益に恵まれるというものです。大人はとてもくぐりぬける事が出来そうにありませんが、多くの子ども達がここをくぐっていったことでしょう。
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さて、分校の先生方ともお会いすることができました。貴重な昼休みにも関わらず、丁寧にご対応して頂きまして、本当に有難いことです。
この分校には教頭先生もおらず、3人の先生方がそれぞれ学年主任・担任となって子ども達の指導にあたっておられました。つまり全体に関わる全ての仕事を学担兼主任の先生を中心に3人で協力してやっていかなければならないということです。これがいかに大変なことかは、元教師にとっては痛いほどわかります。
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この時、閉校式に向けて準備もされておられましたが、残念ながら分校だけに関する資料は殆ど無く、古い写真等もまったく残されていないのだそうです。(閉校式の資料として、随分方々を探されたそうなのですが)
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かろうじて堂崎小本校に残されている資料によると、古くは明治8年に六郎木に寺子屋式授業を行った小学校が出来たとありますが、木場分校として成立したのは、明治36年の「木場分教場」のようです。
その後、本校が尋常小学校、尋常高等小学校、国民学校、村立小学校、町立小学校と変遷を重ねる間、この分校も同じく名称を変えていったのだと思いますが、そのあたりの記述がなされていないので、ここに記述することが出来ません。
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現在の校舎は昭和63年3月に落成したようです。2階建ての校舎で、画像向かって奥が職員室及び各教室、手前が体育館と倉庫等となっています。非常にコンパクトで、使いやすい建物であるように見えました。
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グラウンドの片隅に立っている石碑には、「増築祈念 昭和17年」と彫ってあるようです。現在の校舎の前には、昭和17年に増築がなされているようです。
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ふと気になったのが、この屋根のデザインです。中央に小さな屋根が付いています。もしかして、このあたりに特有の古民家のデザインを模したものなのでしょうか?
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辺りには古い家屋がたくさん残されています。この家屋にも同じような小さな屋根が付いていますね。囲炉裏の煙を外に出す為の「煙やぐら」にしては、大きすぎるような気がします。私がかつて住んでいた群馬県は養蚕が盛んな土地で、かいこ部屋の室温が上がり過ぎないように、このような換気窓が屋根についている農家がよく見られましたが、調べてみると島原半島は養蚕が非常に盛んだったらしいので、もしかすると養蚕農家の造りなのかもしれません。
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そして、この地方はかつて馬の産地としても知られていました。正確な資料が手元にありませんが、昭和の初め頃までは、毎年8~9月に有家町 中須川  松原で、仔馬の競り市である「ホロンコ市」が開かれており、大勢の人が集まって賑わったのだということです。
馬の厩舎はさすがに見つけられませんでしたが、下画像の家屋では牛を飼育されておられました。やはりこの地はは夏場、気温が上がるのか、牛舎の天井は高くて風通しのよい造りになっていました。
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こちらは、藁葺き屋根ですね。雲仙岳とよくマッチしています。
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この地区のあちこちには、実に多くの神さまが祀られています。水神さまなど農耕に関する神様が多いのでしょうか?
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電柱を除けば、まったくもって昔ながらの風景が広がっています。
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そして下級生だけとは言え、地区の方々がこの分校を地区のコミュニティの中心地として、また子どもの安全で健やかな学校生活を守るためのものとして、非常に大切にしてこられたことが伝わってきます。
分校前の横断歩道には、ドライバーに注意を促すためのコンクリートの人形がありました。警察官ということなのでしょうか。
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資料はありませんが、この分校建設の際にも、多くの地区の方の献身的な協力があったことでしょう。グラウンドにも、学校に用具などを寄贈した地元の方の碑が残っていました。
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子どもに寄せる期待と心配は今も昔も共通のものでしょう。
子どもが成長し小学校に上がるというのは、ひとつの節目であるし、保護者にとっては感無量なものがあるはずです。
幼児期を卒業し、風雨の強い日も、日照りの強い日も、ランドセルを背負って自分の足で歩いて学校へ通うということは、保護者にとってはもちろん、子ども自身にとっても大変大きな意味があります。
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少子化で同級生も減り、人通りもまばらになった今日、保育園や幼稚園を卒園したばかりの子どもを学校に送りだす際、保護者にとっては常にいくらかの不安や心配はあったでしょう。
幼い子どもが歩いていける距離にある木場分校は、どれほど心強いものだったでしょうか。
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下は明治18年。つまり六郎木に分教場が造られた年に撮られた、お隣り布津(ふつ)町・新田(しんでん)橋の様子です。この頃は、車なども滅多に走ることは無く、橋をゆく人馬の影が、まるで1枚の水墨画のようです。
この頃、子どもは今よりも子どもは多かったかもしれませんが、今のような街灯もなく、子どもを送り出す保護者の心配は今と変わらないものがあったでしょう。
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110年以上の歴史を刻んだ木場分校も、あとひと月半で、その歴史に幕を降ろします。
この地に健気に通う子ども達の姿は見られなくなったとしても、木場分校に幼い頃共に通い、学んだという記憶だけは、いつまでも大事にして欲しいと思います・・・。
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