その②では、タイトル通り「炭都」と呼ぶにふさわしかった巨大な炭鉱街のあとを紹介したいと思います。炭鉱という職場があって、社宅という生活の場があり、家族が暮らす上での学校や郵便局、浴場、商店、遊技場などと拡がってゆきます。このブログでは特に「人々の生活の場」に注目したいと思っています。なぜなら様々な遺構や遺産、そして歴史や史実は今と今後の「人」の生活の為に生かされて欲しいと願うからです。

まずは①で紹介しきれなかった、日鉄鹿町鉱業所内の施設から。下は日鉄4鉱を統括していた日鉄北松鉱業所本部です。
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映画「ラドン」では、病院という設定で撮影が行われたようです。
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東坑からボタ山・選炭所に伸びる送炭線をまたぐ陸橋を山手に登っていったところに本部はあったようです。
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もちろん辺りには、何の痕跡もなく個人様の住宅が立っているだけでした。あえて痕跡と言うのならば、3枚前のモノクロ写真の中に見える立木がわずかに1本だけ残っていたようです・・・。
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そして鉱業所敷地内にあったという実際の病院、加勢病院がこれです。
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地元の方に、聞いて向かった辺りには、やはり何の手がかりも無く、残った樹木から、何となくこの辺りでは・・・と思ったのがこの画像の場所です。
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町誌の中で「日鉄加勢鉱購買会」と記された建物。これも今となっては特定のしようもありません。
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こういった町並みの中にあって、買い物をする人であふれていたことでしょう。
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「ラドン」の中に見える大加勢の町。右上に映画館であった加勢会館と西肥バス車庫が小さく見えています。
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在りし日の加勢会館です。写真はお正月の頃のようですが、街の中心地として様々な興行や集会などが行われ、賑わったことでしょう。
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加勢会館はどこに建っていたかさえ、見当をつけるのが難しくなっています。下画像の中央辺りに建っていたようですが、もちろんその跡をうかがわせるものは何も残っていません。
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しかし、西肥バス車庫はまだ当時のままの姿をとどめていました。バス4台を収納でき、2階は寮になっていたようです。折りしも、西肥バスが横を走り抜けてゆきました。
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選別され商品として出荷可能となった石炭は、選炭上から送炭線で港方面に送られました。その積み出し港の手前には沢山の住宅(左上)があります。
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その場所の俯瞰写真がこれです。大きな長屋であったことがわかります。軒下には家族の洗濯物が干されているのが見えます。(クリックで拡大)
また写真に見える山手には、加勢保育所と加勢教会も見えます。両方の建物とも現在は移転、新築されていますが、昔の建物の位置はこの写真から見当がつくと思います。
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山手から見た加勢地区です。
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これが加勢保育所です。大勢の子どもが写っていますね。
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そしてこれが加勢教会です。
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これも同地の写真ですが、社宅がびっちりと建ち並んでいることがわかります。まさに炭都ですね。
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現在、この場所のほとんどは歌浦(うたがうら)小学校の敷地となっていますが、一部にはその名残りをうかがわせる風景も見られます。
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歌浦小学校です。大変に広いグラウンドを持っています。
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ちょうどお昼時で、給食準備の音楽とアナウンスが流れてきました。子どもたちの声々や姿というのは、やはり地域の宝であると感じました。
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当時の大加勢簡易郵便局です。
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こちらはすっかり建て替わっていますが、同地に今もあります。局員の方は鹿町鉱操業時からこの地に住まわれている方で、今回もいろいろと教えていただきました。
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大加勢から北上すると学区でいう「三坑」「前加勢」「歌浦」と続き、もっとも人口が密集していた地区のようです。
写真は埋立地である前加勢です。
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こちらも当時をうかがわせるものはほとんど残っていませんが、中央の白い建物の手前に何棟かの社宅が残っています。
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前加勢の国道沿いは商店街となっており、当時には多くのお店やお客さんで賑わっていたようです。手前のお店は「野中商店」と読めます。
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2013年現在の同地です。手前右手がかつての野中商店さんです。左手に見える看板は廃業されたガソリンスタンドの看板で、「歌浦青い実幼児園」とあります。左手に折れると同園があり、子どもたちの賑やかな声が響いています。
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この道路をさらに北上すると、昭和31年3月31日をもって廃止された、鹿町小学校船石(ふないし)分教場跡があります。
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現在の同地です。敷地の奥に住宅が見えていますが、その先奥にかつて鹿町炭鉱第二坑がありました。
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昭和初期、この辺りにも賑わった集落があったようです。
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橋の元バス停と道を挟んで向かいには船石簡易郵便局があります。現在も同局はあるのですが、写真を撮り忘れました。画像はかつての船石簡易郵便局です。
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また加勢地区から小佐々方面に南下すると、かつて神林炭鉱があった場所に神林簡易郵便局があります。写真に見える局舎背後の丘のうえには神林小学校がありました。
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現在の神林簡易郵便局です。こうやって考えると、集落が街として発展していく過程では郵便局と学校は、非常に重要なものであったことがうかがえます。
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そして今後再び同地に人の流れが戻ることを願いつつ、同地を後にしました。






(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月