ある1枚の写真から始まった今回の訪問。それは海ばかりの長崎県にはめずらしい、山の中の小さな分校の外海町・町報上の記事でした・・・。

旧西彼杵郡外海(そとめ)町・・・。若き宣教師を描いた遠藤周作の小説「沈黙」の舞台にもなり、同氏の文学記念館も立つ同地方はド・ロ神父の活躍した場であり、今でも地元の信者から親しまれている場所です。
五島列島にあり、世界遺産の候補にあがっている多くの教会とその集落は、この外海地方のキリシタンたちが迫害を逃れ、小船で五島へと渡ったことから形成されたというものが少なくありません。
神浦(こうのうら)町はその外海町の中心にあり、神浦小学校は校舎の建つ段差には「ド・ロ壁」が見られるなど、今でも「キリシタンの里」という風情が色濃く残っています。
また神浦からは、かつて「九州最後の炭鉱の島」として平成13年まで操業を続けた池島の姿もよく見えています。



旧西彼杵郡外海(そとめ)町・・・。若き宣教師を描いた遠藤周作の小説「沈黙」の舞台にもなり、同氏の文学記念館も立つ同地方はド・ロ神父の活躍した場であり、今でも地元の信者から親しまれている場所です。
五島列島にあり、世界遺産の候補にあがっている多くの教会とその集落は、この外海地方のキリシタンたちが迫害を逃れ、小船で五島へと渡ったことから形成されたというものが少なくありません。
神浦(こうのうら)町はその外海町の中心にあり、神浦小学校は校舎の建つ段差には「ド・ロ壁」が見られるなど、今でも「キリシタンの里」という風情が色濃く残っています。
また神浦からは、かつて「九州最後の炭鉱の島」として平成13年まで操業を続けた池島の姿もよく見えています。


神浦小学校が設置されたのは明治6年の江川郷。同10年6月には、大野・大中尾・池島各地区に分教場が設置されています。
小学校令によって「神浦尋常小学校」となった後の同23年、一度分離独立した大中尾分教場ですが、36年に再び神浦小学校分教場に戻っていますが、その大中尾分教場がその後の「神浦小学校扇山分校」となっています。
昭和42年、現在の跡地である扇山に新校舎が新築移転しています。冒頭の記事写真は、その時のものでしょう。
この扇山分校がいつごろ閉校となったのか、長崎市内のあらゆる図書館で調べたのですが、該当する資料を見つけ出せません。外海は遠くではないので、同町に出向き、公民館内にあった町史を調べてみましたが、やはりその記述は見つけることができませんでした。もはやこれまでかと諦めかけた時、館長さんが知人の方に電話してくれ、やっと「昭和60年3月」に閉校と判明しました。
神浦ダムを遡り、行けども行けどもひと気の無い山ばかりですが、ふとそれらしい高台が目に飛び込んできます・・

反対サイドには植樹したらしい桜や楠のような背の高い樹木が並んでいます。

やはりこの場所が神浦小学校扇山分校があった場所でした。

しかし敷地内には、ここに分校があったことを伝える碑はまったくありません。

避難所であることを知らせる看板に「旧扇山分校」とあり、当然住民の方々は知っているのでしょうが、何年も経過した後には、ここに学校があり、いつごろ閉校したか、などはおそらく忘れられてしまうでしょう。

閉校から約30年。記事に見られた「スマートな校舎」は、すでに取り壊されてしまっていると思ったのですが・・

中央の一部だけが改築されながらも残され、今も公民館として使用されているようですね。

全体の1/3ぐらいでしょうか、確かに完成時には「みどりのお山に、スマートな校舎」と映ったことでしょう。

山なみ並みをバックに、整列した元気な子どもたちの姿が浮かんでくるようです・・・

グラウンドはゲートボール場にもなっているようでしたが、ゲームをされる方が少ないのか、或いは皆さん働いておられるのか、使用されている感じはほとんどありませんでした。

コートわきには、分校時代に使用されていたと思われる椅子が積んでありました。

横の倉庫の中にも、机や運動会で使用した順位プレートなどが見えました。

学校の敷地の裏手です。ここにも薄い石を積み重ねたド・ロ壁が見えます。やはりここは多くのカトリック信者さんたちが生活をされていた土地であるということを実感します。

時代ははっきりしませんが、ある方に見せていただいた扇山分校の古写真です。

やはり学校があったこの場所は、集落にとってもずっと「中心」であった場所でしょう。

扇山分校のすぐ目の前にキリシタン史跡である「次兵衛岩」の案内板があります。看板に書いてありますが、この深い山中の、更に奥深い洞窟に潜伏しながら布教していた人がいたのですね。
説明を読む限りでは、さすがに単独では行ってみる気にはなれませんでした。

手前に置いてあるのは、急な山路のための「杖」です。

現代、黒崎教会や出津(しっつ)など、蒼い海のそばにある美しい教会群ばかりが人の目を引きますが、これらの教会が建てられる以前の長い時代は、こういう山深い山中こそがキリシタンの里であり、中心であったことを今に伝えているような気がしました・・・。

小学校令によって「神浦尋常小学校」となった後の同23年、一度分離独立した大中尾分教場ですが、36年に再び神浦小学校分教場に戻っていますが、その大中尾分教場がその後の「神浦小学校扇山分校」となっています。
昭和42年、現在の跡地である扇山に新校舎が新築移転しています。冒頭の記事写真は、その時のものでしょう。
この扇山分校がいつごろ閉校となったのか、長崎市内のあらゆる図書館で調べたのですが、該当する資料を見つけ出せません。外海は遠くではないので、同町に出向き、公民館内にあった町史を調べてみましたが、やはりその記述は見つけることができませんでした。もはやこれまでかと諦めかけた時、館長さんが知人の方に電話してくれ、やっと「昭和60年3月」に閉校と判明しました。
神浦ダムを遡り、行けども行けどもひと気の無い山ばかりですが、ふとそれらしい高台が目に飛び込んできます・・

反対サイドには植樹したらしい桜や楠のような背の高い樹木が並んでいます。

やはりこの場所が神浦小学校扇山分校があった場所でした。

しかし敷地内には、ここに分校があったことを伝える碑はまったくありません。

避難所であることを知らせる看板に「旧扇山分校」とあり、当然住民の方々は知っているのでしょうが、何年も経過した後には、ここに学校があり、いつごろ閉校したか、などはおそらく忘れられてしまうでしょう。

閉校から約30年。記事に見られた「スマートな校舎」は、すでに取り壊されてしまっていると思ったのですが・・

中央の一部だけが改築されながらも残され、今も公民館として使用されているようですね。

全体の1/3ぐらいでしょうか、確かに完成時には「みどりのお山に、スマートな校舎」と映ったことでしょう。

山なみ並みをバックに、整列した元気な子どもたちの姿が浮かんでくるようです・・・

グラウンドはゲートボール場にもなっているようでしたが、ゲームをされる方が少ないのか、或いは皆さん働いておられるのか、使用されている感じはほとんどありませんでした。

コートわきには、分校時代に使用されていたと思われる椅子が積んでありました。

横の倉庫の中にも、机や運動会で使用した順位プレートなどが見えました。

学校の敷地の裏手です。ここにも薄い石を積み重ねたド・ロ壁が見えます。やはりここは多くのカトリック信者さんたちが生活をされていた土地であるということを実感します。

時代ははっきりしませんが、ある方に見せていただいた扇山分校の古写真です。

やはり学校があったこの場所は、集落にとってもずっと「中心」であった場所でしょう。

扇山分校のすぐ目の前にキリシタン史跡である「次兵衛岩」の案内板があります。看板に書いてありますが、この深い山中の、更に奥深い洞窟に潜伏しながら布教していた人がいたのですね。
説明を読む限りでは、さすがに単独では行ってみる気にはなれませんでした。

手前に置いてあるのは、急な山路のための「杖」です。

現代、黒崎教会や出津(しっつ)など、蒼い海のそばにある美しい教会群ばかりが人の目を引きますが、これらの教会が建てられる以前の長い時代は、こういう山深い山中こそがキリシタンの里であり、中心であったことを今に伝えているような気がしました・・・。

















いつも読み逃げばかりで、初めてコメントさせていただきます。
扇山分校は私が中学生のときに閉校になったかと記憶しております。
閉校と同時にスクールバスが運行しました。
私のクラスにも扇山分校に通っていた友達がいました。
懐かしい校舎の写真…思わずコメントさせていただきたくなりました。
ありがとうございます。