鹿町町にある鹿町工業高等学校。長崎県でもっとも北に位置する工業高校ですが、同校がかつての御堂炭鉱跡地に建つことはけっこう有名なことです。
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ここ土肥ノ浦及び御堂地区には昭和36年の閉山まで御堂鉱業所の炭鉱住宅街が広がっていました。
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昭和30~40年代に、ほぼ全てが閉山となった炭鉱の跡地は、公園や公共施設になるケースが多いようですが、「工業高校」になるというのは、なかなかめずらしいのではないかと思います。
閉山後の街は鉱業から農業や水産業などに方向転換せざるをえないケースが多く、人口が流出することから、どちらかというと静かな土地へと向かっていきます。
閉山の相次いだ北松・松浦にあって閉山後すぐに工業高校を新設するというのは、当時関わっていた人たちの熱き意気込みを感ぜずにはおれません。

2012年現在。御堂地区を眺めると、まだ御堂鉱業時代の空気を残す景観が一部残っています。
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何十トン/平方mという地圧に耐える坑道を造った鉱業所の造った社宅はこの通り、約半世紀を経てもびくともしないようですね。
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平屋というのは、本当によくできていると思います。並んで建っても隣りの住宅の陽あたりを妨げません。
干してある布団のカラフルさも、なかなかアーティスティックですね。
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住宅の山頂部からは鹿町工業がよく見えています。
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御堂鉱の坑口。父親たちの出勤していく入り口です。また再び無事に帰れるという保障が一切無い、危険極まりない「職場」なのですが、おそらく父親たちは、そのようなことは、家族には一言も話さなかったでしょう。
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住宅地の中にある広場。鉱業所のあった時代には公共の施設があった場所なのかもしれません。
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御堂鉱業所本部。
御堂鉱は高倉鉱業時代の昭和29年、炭界不況の嵐に耐え切れず一度閉山していますが、5年後の昭和34年に野上鉱業によって再開・復活しています。(同36年閉山)
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再開後わずか2年で閉山したとは言え、熱き鉱業人の想いは、この地に残ったのかもしれません。
翌37年に鹿町工業高校は息吹をあげています。
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同校のHPから一部を拝借しました。
「鹿工訓練」の中の言葉。

一、人員点検
二、体調確認
三、服装点検
四、指差呼称
五、挨拶訓練
六、ゼロ災害宣言

かつての炭鉱マンたちのスピリットを連想したのは、私だけではないでしょう・・・


鹿工OBで三重県在住の方から昭和44年の俯瞰写真を送って頂きました。写真を見るとグランド脇や向かって右側の山手にはボタ山(送炭軌道跡も)が確認できます。
またグラウンドにはラグビーのポストが並んでおり、ラグビー部に力を入れていたことが伺えます。私は高校時代ラグビー部であったのですが、初めての高総体1回戦において対戦したのが、この鹿町工業でした。また、ラグビーと言えば新日鉄釜石が一時代を築きましたが、その「鉄の男たち」も日鉄炭鉱マン達の熱きスピリットを受け継いでいた、といっても言いすぎではないでしょう・・・。
鹿工写真・昭和44年b

*記事をご覧の皆様へ

皆様の心の通い合ったメッセージを拝読するたびに、「この記事を書いてよかった」と胸があつくなります。
やはり、故郷というものは、誰にとっても忘れることのできない、永遠のものであるということを教えてもらいました。
拙い記事ですが、これからも少しでも、皆様の旧交をあたためる場になれば幸いと願っております。
もし当時のお写真とか、記録など、何でもどういったものでも構いませんので、ございましたら、管理者まで、ご送付いただければ、記事の中に付け加えさせて頂ければと思っております。
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