
新深江炭鉱の前身は、大正3年に開坑された深江炭鉱です。その後昭和3年に江迎町の麓蘭吉が買収、いったん井華鉱業に移譲されたものの、戦後の昭和22年から再び同氏の経営となっています。
麓蘭吉は荒廃した坑内外の整備に尽力してきましたが、同27年ころより、炭界には厳しい不況が忍び寄りはじめます・・・・・
(画像は、元坑口付近にある御堂池)


土砂に埋もれていますが、どうやらこの窪みあたりに坑口があったのかもしれません。
人家のすぐ裏にあり、訪れる人もなく、辺りはひっそりとしていました。
コンクリート構造物の近くにある平坦な場所。ここに鉱業所の建物があったと思われます。
29年に炭界を襲った未曾有の炭価暴落によって、実に多くの中小鉱が閉山や休山に追い込まれました。大規模鉱においても、大幅な配置転換や人員削減を余儀なくされています。
深江鉱も種々の経営維持を図りましたが、遂に耐え切れず同年2月をもって休山を決めました。それにより366人の鉱員さんと56人の職員さんがこのヤマを去っています。
それでも同年3月には通産局が「鉱区の良さと従業員の協力で再建見込み」としていますが、休山中の各炭鉱町はきびしい現実に晒されました。
「休鉱の深江鉱、細々と経営の平田山鉱(後の御堂鉱業)、大石鉱」というの状況下で、当時の「鹿町小」では、『 児童1,034人中、弁当なし96人(10%)、栄養失調186人(18%)、長欠20人、学用品不足180人 』となっており、「鹿町中」では『 生徒470人中、長欠15人、朝夕食抜き弁当だけ40人 』という記録が残っています。
また、同年7月にはあの「聖母の騎士」修道会のゼノさんが鹿町小へやってきて、お菓子や衣類を届けています。
(画像はかつての深江商店街)
しかし、再建意欲を失わなかった麓氏と従業員の尽力が基となり、休鉱からわずか7ヵ月後の9月、通産局の見込み通り、深江鉱山は再開を果たしました。10月からまた出炭を開始し、翌10年5月からは名称を「新深江炭鉱」として再出発しています。
(画像は操業当時の深江炭鉱)
再び灯を取り戻したヤマも、40年11月に閉山の日を迎えました。それから現在の平成24年まで約56年の月日が流れています。
それでも山中に残るコンクリート構造物は、半世紀以上前ここにあった人々の活気と家族のあたたかな暮らしを今の世に伝えています・・・。
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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)
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皆様の心の通い合ったメッセージを拝読するたびに、「この記事を書いてよかった」と胸があつくなります。
やはり、故郷というものは、誰にとっても忘れることのできない、永遠のものであるということを教えてもらいました。
拙い記事ですが、これからも少しでも、皆様の旧交をあたためる場になれば幸いと願っております。
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ノンプロ野球の日鉄二瀬のことを調べていたら、日鉄鉱業・北松鉱業所のことも何かあるのではないか検索していたら、「佐世保・北松炭田の炭鉱」にたどりつきました。
大手の炭鉱とちがい、中小零細資本の深江炭鉱や、大石炭鉱のほとんど何も残っていない炭鉱の痕跡を探訪されたことに、少年のころ当地ので生活した者として、感謝しています。軍艦島や池島とちがい、遺産のない過疎地の北松炭田にもう日の目を見ることができないだろうなと思っていましたが・・・・・
江島さんの温かいまなざしは、見る者読む者を50数年前にタイムスリップさせていただいております。