タイトルでは「戦時中、最大の人口を・・」としていますが、この地に海軍工廠(軍需工場)が設けられて(昭和17年)からの流入人口の増加ぶりは尋常ではありませんでした。
昭和15年に7,500人ほどだった人口は、戦時中50,000人を超えたといいます。実に6.7倍です! まさに「激増」という言葉があてはまります。(2012年現在、同町の人口は約1,5000人)
今はそんな歴史も本当にあったのか?というほど静かな町内に戻ってしまっていますが、町を見下ろす城山公園には当時の海軍工廠のあった風景を表したレリーフ碑が立てられています。

川棚町のシンボルでもあった高い煙突、のこぎり状の屋根・・・今ではまったくもって見ることができません。

昭和15年に7,500人ほどだった人口は、戦時中50,000人を超えたといいます。実に6.7倍です! まさに「激増」という言葉があてはまります。(2012年現在、同町の人口は約1,5000人)
今はそんな歴史も本当にあったのか?というほど静かな町内に戻ってしまっていますが、町を見下ろす城山公園には当時の海軍工廠のあった風景を表したレリーフ碑が立てられています。

川棚町のシンボルでもあった高い煙突、のこぎり状の屋根・・・今ではまったくもって見ることができません。

川棚海軍工廠で生産されたのは「九一式航空魚雷」。つまり飛行機に搭載する魚雷ですね。艦船を攻撃するのに一番有効なのは航空魚雷による雷撃であったといいます。
陸上陣地を攻撃する爆撃よりも雷撃に追われた、という事実は迫りくるアメリカ軍艦隊に対し、防戦一方となっていた、当時の戦況をよく表しています・・。
ほとんど唯一と言ってもいい、海軍工廠時代の遺物は、国道205号線からもよく見える、この資材倉庫ぐらいなものでしょう。これも個人が所有するものであり、倉庫として使われているため、たまたま残っているというだけで、保存しているわけではもちろんありません。

いつか屋根が抜け落ちた段階で放棄されるか、解体・撤去されることでしょう・・・

これも有名な被写体?のようですが、工廠時代の監視所です。かなり分厚いコンクリート製となっているので、おそらくこの状態で立ち続けていることでしょう。しかし、やはり案内板などはなく、いつか撤去されても、なんら不思議はありません。

国道を挟んだ山手地区や近隣地区には工廠で働く工員さんや幹部などの為の住宅が数多く建てられました。その住宅群も今ではほとんどなくなってしまいましたが、まだ一部は残されているようです。
ひと様のお宅を撮影するのはどうか、とは思いますが、これからの子どもたちの後学のために、ひとつご容赦願いたいと思います・・。
城山公園の下あたりの見晴らしのいい場所には、工廠時代の風情が一部残っているようです・・・
(ちょうど、保育園児が通りの向こうを横切りました)

立派な石垣と陶製の配水管、板塀・・・ここは上級軍人が入居していた官舎だったのでしょう。もしかすると、工廠長官舎だったかもしれません。

敷地内に見えるコンクリート製の倉庫のようなもの。これはおそらく避難用の防空壕、つまりシェルターだったのでしょう。
確信はありませんが、長崎市の三菱幹部官舎にもこのようなシェルターがありました。中は半地下になっていたかもしれません。

かなりがっちりした造りです。まず倉庫ではないでしょう・・。

ここいらの建物も上級軍人の官舎です。こちらの方は県教育委員会発行の資料に出ていますので、間違いはないです。
上下2軒が同じ造りになっているのがわかりますね。

戦争の遺構というものをどこまで残すか、いうことについては意見の分かれるところでしょう。
しかし、未来の子どもたちが「平和学習」を進めるにあたり、こういった遺構が貴重かつ有効な時代が、すぐそこまでやってきているということだけは、間違いなさそうです・・・
次回②では工員さんの社宅や高射砲陣地の意向などを紹介する予定です。
「長崎人物・歴史」 記事一覧
陸上陣地を攻撃する爆撃よりも雷撃に追われた、という事実は迫りくるアメリカ軍艦隊に対し、防戦一方となっていた、当時の戦況をよく表しています・・。
ほとんど唯一と言ってもいい、海軍工廠時代の遺物は、国道205号線からもよく見える、この資材倉庫ぐらいなものでしょう。これも個人が所有するものであり、倉庫として使われているため、たまたま残っているというだけで、保存しているわけではもちろんありません。

いつか屋根が抜け落ちた段階で放棄されるか、解体・撤去されることでしょう・・・

これも有名な被写体?のようですが、工廠時代の監視所です。かなり分厚いコンクリート製となっているので、おそらくこの状態で立ち続けていることでしょう。しかし、やはり案内板などはなく、いつか撤去されても、なんら不思議はありません。

国道を挟んだ山手地区や近隣地区には工廠で働く工員さんや幹部などの為の住宅が数多く建てられました。その住宅群も今ではほとんどなくなってしまいましたが、まだ一部は残されているようです。
ひと様のお宅を撮影するのはどうか、とは思いますが、これからの子どもたちの後学のために、ひとつご容赦願いたいと思います・・。
城山公園の下あたりの見晴らしのいい場所には、工廠時代の風情が一部残っているようです・・・
(ちょうど、保育園児が通りの向こうを横切りました)

立派な石垣と陶製の配水管、板塀・・・ここは上級軍人が入居していた官舎だったのでしょう。もしかすると、工廠長官舎だったかもしれません。

敷地内に見えるコンクリート製の倉庫のようなもの。これはおそらく避難用の防空壕、つまりシェルターだったのでしょう。
確信はありませんが、長崎市の三菱幹部官舎にもこのようなシェルターがありました。中は半地下になっていたかもしれません。

かなりがっちりした造りです。まず倉庫ではないでしょう・・。

ここいらの建物も上級軍人の官舎です。こちらの方は県教育委員会発行の資料に出ていますので、間違いはないです。
上下2軒が同じ造りになっているのがわかりますね。

戦争の遺構というものをどこまで残すか、いうことについては意見の分かれるところでしょう。
しかし、未来の子どもたちが「平和学習」を進めるにあたり、こういった遺構が貴重かつ有効な時代が、すぐそこまでやってきているということだけは、間違いなさそうです・・・
次回②では工員さんの社宅や高射砲陣地の意向などを紹介する予定です。
「長崎人物・歴史」 記事一覧
















海軍の工廠があったことも知りませんでした。
トーチカの様な監視所は、かなり堅ろうそうなので、そのままでも優に200年は保存できそうですね。
旧軍のコンクリート打設技術は目を見張るものがあります。
対馬や壱岐の砲台跡を見ると、そのコンクリートは70年以上経ったとは思えない程、堅牢で劣化していません。戦後、破壊しようとして途中であきらめただろう跡が散見できます。
コンクリートの良し悪しは、水とセメントの混合比、骨材(砂、砂利)の質、養生(打設後のメンテ)で決まります。
現代のコンクリの砂利は、砕石を使いますが当時のは玉砂利で、強度が違います。コンクリを練るのは、手練りだったでしょう。
今のコンクリは、工期の短縮やコストの低減、省力をカバーする技術は進んできましたが、基本的な質の技術は変わっていません。
最高のものを造るため、質の良い材料で手間を掛けて造られたのが旧軍の施設で、その質の高さにほれぼれします。
おっしゃるように、戦争遺構の保存については様々な意見がありますが、コンクリート工学などの見地からも残すべき遺構は多いと思います。