
『 私は昭和25年8月生まれなので多分昭和32年に神林小学校入学だと思うのですが、4年生修了後転校しました。
たったの4年間ですが、いろいろな記憶があります。
映画館を貸し切りにして行われた学芸会。教室が不足したため校長宿舎か何かを代用した教室らしくない教室。おいしいぜんざいを取りに行った給食室等々。
学校を離れれば映画館を下った所にあった珠算教室。その近くにあった歯科医院。同級生の親が営んでいた「谷口?質屋」。同級生の馬場君のお父さんの畳やさん。住所は小佐々町なのに学校は鹿町。
友だちと行った楠泊の港。6年生と手をつないで行った1年生の遠足。鍋をもっておからを買いに行ったこともあった。川で溺れそうになって大きいお姉さんに助けられたこともあった。ミミズを餌にウナギをとりにいったこともあった。父親のお使いで鍛冶屋さんに言ったこともあったな。
1年生の時は田中美智子という女の子を好きになったがすぐに転校してしまった。風の便りには親が医者で佐世保に行ったとか。次に好きになった大浦清美さんは転校した先でまた再会し小躍りしたこともあったが、また自分が転校してしまったんだな、とかきりがなくいろいろな思い出があります。
昭和48年に結婚し、妻に自分の人間形成に大きな影響を与えた所を紹介しようと学校を訪れたら、給食室やその他の教室にも織機が置かれており、掲示板に「さようなら神林小学校」という詩が書かれているのを見て涙した記憶がよみがえります。
1年生の担任は「松瀬保人」先生という記憶があり、この名前で検索したら「夢のつづき」というページに「松瀬保人」さんのコメントがありました。当時親と同じかそれより上の年代だったので、同一人物とは思えませんが、何らかの縁者かと思い、ついコメントをしてしまいました。
50年以上の前のことですから記憶も定かではありませんが、4年時の担任は「褥崎」に住んでいらしゃった木村何とかという先生でした。一度伺った記憶がありますが、近くに教会があったように覚えています。
2年生の時の担任は西村なんとかという先生で生月の方に転任されたと記憶しています。
とくに松瀬先生と木村先生の縁者の方にその後のお話でも伺えればと思いコメントした次第です。
60歳を過ぎても、あるいはだからこその思い出ともいえますが、私のもっとも基底にある思い出の神林小学校の記事を見て書かずにはいられませんでした。
当時の同級生とは音信不通ですが、炭坑関係者ではない同級生もいたはずですので何らかの形で消息が分かればと思います。記憶では浦田清美という男子の同級生が上矢岳と神林の間にある道のそばか、道を入った山(?)の方に住んでいたようにも思います。 』
浦﨑源次様にご了解を頂き、当ブログにお寄せいただいたコメントを記事として紹介しました。
これらは貴重な神林小学校・神林炭鉱・神林地区の記憶・財産だと思いますので。
浦﨑様をご存知の方、上記記事内容に記憶のある方はどうぞ、コメントをお寄せください。
直接浦﨑様にご連絡されたい方は管理人宛にメールしてください。アドレスはブログ・サイドバーに記載してあります。

私は32年生まれで もちろん、神林小学校の卒業生です。
名前は旧姓(白浜よし子)
そして、私の3歳年下の妹(白浜まち子 )は神林小学校の最後の卒業生です
この記事で炭鉱の閉山と共に廃校になったとありますが、閉山により、鹿町から多くの人々が町から離れて行きました。
同然 私も在校中 友達が何人も関西方面に引っ越しました。
そんな時 決まって、引っ越しして行く友達がクラスのみんなに、お別れの品は三菱の鉛筆を何本が頂いたように記憶しています
あれほどマンモスだった学校の生徒も最後の卒業生となった妹の時は1クラス十数人だったと思います
父兄が沢山の方々が風船に手紙を巻き付け空に放したと妹から聞きました。
皆さん 涙 涙だったみたいです
それから、記事の中に木村先生…
褥崎から毎日 一時間かけて学校に通われていました。
実は私も4年生は木村先生でした。
跳び箱が1人だけ出来ない私の為に放課後 マンツーマンでレッスンしてくれましたのに、結局、何回やっても、箱の上に乗ってしまい無理でした(笑)
その健康の充分 気をつけていた木村先生は晩年 病に倒れ 病院の薬を拒み 漢方薬治療を続けていたのですが、病に打ち勝つ事は出来ませんでした。
現在 神林小学校後は運動場は しばらく地域のお年寄りの方のゲートボール場として利用されていましたが、去年の夏 帰省した時 運動場が雑草まみれになっているのを見た時、急に涙が出て来たのを覚えています
炭鉱時代 栄えていた頃を私はしりません。
その頃の写真があったら是非見たいと妹といつも話しております。
『 私は、神林で、四年生まで、いました。それから、伊王島にいきました。神林の時の、思い出は、記憶がありません。残念です。私の祖父は、鍛冶屋でした。うたがうらでした。神林の学校は、楽しかったことだけ、記憶にあります。本当に記憶がないんですよ。先生が優しかったです。それだけ、おぼえています。
神林の一年生の担任は、ふじまつ先生かもしれない。女の先生でした。クラスの子が、床に何かを、こぼした時に、私が床をふいてあげたら、先生が私に、優しいね、といってくれたのを、今も覚えています。先生から、ほめられた事は、私の人生で、これだけかもしれません。鮮明に、おぼえてますよ。先生ありがとう。私は、還暦になっても、おぼえてますよ。その時の、光景もはっきりと、おぼえてます。先生、私は、元気でがんばって、生きてきたよ。これからも前を見て、生きますよ。生かされていることを、感謝して忘れません。 』
『 こんにちわ。私は愛知県に住んでいます、中1女子です。見てくれているかはわからないですが見てくれていると嬉しいです!
実はこの小学校は私のおばあちゃんの母校なんだそうです。ずーーーーーっと探していて今見つけ、おばあちゃんは嬉しそうでした。その運動会の画像、おばあちゃんは良く覚えていると、行っていました。私は凄く感動をして、コメントしました。個人的な話で申し訳ないです。 』
『 私は昭和25年10月生まれで浦崎さんとは同級生になりますので当時学校の廊下ですれ違っていたかもしれません。小学校2年生の時に宮崎から転校してきました。担任は”大村絹子先生”だったと思います。閉山に伴い6年の時に福岡の筑豊に転校しましたで4年間神林小学校にお世話になりました。5年生の時の担任は”山口智子先生”でした。
2年程前に1日だけでしたが神林小学校跡地及び当時住んで”深浦”(現佐世保市小佐々町矢岳)の炭鉱長屋跡地に行ってきました。半世紀以上経った町に当時の家屋はも勿論ありませんでしたが、“末永商店”はご商売をされており、店主の“末永美佐子”さんに当時の思い出を話しさせていただきました。
当時は我が家にテレビはなく”5円?”出してテレビのある家に行っていた時代でしたが幸せな満たされた時代だった気がします。 』 山口さんより
*記事をご覧の皆様へ
皆様の心の通い合ったメッセージを拝読するたびに、「この記事を書いてよかった」と胸があつくなります。
やはり、故郷というものは、誰にとっても忘れることのできない、永遠のものであるということを教えてもらいました。
拙い記事ですが、これからも少しでも、皆様の旧交をあたためる場になれば幸いと願っております。
もし当時のお写真とか、記録など、何でもどういったものでも構いませんので、ございましたら、管理者まで、ご送付いただければ、記事の中に付け加えさせて頂ければと思っております。
メールでしたら、
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ラインでしたら、管理者 江島のラインまで、送って頂ければと思います。
携帯電話番号は 090-8838-6389 です。
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皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧
炭鉱閉山とともに閉校となった、鹿町町・神林小学校 
*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)
















香焼や伊王島の書き込みを食い入るように見させていただいております。ありがとうございます。一昨年、香焼の同級生の同窓会ブログを偶然に発見してしまい参加させていただきました。みんな自分のことを覚えていてくれて感激でした。
同級生も連絡がつかず遠かった伊王島、香焼に6回も足を運んでます。これからもブログ楽しみにしております。