昭和30年に撮影された小佐々町楠泊の日鉄矢岳炭鉱・畑崎住宅の写真です。海上から撮影してあり、手前に見える筏は、真珠養殖のものです。丘の斜面一面に社宅が建ち並び、左手には積まれたボタ山が見えています。しかし、30年というと、第二次企業整備を実施して200人もの希望退職者を出した年ですから、社宅街にも寂しい風が吹いていたかもしれません・・・

平面図で見ると、こうなっています。海岸沿いに送炭線が引かれ、社宅長屋が30棟近く建っていたことがわかります。南西に面した海岸にあり、風光明媚な場所なので暮らしやすかったことでしょう。


平面図で見ると、こうなっています。海岸沿いに送炭線が引かれ、社宅長屋が30棟近く建っていたことがわかります。南西に面した海岸にあり、風光明媚な場所なので暮らしやすかったことでしょう。

昭和37年の閉山から49年。畑崎地区を訪ねてみました。
しかし、閉山後敷地も売却されたのか、どこにあれだけの社宅が建っていたのだろう?と首をかしげるくらい、当時の面影は残っていませんでした。
画像の中に見える建物ぐらいが、当時からのものでしょうか・・・

ホッパー近くにある住宅群。時代としては閉山後に建てられた可能性もありますが、炭坑時代を十分彷彿される景色をつくっていることには間違いありません。

おそらく畑崎地区のそれも、このような風景であったことでしょう・・・

矢岳(やだけ)炭鉱の巨大なホッパーは、そんな炭鉱町に住んだ人たちの生活の証しでもあります。

町史によると、閉山時、「従業員の大部分は東京・大阪をはじめとして、大都市の他産業に吸収され、トラブルもなかった」・・・とあります。
畑崎から東シナ海を望む風景です。畑崎に住まれた多くの鉱員さん家族は、この景色を見ながら生活をされていたわけですね。その後の皆さんのご多幸を祈るばかりです・・・。

「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧

しかし、閉山後敷地も売却されたのか、どこにあれだけの社宅が建っていたのだろう?と首をかしげるくらい、当時の面影は残っていませんでした。
画像の中に見える建物ぐらいが、当時からのものでしょうか・・・

ホッパー近くにある住宅群。時代としては閉山後に建てられた可能性もありますが、炭坑時代を十分彷彿される景色をつくっていることには間違いありません。

おそらく畑崎地区のそれも、このような風景であったことでしょう・・・

矢岳(やだけ)炭鉱の巨大なホッパーは、そんな炭鉱町に住んだ人たちの生活の証しでもあります。

町史によると、閉山時、「従業員の大部分は東京・大阪をはじめとして、大都市の他産業に吸収され、トラブルもなかった」・・・とあります。
畑崎から東シナ海を望む風景です。畑崎に住まれた多くの鉱員さん家族は、この景色を見ながら生活をされていたわけですね。その後の皆さんのご多幸を祈るばかりです・・・。

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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)
*記事をご覧の皆様へ
皆様の心の通い合ったメッセージを拝読するたびに、「この記事を書いてよかった」と胸があつくなります。
やはり、故郷というものは、誰にとっても忘れることのできない、永遠のものであるということを教えてもらいました。
拙い記事ですが、これからも少しでも、皆様の旧交をあたためる場になれば幸いと願っております。
もし当時のお写真とか、記録など、何でもどういったものでも構いませんので、ございましたら、管理者まで、ご送付いただければ、記事の中に付け加えさせて頂ければと思っております。
メールでしたら、
hayanusa_ap_3@yahoo.co.jp
まで
ラインでしたら、管理者 江島のラインまで、送って頂ければと思います。
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皆様、どうぞよろしくお願いいたします。















