どうしても間近で見たかった、あのボタ山と送炭線の支柱が段々近づいてきました・・・。

支柱は鉄筋の中をコンクリートで埋めてあり、がっちりとした作りとなっています・・・。


支柱は鉄筋の中をコンクリートで埋めてあり、がっちりとした作りとなっています・・・。

支柱は背後の草むらの中へと続いています。この奥に鉱業所があったものと思われます・・

海岸に突き出た積み出し桟橋です。こちらもだいぶ劣化していますが、ちゃんと形をとどめています。

この先に船が着いていたわけですね。コンクリの上にあったであろう、コンベアは閉山後取り外されたか、穴だけが残っています。

その横、もうひとつ奥のボタ山寄りにある積み出し桟橋。こちらは近くまで行くことは出来ませんでした・・。

昭和44年の閉山から42年あまり・・。波浪により鉄筋がむき出しとなっていますが、こちらもまだしっかりとその姿を保っています。

ボタ山の島側の姿です。ボタは海岸や航空写真で見た白っぽい色とは違って、まるで粘土質であるかのように赤っぽく見えました。

ボタ山の手前に残されたホッパーです。付近には旧式のテレビやアイスクリーム・ボックスが捨てられていました。かつては、このボックスからアイスを買う子どもたちが島に溢れていたのでしょうが・・・。

ホッパーとボタ山。あたりは蝉の声のするばかりです・・・

かつて多くの人が働いていたであろう鉱業所の大部分は深い草に覆われてしまっていました・・・。
(次回③へ続く)

飛島の記憶として、岡山県のAさんからお寄せいただいたお便りを付記させていただきます。
『 飛島は私が生まれた島です
昭和26年5月のことです
生まれて間もなく世知原炭鉱に引っ越ししたので島の状況は分かりません
昭和33年夏、当時福島町の徳義炭鉱にいた時
兄と知り合いを訪ねて飛島へ行きました
その時見たぼたやまや積み込み岩壁は今でも記憶に有ります。
社会人になってから3度島を訪れました
2度目は妻と息子を連れて炭鉱で栄えていた頃の話を聞かせました。
3度目は今年5月に行き写真をたくさん撮りました。
戦前戦中戦後と我が国の産業を根底から支えてきた石炭産業
物言わぬ構造物
朽ち果てたそれらをひとり佇み
観てますと
寂しくもあり 悲しくもあり
なぜか落涙とめどなく
炭鉱生まれ炭鉱育ちの私です。
飛島を取り上げていただきありがとうございました。 』
「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧


海岸に突き出た積み出し桟橋です。こちらもだいぶ劣化していますが、ちゃんと形をとどめています。

この先に船が着いていたわけですね。コンクリの上にあったであろう、コンベアは閉山後取り外されたか、穴だけが残っています。

その横、もうひとつ奥のボタ山寄りにある積み出し桟橋。こちらは近くまで行くことは出来ませんでした・・。

昭和44年の閉山から42年あまり・・。波浪により鉄筋がむき出しとなっていますが、こちらもまだしっかりとその姿を保っています。

ボタ山の島側の姿です。ボタは海岸や航空写真で見た白っぽい色とは違って、まるで粘土質であるかのように赤っぽく見えました。

ボタ山の手前に残されたホッパーです。付近には旧式のテレビやアイスクリーム・ボックスが捨てられていました。かつては、このボックスからアイスを買う子どもたちが島に溢れていたのでしょうが・・・。

ホッパーとボタ山。あたりは蝉の声のするばかりです・・・

かつて多くの人が働いていたであろう鉱業所の大部分は深い草に覆われてしまっていました・・・。
(次回③へ続く)

飛島の記憶として、岡山県のAさんからお寄せいただいたお便りを付記させていただきます。
『 飛島は私が生まれた島です
昭和26年5月のことです
生まれて間もなく世知原炭鉱に引っ越ししたので島の状況は分かりません
昭和33年夏、当時福島町の徳義炭鉱にいた時
兄と知り合いを訪ねて飛島へ行きました
その時見たぼたやまや積み込み岩壁は今でも記憶に有ります。
社会人になってから3度島を訪れました
2度目は妻と息子を連れて炭鉱で栄えていた頃の話を聞かせました。
3度目は今年5月に行き写真をたくさん撮りました。
戦前戦中戦後と我が国の産業を根底から支えてきた石炭産業
物言わぬ構造物
朽ち果てたそれらをひとり佇み
観てますと
寂しくもあり 悲しくもあり
なぜか落涙とめどなく
炭鉱生まれ炭鉱育ちの私です。
飛島を取り上げていただきありがとうございました。 』
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