炭鉱というものは、一家による狸穴採炭から、大企業による経営と大小様々な上に、鉱主や名称が変わることも多かったので、最盛期から半世紀近く過ぎた今となっては、本当に調査が難しいことを実感します。

「吉井町に残る炭鉱住宅」(内部リンク)では、町誌にも鉱業所の住所が不明な上、地元の方に聞いても「(炭鉱が)いっぱいあったからなぁ・・」みたいな返事しか得られませんでした。
しかし、今回入手した資料によると、この辺りに残る炭鉱住宅は、福井炭鉱(後の吉福炭鉱)で、まちがいないだろうと思います。
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地図によると「 Fukui Coll 」とあるのが「福井炭鉱」です。ちょっと見にくいですが、・・こういうマークが坑口です。
近くに「福井洞窟」があることから、この名をとったものと思われます。
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この辺りの住宅が上図の黄緑の場所になります。
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同じ場所の遠景です。
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国道40号線沿いに建つこの住宅群は上図の黄色の場所です。2軒長屋ですが、けっこう大きいので幹部用の社宅だったのでしょうか・・・
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ちょこんと飛び出た部分がお風呂になっているようです。炭鉱住宅特有の造りですね。
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そしてここが上図のピンクの場所です。4戸ほどあるうち、入居されているのは、2戸だけのように見えました・・。
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玄関まわりや、かつての焚き口に並べられた鉢植えの花が鮮やかに見えました。「ヒトが暮らしている」という美しい光景ですね・・・。
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福井炭鉱は麓雅臣経営で、昭和29年採炭中止となりましたが、その後鉱員だけでの自立経営の時代もあったのだとか・・・。まさに「ヤマは、ひと家族」の団結力でヤマを守ろうとしたのでしょうが、資本なしでの経営は、どんなにか大変だったでしょう・・・。
再び休鉱となった後の31年8月に福井炭鉱新五坑として再開され、同34年2月に向江福与の経営にかわったところで「吉福炭鉱」となりました。炭質がよく、7,000カロリーをも有したそうですが、炭界不況に遭い、37年に閉鉱となっています。
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ヤマの男たちと家族が去って47年。残された炭住だけが、かつて存在した炭鉱と炭鉱町の存在を今に伝えています・・・・
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「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧

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(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月

*記事をご覧の皆様へ

皆様の心の通い合ったメッセージを拝読するたびに、「この記事を書いてよかった」と胸があつくなります。
やはり、故郷というものは、誰にとっても忘れることのできない、永遠のものであるということを教えてもらいました。
拙い記事ですが、これからも少しでも、皆様の旧交をあたためる場になれば幸いと願っております。
もし当時のお写真とか、記録など、何でもどういったものでも構いませんので、ございましたら、管理者まで、ご送付いただければ、記事の中に付け加えさせて頂ければと思っております。
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