長崎市内にロシアの領土があります・・・。南山手の一角に見える青く塗られた建造物の場所がそうです。もともとここらにはロシア領事館があった場所なのですが、領事館が無くなった後もソビエト連邦の時代を経て今も尚ロシアの領土である。というのはちょっと驚きますね。




とてもここに国境線があるとは思えませんね・・・。ちょっと覗いてみると、郵便受けにはチラシなどが沢山入れられていました。国際チラシ、とでも言うのでしょうか・・・・

しかし長崎の街自体とロシアの関係とは歴史的に古いものがあるのは確かです。ペリーに遅れること1か月半、嘉永6年(1853)に艦隊を率いて長崎港へ入港したプチャーチンの時代から日露戦争までは、ロシア極東艦隊はここ長崎港を越冬港としていました。
(写真は明治29年、長崎港に停泊するロシア艦隊)

昭和32年の稲佐国際墓地です。稲佐地区はかつてのロシア艦隊の冬季基地で、当時は将校クラブや病院、工場、艇庫が建ち並び「ロシア村」と呼ばれた場所です。

現在の同じ場所、ロシア人墓地です。ロシア正教の白いチャペルも同じ場所に見えます。

ロシア正教の十字架は、横棒が2~3本で、下の1本が斜めになっているのが特徴です・・・

これは日露戦争(明治37~38年)における名将と言われた露艦ドンスコイ号のレーベゼン艦長の墓碑です。同艦長は日本海海戦において逃走を続ける露艦隊の中、ひとり反転して日本艦隊の中に突入し日艦隊に打撃を与えたり、負傷者を助ける為に船を座礁させて船員を島に上陸させたりしたという逸話が伝えられています。艦長は負傷して日本軍に捕らえられた後、日本の装甲巡洋艦春日に収容されて佐世保の病院に送られましたが、戦傷がもとで死亡。ここ長崎市のロシア人墓地に埋葬されたものです。

今でも毎年行われる「長崎帆船まつり」では、ロシア海軍の練習船が入港しています。若い水夫たちは、それは陽気な若者たちです。
彼らは、このレーベゼン艦長のことや、かつて長崎に滞在していた多くのロシア人たちの歴史を知っているのでしょうか・・・・
「長崎人物・歴史」 記事一覧


しかし長崎の街自体とロシアの関係とは歴史的に古いものがあるのは確かです。ペリーに遅れること1か月半、嘉永6年(1853)に艦隊を率いて長崎港へ入港したプチャーチンの時代から日露戦争までは、ロシア極東艦隊はここ長崎港を越冬港としていました。
(写真は明治29年、長崎港に停泊するロシア艦隊)

昭和32年の稲佐国際墓地です。稲佐地区はかつてのロシア艦隊の冬季基地で、当時は将校クラブや病院、工場、艇庫が建ち並び「ロシア村」と呼ばれた場所です。

現在の同じ場所、ロシア人墓地です。ロシア正教の白いチャペルも同じ場所に見えます。

ロシア正教の十字架は、横棒が2~3本で、下の1本が斜めになっているのが特徴です・・・

これは日露戦争(明治37~38年)における名将と言われた露艦ドンスコイ号のレーベゼン艦長の墓碑です。同艦長は日本海海戦において逃走を続ける露艦隊の中、ひとり反転して日本艦隊の中に突入し日艦隊に打撃を与えたり、負傷者を助ける為に船を座礁させて船員を島に上陸させたりしたという逸話が伝えられています。艦長は負傷して日本軍に捕らえられた後、日本の装甲巡洋艦春日に収容されて佐世保の病院に送られましたが、戦傷がもとで死亡。ここ長崎市のロシア人墓地に埋葬されたものです。

今でも毎年行われる「長崎帆船まつり」では、ロシア海軍の練習船が入港しています。若い水夫たちは、それは陽気な若者たちです。
彼らは、このレーベゼン艦長のことや、かつて長崎に滞在していた多くのロシア人たちの歴史を知っているのでしょうか・・・・
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