都市部ではほとんど見られなくなった炭鉱町の跡ですが、山間部を走ると直感的に「ここに炭鉱があった」とわかる集落に行き当たることがあります。
山間部にありながら急に開けた集落。バス停・・・

山間部にありながら急に開けた集落。バス停・・・

商店の跡。お店があるということは、それだけ人が多く住んでいたということですね。「白砂家」の文字が見えます。白砂家は佐世保にあった製パン業者です。

そして広場跡につくられた児童公園とレンガの土台・・・
ここが炭鉱町であったことはまちがいというわけです。

松浦市調川(つきのかわ)町、大平炭鉱。
資料によると、
・明治39年「大平炭鉱を真木 亀四郎が譲り受ける」
・昭和9年「大平炭鉱 真木 修平開坑す」
・・・と、これだけで、操業年も閉山年も詳しいことはわかりませんが、真木家2代で経営してきた中小鉱であるようです。
(資料に掲載されている大平鉱・坑口跡)

このレンガ製の基礎は送炭エンドレスのようなものを支えていたものでしょう。上面に鉄柱の根本が残ってます。
通りがかった人に聞いてみると、以前はこの辺りに共同浴場もあったそうですが、それ以上は何もわかりませんでした。

真木氏親子がどんな人物だったのかは、知るよしもありませんが、明治の終わりから昭和初期にかけて、この山中の炭鉱(ヤマ)に様々な場所から集まってきた鉱員さんとその家族の生活があったということであり、その生活は中小ヤマならではの、家族的なあたたかいものであった、ということを今となっては望むしかありません・・・
「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧


そして広場跡につくられた児童公園とレンガの土台・・・
ここが炭鉱町であったことはまちがいというわけです。

松浦市調川(つきのかわ)町、大平炭鉱。
資料によると、
・明治39年「大平炭鉱を真木 亀四郎が譲り受ける」
・昭和9年「大平炭鉱 真木 修平開坑す」
・・・と、これだけで、操業年も閉山年も詳しいことはわかりませんが、真木家2代で経営してきた中小鉱であるようです。
(資料に掲載されている大平鉱・坑口跡)

このレンガ製の基礎は送炭エンドレスのようなものを支えていたものでしょう。上面に鉄柱の根本が残ってます。
通りがかった人に聞いてみると、以前はこの辺りに共同浴場もあったそうですが、それ以上は何もわかりませんでした。

真木氏親子がどんな人物だったのかは、知るよしもありませんが、明治の終わりから昭和初期にかけて、この山中の炭鉱(ヤマ)に様々な場所から集まってきた鉱員さんとその家族の生活があったということであり、その生活は中小ヤマならではの、家族的なあたたかいものであった、ということを今となっては望むしかありません・・・
「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧

*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)
*記事をご覧の皆様へ
皆様の心の通い合ったメッセージを拝読するたびに、「この記事を書いてよかった」と胸があつくなります。
やはり、故郷というものは、誰にとっても忘れることのできない、永遠のものであるということを教えてもらいました。
拙い記事ですが、これからも少しでも、皆様の旧交をあたためる場になれば幸いと願っております。
もし当時のお写真とか、記録など、何でもどういったものでも構いませんので、ございましたら、管理者まで、ご送付いただければ、記事の中に付け加えさせて頂ければと思っております。
メールでしたら、
hayanusa_ap_3@yahoo.co.jp
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ラインでしたら、管理者 江島のラインまで、送って頂ければと思います。
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皆様、どうぞよろしくお願いいたします。















