小佐々町・西川内(にしかわち)炭鉱については、昨年の暮れ、ちょっとだけ記事にしましたが、あまりにもさわりだけでしたので、もう少しきちんとした記事にしたいと思います。

「西川内」バス停付近にある公営住宅です。閉山後、多くの鉱員住宅は公営住宅などに払い下げられたようですが、ここも元のつくりは炭坑時代のものだと思います。

今回はきちんと地元の方にお話をうかがいました。ちょうど畑作業をされていた方は、この地に生まれ育ったという方で、いろいろと教えていただきました。
その方の家が建つ場所は、炭坑時代映画館が建っていた場所だそうです!


「西川内」バス停付近にある公営住宅です。閉山後、多くの鉱員住宅は公営住宅などに払い下げられたようですが、ここも元のつくりは炭坑時代のものだと思います。

今回はきちんと地元の方にお話をうかがいました。ちょうど畑作業をされていた方は、この地に生まれ育ったという方で、いろいろと教えていただきました。
その方の家が建つ場所は、炭坑時代映画館が建っていた場所だそうです!

その映画館跡から国道側手前に見える古い階段は、鉱業所事務所に登る階段だそうです。

山手の方に進むと、大きなコンクリートの構造物が。その方のお話では、この辺りに共同浴場があったので、その水槽ではないか、ということでした。

閉山後、水槽は90°倒され、用具置き場となったようですね。

本坑・坑口があったという場所です。手前にスロープが少し見えていますが、その先はまったく進むことはできない状態になっていました。

畑の中に見える台座のようなもの。

西川内鉱は、福岡の秋元近嘉(秋元鉱業)が鉱業権を取得後、昭和21年に本卸坑道を開さくしたのが始まりでした。
ピークは昭和42年で、職員35人、鉱員240~270人、月産4,500トンに達しましたが、翌43年2月末をもって閉山となっています。・・・つくづく儚いものですね。
昔ながらの住宅も少し残っていると教えてもらいましたが、ほとんどそれらしき住宅は確認することができませんでした。

お話をうかがった方曰く、「炭坑時代は、各炭鉱がひしめき、送炭線やエンドレス、さらには空中ケーブルなども張り巡らされ、映画館や商店も多く、それは賑わっていた」ということでした。

・・・それにしてもピークの年の翌年に閉山。突然仕事も住宅も失った人たちは、その後どうしただろう・・・と考えると、今更ながら気になります・・・。

鉱業所及び社宅等配置図

現在の地図

「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧


山手の方に進むと、大きなコンクリートの構造物が。その方のお話では、この辺りに共同浴場があったので、その水槽ではないか、ということでした。

閉山後、水槽は90°倒され、用具置き場となったようですね。

本坑・坑口があったという場所です。手前にスロープが少し見えていますが、その先はまったく進むことはできない状態になっていました。

畑の中に見える台座のようなもの。

西川内鉱は、福岡の秋元近嘉(秋元鉱業)が鉱業権を取得後、昭和21年に本卸坑道を開さくしたのが始まりでした。
ピークは昭和42年で、職員35人、鉱員240~270人、月産4,500トンに達しましたが、翌43年2月末をもって閉山となっています。・・・つくづく儚いものですね。
昔ながらの住宅も少し残っていると教えてもらいましたが、ほとんどそれらしき住宅は確認することができませんでした。

お話をうかがった方曰く、「炭坑時代は、各炭鉱がひしめき、送炭線やエンドレス、さらには空中ケーブルなども張り巡らされ、映画館や商店も多く、それは賑わっていた」ということでした。

・・・それにしてもピークの年の翌年に閉山。突然仕事も住宅も失った人たちは、その後どうしただろう・・・と考えると、今更ながら気になります・・・。

鉱業所及び社宅等配置図

現在の地図

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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)
















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