最終3回目は、第二坑のあった本郷地区と港周辺、それに資料館の写真などを数点紹介したいと思います。

積み出しの行われていた現在の浅浦港です。手前の石積みは、かなり古い時代のものに見えました。
港の奥は、造船所なのですが、既に操業を止めてしまっているようでした。
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資料によると、造船所のある場所に、映画館があったようです。写真を見ると、「浅浦会館(浅は旧字体)」とあります。「賀正」という看板が掛けてあるところを見ると、お正月のようですね。それにしても、大きな建物です。
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現在の浅浦港付近です。
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炭鉱があった大正末期の写真です。山の上に鉱業所があるのが見えます。
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二坑の鉱業所付近は、雑木に覆われてしまっていますが、かろうじてポケットが見えています。
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山頂から、港と反対側の崖には、ボタや石炭の跡が露出しています。
遠く沖合に見えるのは、手前が松島。奥が池島です。炭鉱の盛んな時代には、おそらくお互いの島の灯が、夜ともなると輝いていたことでしょう・・・
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少し離れた集落です。かすかに炭鉱町の面影を残しています。
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浅浦地区(汐見・天見・浄心)にあった「浅浦小学校」です。
大正9年10月、崎戸尋常高等小学校の分教場として設立され、1、2年生のみを収容してスタートしています。その後、昭和5年に開校した「昭和小学校」に吸収合併されたものの、同23年に再び低学年2教室から再スタートしています。25年2階建て6教室を増築して中学年までを収容。翌26年に6教室を増築して、ようやく全児童を収容しました。「崎戸町立浅浦小学校」として発足した時には、職員数15人。児童数は439人。11学級だったそうです。最盛期の34年には、職員17人、児童数572人となりましたが、昭和43年3月26日の閉山とともに廃校となっています。
炭鉱町の学校の宿命とは言え、切なすぎる歴史ですね・・・・
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選炭場の女性たちによる作業風景です。こうやって、父親も母親も、子どもを育てるために働いたのですね。
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資料館に展示されているポスターです。
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労組の旗ですね。崎戸の「S」と組合(union)の「U」、そしてツルハシがデザインされています。
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労組の大会で使われたレジュメでしょう。
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会社が作ったであろう、カレンダーです。「皆勤で 我家に笑いのある 暮し」・・・もっともです。 
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現在の港の景観です。近づくことが禁止されているので、対岸から撮っています。
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積み出しようのコンベアが乗っていた支柱だけが残されています。
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現在の橋が架かる前は、蠣浦地区から対岸へ渡る渡船が休む間もなく出ていて、写真のような光景がいつも見られたようです。
かつてここに住んでいた多くの人たちは、どこへ行ってしまったのでしょうか・・・・
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