私にとって「崎戸炭鉱」のイメージは、なんと言っても、この写真です。一体何棟並んでいるのか、わからない位続く社宅群。初めて、これを見たのは、もう何年も前ですが、思わず感嘆の声が出たと思います・・・

その炭鉱町には、病院、学校、劇場、市場、グラウンド、プール・・・などありとあらゆるものがあり、他の地区からここへ来る人も多かったと言います。
下は「福浦会館」という映画館(演芸場)です。

この地にあった「昭和小学校(昭和43年廃校)」です。

その最大の炭鉱町で栄えた福浦は、見渡す限り広がる「更地」と化しました・・・・。
何がどこにあったか・・・などということを考えることすらも、虚しくなります。

このように、ほとんどが「立ち入り禁止」であって、歩ける場所には、なんにもないフラットな場所・・・ということなのです。


その炭鉱町には、病院、学校、劇場、市場、グラウンド、プール・・・などありとあらゆるものがあり、他の地区からここへ来る人も多かったと言います。
下は「福浦会館」という映画館(演芸場)です。

この地にあった「昭和小学校(昭和43年廃校)」です。

その最大の炭鉱町で栄えた福浦は、見渡す限り広がる「更地」と化しました・・・・。
何がどこにあったか・・・などということを考えることすらも、虚しくなります。

このように、ほとんどが「立ち入り禁止」であって、歩ける場所には、なんにもないフラットな場所・・・ということなのです。

そのフラットな場所にかつて、あったもの。
これは古い時代の演芸場、「福浦館(右)」と「共楽館(手前)」です。「共楽館食堂」という看板が見えますね。

昭和9年に撮影された昭和小学校です。「落成記念」とあります。

かろうじて残されたものは、このプール跡だけです。

一方の端が深くなっていますので、競泳用のプールではなく、レジャー用のプールであろうと思われます。

夏の日には、多くの親子連れが訪れ、一日中、子どもの声が響いていたことでしょう・・・・・。

雑木林の中にあった廃屋。造りからして、駐在所跡に見えます。或いは、炭鉱町だったので、詰所跡でしょうか?・・・・

フラットな土地からは、過去の「暮らし」を伺わせる空気を感じることができませんでした・・。
一部メディアや、溢れている「廃墟」サイトの運営者さん達に注目されたばかりに、その意志を離れ、「廃墟の名所」としてひとり歩きしてしまい、結果的に、会社や町を蹂躙し尽くしてしまった、この崎戸炭鉱跡。
残念ですが、管理会社として、「解体・撤去」という道を選択せざるをえなかったことは、十分理解できます。・・・しかし、保存を願っていた地元や一部有志の方々、そして何よりかつてこの場所で暮らしていた人達にとっては、大変残念な結果ですね。
(お祭りの日の子どもたち)・・・山神祭でしょうか。子どもも多く、さぞ賑やかだったことでしょう・・・
後ろの方には、建設中のアパートが写っています。

崎戸中学校 昭和39年卒業の林信樹さんのお便りを転載させていただきました。このような当時の思い出などお寄せ頂ければ有難いです。
『 中学1年の時クラスが16組まであったと思います。それからすぐ12クラスに縮小して、
出ていく人ばかり。運動会では100M徒歩と「棒倒し」だけでした。ほんとにマンモス校
でしたね。ポンキュウさんというあだ名の音楽の先生がいました。なぜポンキュウか
わかりませんでしたが宮本先生を逆さまに読んだあだなですよね。今頃わかる次第。あれから何年かして60歳の時学年同窓会をしました。面影はありますが、よくわかりません。人生色々、時の流れもそれぞれ、納得して帰りました。 』
「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧
これは古い時代の演芸場、「福浦館(右)」と「共楽館(手前)」です。「共楽館食堂」という看板が見えますね。

昭和9年に撮影された昭和小学校です。「落成記念」とあります。

かろうじて残されたものは、このプール跡だけです。

一方の端が深くなっていますので、競泳用のプールではなく、レジャー用のプールであろうと思われます。

夏の日には、多くの親子連れが訪れ、一日中、子どもの声が響いていたことでしょう・・・・・。

雑木林の中にあった廃屋。造りからして、駐在所跡に見えます。或いは、炭鉱町だったので、詰所跡でしょうか?・・・・

フラットな土地からは、過去の「暮らし」を伺わせる空気を感じることができませんでした・・。
一部メディアや、溢れている「廃墟」サイトの運営者さん達に注目されたばかりに、その意志を離れ、「廃墟の名所」としてひとり歩きしてしまい、結果的に、会社や町を蹂躙し尽くしてしまった、この崎戸炭鉱跡。
残念ですが、管理会社として、「解体・撤去」という道を選択せざるをえなかったことは、十分理解できます。・・・しかし、保存を願っていた地元や一部有志の方々、そして何よりかつてこの場所で暮らしていた人達にとっては、大変残念な結果ですね。
(お祭りの日の子どもたち)・・・山神祭でしょうか。子どもも多く、さぞ賑やかだったことでしょう・・・
後ろの方には、建設中のアパートが写っています。

崎戸中学校 昭和39年卒業の林信樹さんのお便りを転載させていただきました。このような当時の思い出などお寄せ頂ければ有難いです。
『 中学1年の時クラスが16組まであったと思います。それからすぐ12クラスに縮小して、
出ていく人ばかり。運動会では100M徒歩と「棒倒し」だけでした。ほんとにマンモス校
でしたね。ポンキュウさんというあだ名の音楽の先生がいました。なぜポンキュウか
わかりませんでしたが宮本先生を逆さまに読んだあだなですよね。今頃わかる次第。あれから何年かして60歳の時学年同窓会をしました。面影はありますが、よくわかりません。人生色々、時の流れもそれぞれ、納得して帰りました。 』
2016年、この街に住んでおられた方から貴重なコメントをお寄せ頂きました。当時の様子を綴った内容は、今となっては貴重な記憶と思いますので、失礼ながら記事に付け加えさせて頂きました。ありがとうございました。
『 崎戸中学校の帰り道、東峰の共楽館のアイスキャンディを何回も食べました。 そのおいしさは半世紀が過ぎた今も忘れられません。 また、文部省推薦の映画を中学校の引率で福浦館で映画を何回も見た記憶があります。 東峰を下り崎戸中学校へ続く商店街の道は非常ににぎやかでした。 10年位い前に崎戸へ帰郷し崎戸中学校へ行きましたが建物はなく更地になっておりました。 時代は過ぎ「つわものが夢のあと」でした。 崎戸中学を卒業して東京へ出て関東での生活が人生の大半を占めておりますが、 子供の頃育った崎戸は今でも心の故郷として私の胸の中で当時の光景を残しております。 子供の頃育った処は一生忘れる事が出来ませんね。 想い出はたくさんありますが、特に崎戸中学校の校歌は素晴らしいですね。 いまでも歌えます。 朝の光の海打てば炭脈ひそむ島の丘、見よ高峰の学び舎に..... ああ、故郷は遠きにありて思うものですかね。 蛎の裏小学校卒業の団塊の世代のより。』 同じく2016年に頂いたコメントです。 『 私は、蛎の裏小学校を卒業し崎戸中学校へ通いましたが当時は蛎の裏の桟橋から渡し船で船頭さんが櫓をこぎ対岸の福浦の桟橋まで学生を乗せていました。 当時の生徒は無鉄砲で渡し船を揺らしたり船が対岸を離れているにも関わらず船まで飛び乗る生徒も多くいました。 中には飛びそこない海へ落ちた生徒もおりましたが船頭さんに助けてもらい船に引き上げられた生徒もいましたね。 その後30年位たって妻と子供を伴い帰郷した時には桟橋の上に橋が架かかっており渡し船はありませんでした。 今では渡し船に乗った記憶は懐かし思いでの一コマになりました。 それと、東峰のお祭りの写真の少女達みんなおかっぱ頭で可愛いですね。 そういえば、私の同級生の女子もみんなおかっぱ頭でした。 今はそんな女の子どこにもいませんね。 時は流れ時代は進み今は昔の想い出になりました。 半世紀(50年)が過ぎたのですから当然ですね。 崎戸中学校を卒業し3月には集団就職で福浦の桟橋から船に乗って別れの曲「蛍の光の」に送られ旅立つ子供と両親の最後の絆は紙のテープで結ばれておりました。 船が出港し桟橋を離れやがて紙のテープも切れて両親との別れる姿は周囲の人たちの涙を誘わずにはいられない光景が日常茶飯事であったのです。 自分もその中の一人でしたが50年が過ぎた今でも当時の崎戸との別れは瞼に浮かび忘れる事は出来ません。 今、思えばわずか15歳の子供達(男女)が旅立っていくのですから何とも悲しく厳しい時代だったのかと思います。 当時、わが子を遠くの地(都会)送り出さなければならなかった両親の思い悲しみはいかばかりだったでしょうか。 自分の時代になってからはとても15歳の子供を遠くへ送り出すことなど考えられない時代になりましたからね。 わずか50年の間に時代は大きく変わり当時の崎戸の想い出の光景は今では知っている人も少なくなり懐かしい記憶となりやがては忘却の彼方へと消えて行くのでしょうか。 出来れば当時の写真があればと思い探しましたがありませんでした、残念です。 』 |
「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧
私の一番好きな映画は「ニュー シネマ パラダイス」です。
映画に出てきた映画館と
同じ雰囲気(におい)が有りますね。
シネコンで見るのではなく、チョトお洒落をしてこんな映画館でイタリア映画を観たいです。