松島炭鉱沿革
近代炭鉱としては、明治18年、三菱合資会社の経営により竪坑開さく、採炭にあたるが、出水多く中止。
明治36年に佐賀銀行の創立者・古賀善兵衛が三菱の後を買収、第1~3坑を開き、大正2年に「松島炭鉱株式会社」となっています。同3年に4坑を開発。
その後、同5年に2坑水没。8年に1坑も水没という憂き目に遭っていますが、主力の4坑に力を注ぎ、大正6年~10年の間、全盛期を迎えています。
(画像は、積み出し港であった内浦港の当時の様子)

当時は、松島の対岸、西彼杵半島の、多以良・雪浦・瀬戸といった村から、多くの村民が積み込み人夫として通勤し、半島の野菜なども流通して、大いに活況を呈した・・・とあります。
昨年、多以良小学校の新入生が確かひとり、とか聞いたような気がしますが、大正期はまったく違ったわけですね・・・

鉱区は島の東部を中心に、5坑まで開かれたようですね。
炭鉱最盛期の松島は、対岸の瀬戸とともに、日夜にわたって三味線や唄声の絶えることがなかったといいます。
しかし、この頃の炭鉱の道具と言えば、「カンテラ」「つるはし」「キャップランプ」「スラ」などで、坑内作業は危険極まりないものであったようです。
(引火性の強い炭塵やメタンガスの充満する坑道内で、灯をともすカンテラやキャップランプ(混合油を燃やした)を使用することが、いかに危険なことか、誰にでも容易に想像がつくと思います。)

(第1坑・巻上げ場付近)
女性による「選炭」作業風景。坑内から上がってくる石炭の内、石炭として使えない「ボタ」を手作業でより分けていく、という重労働です。

しかし、昭和4年6月に第3坑から出水事故が発生。犠牲者は42名に及びました。
(内浦の第3坑口)

続いて昭和9年11月25日に頼みの4坑でも出水事故。約20分で坑口まで海水で満たされ、中に取り残された53名が犠牲となりました。
と、同時に松島炭鉱の「心臓」も、この時止まってしまいました。
(事故を伝える、当時の長崎日日新聞の記事)

炭鉱はいつも危険と背中合わせ、とは言うものの、この松島炭鉱の場合はずっと海水の進入との闘いであったようです。そして、事故が起こると救助の方策が皆無と言っていいほど絶望的であった「海底炭鉱」の恐ろしさをむざむざと思い知らされます・・・・・

島には、その炭鉱の終焉となった、第4坑の遺構が残されています。
まさに、「鎮魂の遺構」というところでしょうか・・・

遺構の前には、島民の方が作成された案内板があり、これによって建物の役割が一目瞭然となっています。

看板によると、右端が守衛さんなどがいた番所。赤レンガの建物は、坑内を上下するケージを操作する巻座(まきざ)という場所ですね、レンガの破風のすぐ下にある小さな窓を鋼鉄のワイヤーが通っており、やぐらの上部の滑車を経て、ケージを吊り下げていたと思われます。
横のコンクリートの建物は、変電所の建物だと思います。

4坑の竪坑やぐらです。このやぐらの真下に、海底より深い地底に降りていく竪坑がありました。
右下の建物が、現在のレンガの建物だと思われます。

別の角度から見た4坑付近。多くの鉱業所施設が見えます。

巻座内部。天井は落ちていますが、レンガ部分はまだまだしっかりしています。

レンガの台座部分、ワイヤーを巻き取る機械が載っていたのでしょう。

変電所内部。壁の上部に開いた無数の穴は、電線が通っていた跡だと思います。

変電所の裏に残る四角い電柱です。

変電所内部より

閉山後、一時期荒れ果てていた、この地の有り様に、心を痛めた人が建てたという慰霊碑がすぐ前に立っています。
近づいてみると、1匹のかげろうがとまっていました。冗談でなく、犠牲になった方が、帰ってきていたのかもしれませんね・・・
丁度通りかかって、色々と教えてくれた方は、「まだ下に54人、入ってますから・・・」と言い方をされていました。碑に見える横田治作さんは、わずか24歳という若さで亡くなっています・・・・・ 合掌。

こういった碑や遺構を目にする時、かつてこの場所で懸命に働き、生活を営んでいた人たちの姿が、浮かんでは消えていくような気がします。
この島の人たちは、それをきちんと後世に伝えていこうとしているのだ、ということが重々伝わってきました。

4坑水没後、約1,500人の従業員が解雇を余儀なくされました。しかし、当時の職業紹介所所長は、「解雇された従業員が秩序を保ち、会社と従業員の間は、まるで親子のようで、感激した」と述懐しています。

松島鉱の灯が消え、多くの人が島外に去った後、火力発電所の従業員官舎に続く坂道筋に植えられた多くの桜が、東京・大田区のものと同時に福山雅治さんの「桜坂」のイメージのもとになった場所となりました。
(同氏が高校卒業後、間もない民間会社員時代に、この松島の火力発電所に、出張で訪れています)
wikipediaには、「島民が勝手に、人気にあやかって桜坂と命名した」みたいな意地の悪い表現がされていますが、そういう文章を投稿した者は、この島の歴史、とりわけ炭鉱の歴史や住人の思いというものをわかって書いてるのか!・・と言いたいです。
「桜坂」については・・・ 内部リンク
(今は、火力発電所がある内浦港一帯。右手に見えるのは、串島)

多くの人が生活をしていた時代の渡船の様子。小学生や、赤ちゃんをおぶった母親などの姿が見えます・・・

閉山後、77年。遺構は多くのことを語りかけているように思えます・・・・・


「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧
近代炭鉱としては、明治18年、三菱合資会社の経営により竪坑開さく、採炭にあたるが、出水多く中止。
明治36年に佐賀銀行の創立者・古賀善兵衛が三菱の後を買収、第1~3坑を開き、大正2年に「松島炭鉱株式会社」となっています。同3年に4坑を開発。
その後、同5年に2坑水没。8年に1坑も水没という憂き目に遭っていますが、主力の4坑に力を注ぎ、大正6年~10年の間、全盛期を迎えています。
(画像は、積み出し港であった内浦港の当時の様子)

当時は、松島の対岸、西彼杵半島の、多以良・雪浦・瀬戸といった村から、多くの村民が積み込み人夫として通勤し、半島の野菜なども流通して、大いに活況を呈した・・・とあります。
昨年、多以良小学校の新入生が確かひとり、とか聞いたような気がしますが、大正期はまったく違ったわけですね・・・

鉱区は島の東部を中心に、5坑まで開かれたようですね。
炭鉱最盛期の松島は、対岸の瀬戸とともに、日夜にわたって三味線や唄声の絶えることがなかったといいます。
しかし、この頃の炭鉱の道具と言えば、「カンテラ」「つるはし」「キャップランプ」「スラ」などで、坑内作業は危険極まりないものであったようです。
(引火性の強い炭塵やメタンガスの充満する坑道内で、灯をともすカンテラやキャップランプ(混合油を燃やした)を使用することが、いかに危険なことか、誰にでも容易に想像がつくと思います。)

(第1坑・巻上げ場付近)
女性による「選炭」作業風景。坑内から上がってくる石炭の内、石炭として使えない「ボタ」を手作業でより分けていく、という重労働です。

しかし、昭和4年6月に第3坑から出水事故が発生。犠牲者は42名に及びました。
(内浦の第3坑口)

続いて昭和9年11月25日に頼みの4坑でも出水事故。約20分で坑口まで海水で満たされ、中に取り残された53名が犠牲となりました。
と、同時に松島炭鉱の「心臓」も、この時止まってしまいました。
(事故を伝える、当時の長崎日日新聞の記事)

炭鉱はいつも危険と背中合わせ、とは言うものの、この松島炭鉱の場合はずっと海水の進入との闘いであったようです。そして、事故が起こると救助の方策が皆無と言っていいほど絶望的であった「海底炭鉱」の恐ろしさをむざむざと思い知らされます・・・・・

島には、その炭鉱の終焉となった、第4坑の遺構が残されています。
まさに、「鎮魂の遺構」というところでしょうか・・・

遺構の前には、島民の方が作成された案内板があり、これによって建物の役割が一目瞭然となっています。

看板によると、右端が守衛さんなどがいた番所。赤レンガの建物は、坑内を上下するケージを操作する巻座(まきざ)という場所ですね、レンガの破風のすぐ下にある小さな窓を鋼鉄のワイヤーが通っており、やぐらの上部の滑車を経て、ケージを吊り下げていたと思われます。
横のコンクリートの建物は、変電所の建物だと思います。

4坑の竪坑やぐらです。このやぐらの真下に、海底より深い地底に降りていく竪坑がありました。
右下の建物が、現在のレンガの建物だと思われます。

別の角度から見た4坑付近。多くの鉱業所施設が見えます。

巻座内部。天井は落ちていますが、レンガ部分はまだまだしっかりしています。

レンガの台座部分、ワイヤーを巻き取る機械が載っていたのでしょう。

変電所内部。壁の上部に開いた無数の穴は、電線が通っていた跡だと思います。

変電所の裏に残る四角い電柱です。

変電所内部より

閉山後、一時期荒れ果てていた、この地の有り様に、心を痛めた人が建てたという慰霊碑がすぐ前に立っています。
近づいてみると、1匹のかげろうがとまっていました。冗談でなく、犠牲になった方が、帰ってきていたのかもしれませんね・・・
丁度通りかかって、色々と教えてくれた方は、「まだ下に54人、入ってますから・・・」と言い方をされていました。碑に見える横田治作さんは、わずか24歳という若さで亡くなっています・・・・・ 合掌。

こういった碑や遺構を目にする時、かつてこの場所で懸命に働き、生活を営んでいた人たちの姿が、浮かんでは消えていくような気がします。
この島の人たちは、それをきちんと後世に伝えていこうとしているのだ、ということが重々伝わってきました。

4坑水没後、約1,500人の従業員が解雇を余儀なくされました。しかし、当時の職業紹介所所長は、「解雇された従業員が秩序を保ち、会社と従業員の間は、まるで親子のようで、感激した」と述懐しています。

松島鉱の灯が消え、多くの人が島外に去った後、火力発電所の従業員官舎に続く坂道筋に植えられた多くの桜が、東京・大田区のものと同時に福山雅治さんの「桜坂」のイメージのもとになった場所となりました。
(同氏が高校卒業後、間もない民間会社員時代に、この松島の火力発電所に、出張で訪れています)
wikipediaには、「島民が勝手に、人気にあやかって桜坂と命名した」みたいな意地の悪い表現がされていますが、そういう文章を投稿した者は、この島の歴史、とりわけ炭鉱の歴史や住人の思いというものをわかって書いてるのか!・・と言いたいです。
「桜坂」については・・・ 内部リンク
(今は、火力発電所がある内浦港一帯。右手に見えるのは、串島)

多くの人が生活をしていた時代の渡船の様子。小学生や、赤ちゃんをおぶった母親などの姿が見えます・・・

閉山後、77年。遺構は多くのことを語りかけているように思えます・・・・・


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