Kさんとしておきます。
軍艦島(端島)で生まれ、育ち約30年間軍艦島で過ごされたそうです。
お父様が伊王島の出身で、機械工として伊王島、高島を経て軍艦島にこられたそうです。お父様は、外国から来ている人にも親切に接するような人物だったらしいのですが、Kさんが10歳の時に病気で亡くなったそうです。
ガイド時代、「軍艦島に住んでいた」という方にも何人かお会いしましたが、やはりKさんも、第一声が「軍艦島はよかった!」ということでした。
住居は、日給社宅19号棟の8階だったそうです。これは、電気洗濯機で洗濯しているところですね。ナショナル製の丸型で、これはけっこう古い時代のものだと思います。当時の軍艦島は、最新の電気製品が溢れていたと聞いたことがありますから、これもおそらく出たばかりなのでしょうね。写真からも光り輝いているのが、わかります。
学校卒業後のKさんの仕事は、「島内電話」の交換手だったそうです。
職場は、会社事務所の中枢部にあり、24時間の炭鉱操業と同じく、三交代の24時間勤務だったそうです。
坑内外の部署や各施設を結ぶ回線は150あまりあり、会社や島内の全ての情報を掌握していたそうです。長崎市小曽根町にあった「炭鉱社」など、外部との橋渡しも行っていたそうです。
一番大変なのは、坑内事故が起こった時で、その時には、殆どの回線が一度に点灯し、それはもう大変だったそうです・・・。
(写真はお仕事中のKさん。溌剌とした美人ですね)

交換手という仕事柄、島内でいろんな行事が行われている時も、おいそれと職場を離れることが出来ず、大変だったそうですが、仕事の合間には、藤間流の「踊り」をされていたそうです。
軍艦島では、文化面も非常に盛んだったと聞いています。
昭和33年に昭和館で催された舞踊講演会のプログラムをお持ちでしたので、見せてもらいました。非常に貴重なものです。演目には、個人名が載っていますので、プログラムを作成するにあたり広告を出していた個人商店の部分を紹介いたします。




考えてみれば、狭い島の中で広告というのも・・・と思いますが、各お店も、いろんな催しに気持ちよく協力し盛り上げていた、ということですね。

積み込み用のディストリビュータと第4竪坑をバックに「山道」でのスナップです。この道が出来て、職場まで、非常に通いやすくなったそうです。

ありがとうございました、Kさん。この方もやはり、とても感じのいい方でした。

「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧
職場は、会社事務所の中枢部にあり、24時間の炭鉱操業と同じく、三交代の24時間勤務だったそうです。
坑内外の部署や各施設を結ぶ回線は150あまりあり、会社や島内の全ての情報を掌握していたそうです。長崎市小曽根町にあった「炭鉱社」など、外部との橋渡しも行っていたそうです。
一番大変なのは、坑内事故が起こった時で、その時には、殆どの回線が一度に点灯し、それはもう大変だったそうです・・・。
(写真はお仕事中のKさん。溌剌とした美人ですね)

交換手という仕事柄、島内でいろんな行事が行われている時も、おいそれと職場を離れることが出来ず、大変だったそうですが、仕事の合間には、藤間流の「踊り」をされていたそうです。
軍艦島では、文化面も非常に盛んだったと聞いています。
昭和33年に昭和館で催された舞踊講演会のプログラムをお持ちでしたので、見せてもらいました。非常に貴重なものです。演目には、個人名が載っていますので、プログラムを作成するにあたり広告を出していた個人商店の部分を紹介いたします。




考えてみれば、狭い島の中で広告というのも・・・と思いますが、各お店も、いろんな催しに気持ちよく協力し盛り上げていた、ということですね。

積み込み用のディストリビュータと第4竪坑をバックに「山道」でのスナップです。この道が出来て、職場まで、非常に通いやすくなったそうです。

ありがとうございました、Kさん。この方もやはり、とても感じのいい方でした。

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