かつての伊王島炭坑病院です。

敷地の石垣だけが残されています。また、横の道は、上っていく角度が違うので、どうやら盛り土などで埋めてあるようです。

ですから下の、配給米を担いで帰るお母さんたちと少年が通っていた道(右側が炭鉱病院)とその先のトンネル(切り通し?)は・・・・

こんな風に、上の方しか見られなくなっています・・・わかりますか?


敷地の石垣だけが残されています。また、横の道は、上っていく角度が違うので、どうやら盛り土などで埋めてあるようです。

ですから下の、配給米を担いで帰るお母さんたちと少年が通っていた道(右側が炭鉱病院)とその先のトンネル(切り通し?)は・・・・

こんな風に、上の方しか見られなくなっています・・・わかりますか?

鉱業所の敷地から山側に上ると、民家の脇の畑に、コンクリート塊がのこっています・・・炭車などをワイヤーで巻き上げていた、巻座(まきざ)跡です。

その巻座のかけらも、花壇の一部になっていました・・・

映画や各興行が行われていた、伊王島炭坑会館です。

ここは、すっかり取りつぶされ、唐船江(とうせんこう)という名のホテルが日鉄系の会社により建てられました。現在は、「スーパーしんわ」となっているようです。

千崎はすっかり面影をなくしてしまいました。伊王島小中学校は、現在も同地にありますが、炭鉱住宅や炭鉱アパートのあった場所は、現在、天然温泉の湧くリゾート施設「やすらぎ伊王島」になっています。

町をちょっと歩いてみました・・・人様の家を失礼なんですが、このお宅なんかは、まるっきり炭鉱時代のデザインそのものですね。

そして、ここが炭鉱町であったことを示す物証である消火栓。炭鉱には消火隊が組織されていましたので、被害を迅速にくい止めるためにも、このようなごっつい消火栓があったわけです。

海岸を通ると、そこは黒い浜・・となっています。半石炭?や石炭になりかけたボタなどで埋め尽くされています。

波打ち際をよくご覧下さい。石炭は粉状に砕けるのが特徴なので、黒い粒が閉山後39年経っても尚、こうやって漂い続けているのですね・・・・

「やすらぎ伊王島」が作った人工ビーチ「コスタ・デル・ソル」です。ご覧のように運び入れた白砂とボタとの境目が、くっきりとわかります。

これは、使われなくなった教員用住宅です。

これは伊王島にあった排気用の竪坑です。左下に見える施設が、坑内に空気を送り込む送風機のある施設でしょう・・・

灯台の近くに、それらしき場所、石垣だけが残っています。

そしてここにも、コンクリートの壁と消火栓が・・・

栄橋付近にある古いお店の跡。錆びてしまった看板には、「寝具」「インテリア」「月星靴」「浜市サービスの店」・・・とあります。生活に必要なものを、いろいろと売っていたのでしょう。

上のお店などに流れていったのは、もちろん鉱員さん家族のお金が主。
これは昭和30年代の給料日の様子です。封筒を握ったお父さんと娘さん。笑顔の女の子。封筒(の額?)を比べあう奥さんたちの表情が実にいいですね・・・

2018年1月、お寄せ頂いたコメントは、当時の伊王島をうかがい知る貴重な記憶であると思いますので、誠に勝手ですが、掲載させて頂きました。
『 先日、偶然次男から、おじいちゃんの仕事は?って聞かれ、日鉄鉱業の社船の光洋丸の船長さんだったよ!って答えていたら、そこからこのブログにたどり着き、この写真、お母さんじゃない?って見せられました。
確かに給料日で笑顔の母と同じく、嬉しそうな笑顔一杯の私がそこにいました。
その後船長だった父は、42才の若さで病に倒れ、私達家族は三才の妹から大学生の兄まで兄弟6人と母の壮絶な苦労が始まりました。
この写真をみて、私にもこんな無邪気で幸せ一杯の時期があったのかと、苦労ばっかりだった今は亡き母の若くて、幸せそうな笑顔に胸が一杯になりました。
この写真をどなたが撮られたかわかりませんが、ブログに掲載された方、又これを見つけてくれた次男にも感謝です!
ちなみに私はサランラップのCMの女の子の様に前髪パッツンの女の子です。
現在私は67才のおばあちゃんで、今日は、孫娘の10才のお誕生日会での出来事でした。
看板に書かれた日付から推察すると、奇しくも私の10才の頃の写真のようです。
今もお墓参りに時々訪れていますが、同じ故郷の思い出を共有できる方がいて、嬉しくなりました。 』

「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧

その巻座のかけらも、花壇の一部になっていました・・・

映画や各興行が行われていた、伊王島炭坑会館です。

ここは、すっかり取りつぶされ、唐船江(とうせんこう)という名のホテルが日鉄系の会社により建てられました。現在は、「スーパーしんわ」となっているようです。

千崎はすっかり面影をなくしてしまいました。伊王島小中学校は、現在も同地にありますが、炭鉱住宅や炭鉱アパートのあった場所は、現在、天然温泉の湧くリゾート施設「やすらぎ伊王島」になっています。

町をちょっと歩いてみました・・・人様の家を失礼なんですが、このお宅なんかは、まるっきり炭鉱時代のデザインそのものですね。

そして、ここが炭鉱町であったことを示す物証である消火栓。炭鉱には消火隊が組織されていましたので、被害を迅速にくい止めるためにも、このようなごっつい消火栓があったわけです。

海岸を通ると、そこは黒い浜・・となっています。半石炭?や石炭になりかけたボタなどで埋め尽くされています。

波打ち際をよくご覧下さい。石炭は粉状に砕けるのが特徴なので、黒い粒が閉山後39年経っても尚、こうやって漂い続けているのですね・・・・

「やすらぎ伊王島」が作った人工ビーチ「コスタ・デル・ソル」です。ご覧のように運び入れた白砂とボタとの境目が、くっきりとわかります。

これは、使われなくなった教員用住宅です。

これは伊王島にあった排気用の竪坑です。左下に見える施設が、坑内に空気を送り込む送風機のある施設でしょう・・・

灯台の近くに、それらしき場所、石垣だけが残っています。

そしてここにも、コンクリートの壁と消火栓が・・・

栄橋付近にある古いお店の跡。錆びてしまった看板には、「寝具」「インテリア」「月星靴」「浜市サービスの店」・・・とあります。生活に必要なものを、いろいろと売っていたのでしょう。

上のお店などに流れていったのは、もちろん鉱員さん家族のお金が主。
これは昭和30年代の給料日の様子です。封筒を握ったお父さんと娘さん。笑顔の女の子。封筒(の額?)を比べあう奥さんたちの表情が実にいいですね・・・

2018年1月、お寄せ頂いたコメントは、当時の伊王島をうかがい知る貴重な記憶であると思いますので、誠に勝手ですが、掲載させて頂きました。
『 先日、偶然次男から、おじいちゃんの仕事は?って聞かれ、日鉄鉱業の社船の光洋丸の船長さんだったよ!って答えていたら、そこからこのブログにたどり着き、この写真、お母さんじゃない?って見せられました。
確かに給料日で笑顔の母と同じく、嬉しそうな笑顔一杯の私がそこにいました。
その後船長だった父は、42才の若さで病に倒れ、私達家族は三才の妹から大学生の兄まで兄弟6人と母の壮絶な苦労が始まりました。
この写真をみて、私にもこんな無邪気で幸せ一杯の時期があったのかと、苦労ばっかりだった今は亡き母の若くて、幸せそうな笑顔に胸が一杯になりました。
この写真をどなたが撮られたかわかりませんが、ブログに掲載された方、又これを見つけてくれた次男にも感謝です!
ちなみに私はサランラップのCMの女の子の様に前髪パッツンの女の子です。
現在私は67才のおばあちゃんで、今日は、孫娘の10才のお誕生日会での出来事でした。
看板に書かれた日付から推察すると、奇しくも私の10才の頃の写真のようです。
今もお墓参りに時々訪れていますが、同じ故郷の思い出を共有できる方がいて、嬉しくなりました。 』

「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧
















父が若い頃に伊王炭坑で炭鉱夫をやっておりました
私が初めて伊王島に行ったのは約25年前で、その時は学校跡や炭鉱アパートもまだ残っており中にも入れました
炭鉱アパートの中は生活用具がそのまま残されている部屋も珍しくなく
床スラブが階下まで崩落してたりなかなか危険だったことを覚えています
映画があってた炭鉱会館は父の思い出話にもよく出てきます
話によると、映画が最大の娯楽だったようです
上映タイトルも複数聞かされていますが鞍馬天狗など、時代劇が多かったようです