日鉄御橋(おはし)鉱は、それまで大資本による炭鉱のなかった吉井町の期待を背負い、昭和16年、橋川内免に開鉱しました。閉山までの約23年間、同町の経済を支え続け、最盛期の24年頃には従業員840人、社宅は510戸となり、同町随一の繁華街を形成するに至りました。
鉄道線路をはさんで北側に炭鉱住宅街、南側に坑口、選炭場、積込場などがありました。
鉄道が整備され、西肥バスが開通し、街には共同浴場、病院、映画会館、生活用品販売所、理容所がつくられ、道路沿いには商店が建ち並びました。
36年の神田鉱と小佐々鉱山、38年の鹿町鉱と閉山が相次ぐ中、日鉄北松鉱業所・最後の炭鉱として操業を続けましたが、40年、ついに閉山となりました。(↓解体される御橋鉱施設)
最初は、当時の面影のあまり残っていないように感じました。正面のこんもりした小山はいかにもボタ山のような形をしていますが、地図には載っていないので、おそらく違うのでしょう・・・。万一残っていたとしても、町史には、「大々的に補強工事が行われた」とあるので、危険はないと思いますので、ご安心を。

しかし、歩いてみると、やはりあちこちに面影が残っていました。このいかにもがっちりしたRCアパートのデザインは、香焼地区や鹿町御堂地区の炭住街に見られるものとよく似ています。

意匠をこらしたデザインでありながら、非常に頑強な造りに見えます。

棟の番号はタイルで埋め込んであります。これも香焼の安保地区のアパートと同じです。

そして、この消火栓。まず自治体が設置したものではないでしょう。鉱業所が設置したものと思われます。

残されているプール。使われているか、どうかはわかりませんでした。鉱業所近くには佐々川が流れていますが、汚染の影響で、子ども達が遊ぶことはできなかったと町史にあります。その為に作られたものかもしれません。

そして吉井町で、もっともインパクトがあるのが、この「世知原線跡」です。国道に沿って延々と続いています。

世知原線は当初は松浦炭鉱専用として建設されましたが、昭和8年に佐世保軽便鉄道が買収。同11年には国鉄に買収されました。
その後、松浦線が昭和20年に第三セクターとなった時に正式に「世知原線」と改称されましたが、旅客の減少などにより、同46年に廃線となりました。

↓石炭を輸送していた時代のSL。

現在この廃線跡は自転車専用道路となっています。当時の雰囲気を想像しながら、この廃線跡をサイクリング・・・というのもいいかもしれませんね。


「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧

しかし、歩いてみると、やはりあちこちに面影が残っていました。このいかにもがっちりしたRCアパートのデザインは、香焼地区や鹿町御堂地区の炭住街に見られるものとよく似ています。

意匠をこらしたデザインでありながら、非常に頑強な造りに見えます。

棟の番号はタイルで埋め込んであります。これも香焼の安保地区のアパートと同じです。

そして、この消火栓。まず自治体が設置したものではないでしょう。鉱業所が設置したものと思われます。

残されているプール。使われているか、どうかはわかりませんでした。鉱業所近くには佐々川が流れていますが、汚染の影響で、子ども達が遊ぶことはできなかったと町史にあります。その為に作られたものかもしれません。

そして吉井町で、もっともインパクトがあるのが、この「世知原線跡」です。国道に沿って延々と続いています。

世知原線は当初は松浦炭鉱専用として建設されましたが、昭和8年に佐世保軽便鉄道が買収。同11年には国鉄に買収されました。
その後、松浦線が昭和20年に第三セクターとなった時に正式に「世知原線」と改称されましたが、旅客の減少などにより、同46年に廃線となりました。

↓石炭を輸送していた時代のSL。

現在この廃線跡は自転車専用道路となっています。当時の雰囲気を想像しながら、この廃線跡をサイクリング・・・というのもいいかもしれませんね。


「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧
*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)
















いつも興味深く拝見しています。
写真に写っている住宅に関係する出入りいている業者ですが、コンクリート造りの、番号の頭75は建設時の、年号との事で昭和50年になると思われます。この建物の直ぐ近くの並びに木造の長屋が当時の住宅が残ってます。