現佐世保市・小佐々町にある栄(え)の島炭鉱跡です。ご覧のように陸地からすぐ近くに見えていますが、島なのでこれ以上近づくことができず、対岸から眺めるばかりです。
それゆえ、小さな島ですが、炭坑時代の施設の遺構などもけっこう残されているようです。(下部、yahoo地図参照)
軍艦島もそうでしたが、炭鉱の島、特に閉山後無人となった小島は、後の利用方もないし、壊すにもお金がかかるので、そのまま放置されているというわけです。けっして保存しているわけではありません。
逆に言うなら、これだけの施設が残されているのであれば、学習も兼ねた観光スポットになるのではないでしょうか? yahoo地図で見る限り、海岸には石炭がそのまま堆積しているようですし、「石炭」「炭鉱」をコンパクトに学習するには、うってつけの場所だと思うのですが・・・。
そして、この栄の島炭鉱、名前とは裏腹に、栄えることなく短命に終わった炭鉱でした。
明治30年頃、坂田という人物が採掘権を獲得し、同36年に斜坑開削に着手し、大阪汽船(株)の出資を得て陸地部の採炭を行いましたが、同39年には閉鎖しています。
その後は、この辺り一帯が軍の要塞地帯に編入されたため、再開できないという状態が長く続きました。
昭和31年にいたって、栗山栄という人物が鉱区を譲り受け、旧坑を再開し、同32年から採炭を開始しました。深部にある大瀬五尺層(おおせごしゃくそう)開発のために、34年から傾斜20度の本坑を別に掘進しましたが、あと45mで着炭(炭層に辿り着く)というところで、37年1月に送電線が塩害により停電事故を起こして水没し、(排水ポンプが停止した)事業停止に追い込まれています。
昭和39年に福岡・丸二商会の協力で事業を再開し、40年7月に待望の大瀬五尺層に到達し、採炭を始めましたが、予期せぬ断層(石炭の層が途切れた場所)に遭遇し、42年に遂に事業停止の決定に至っています。
昭和になって石炭が上がってきたのは、わずか2年あまりですが、30年~40年頃は、この辺りも多くの人の暮らしがあり、賑わったことでしょう。
今では、この辺りを訪れるのも、釣り人だけになってしまいましたが・・・。
「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧
それゆえ、小さな島ですが、炭坑時代の施設の遺構などもけっこう残されているようです。(下部、yahoo地図参照)
軍艦島もそうでしたが、炭鉱の島、特に閉山後無人となった小島は、後の利用方もないし、壊すにもお金がかかるので、そのまま放置されているというわけです。けっして保存しているわけではありません。
逆に言うなら、これだけの施設が残されているのであれば、学習も兼ねた観光スポットになるのではないでしょうか? yahoo地図で見る限り、海岸には石炭がそのまま堆積しているようですし、「石炭」「炭鉱」をコンパクトに学習するには、うってつけの場所だと思うのですが・・・。
そして、この栄の島炭鉱、名前とは裏腹に、栄えることなく短命に終わった炭鉱でした。
明治30年頃、坂田という人物が採掘権を獲得し、同36年に斜坑開削に着手し、大阪汽船(株)の出資を得て陸地部の採炭を行いましたが、同39年には閉鎖しています。
その後は、この辺り一帯が軍の要塞地帯に編入されたため、再開できないという状態が長く続きました。
昭和31年にいたって、栗山栄という人物が鉱区を譲り受け、旧坑を再開し、同32年から採炭を開始しました。深部にある大瀬五尺層(おおせごしゃくそう)開発のために、34年から傾斜20度の本坑を別に掘進しましたが、あと45mで着炭(炭層に辿り着く)というところで、37年1月に送電線が塩害により停電事故を起こして水没し、(排水ポンプが停止した)事業停止に追い込まれています。
昭和39年に福岡・丸二商会の協力で事業を再開し、40年7月に待望の大瀬五尺層に到達し、採炭を始めましたが、予期せぬ断層(石炭の層が途切れた場所)に遭遇し、42年に遂に事業停止の決定に至っています。
昭和になって石炭が上がってきたのは、わずか2年あまりですが、30年~40年頃は、この辺りも多くの人の暮らしがあり、賑わったことでしょう。
今では、この辺りを訪れるのも、釣り人だけになってしまいましたが・・・。
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