その名の通り、第二次大戦末期に、兵器工場を空襲から守るために建設された6本のトンネル工場が現、長崎市泉町に残っています。
私はプロフィールに「長崎市泉町生まれ」と書いていますが、私が生まれた家から、ここはたかだか200m弱しか離れていません。

原爆・被爆当時、1号、2号トンネルが完成しており、約1,000人が魚雷製造に従事し、5号、6号トンネルでは約800人の朝鮮人労務者が掘削作業にあたっていました。
↓この数枚の画像は同トンネル前に設置されているパネルを写したものです。すべて日本語と同時に、英語と中国語、ハングルでも説明が記載されています。非常に大事なことと思います。


この場所は、浦上の西部にあたり、原爆投下時には、甚大な被害を受けた場所です。トンネルの中と外では、すぐ近くでありながら、それこそ「天国と地獄」ほどの差があったわけです。

戦争時代における、強制労働の現場と、被爆後の救護所として使われた場所という2つの面を持つ被爆遺構としては、他に類のないものではないかと思います。

この図で言うと、右側中ほどの「労務者飯場」の右ななめ下に、私の生まれた家が、今でも残っています。もしかすると、その家も「労務者飯場」のまっただ中にあったかもしれません。

現在、8/15の終戦記念日近くになると、日本各地にあった炭鉱や工場が強制労働の行われた現場としてクローズ・アップされるようですが、その意味では、私の生まれた場所もまた、そうであったわけです。・・・・そういったことを忘れない為にも、こういう遺構は残していかなければいけないと思うのですが、残念ながらこのトンネル工場の保存については、行政からではなく、民間の団体の尽力により実現した・・とあります。
「平和教育の重要性」を謳うのであれば、当然行政が取り組むべきことだと思うのですが・・・。

それにしても、ここまで補強?してしまうと、もはや原型をとどめているとは思えず、保存と言えるのか?と思ってしまいますが、それでもやはり、これでも後世に残る意味は大きいことでしょう・・・・。
「被爆のこと・遺構・建造物」 記事一覧
私はプロフィールに「長崎市泉町生まれ」と書いていますが、私が生まれた家から、ここはたかだか200m弱しか離れていません。

原爆・被爆当時、1号、2号トンネルが完成しており、約1,000人が魚雷製造に従事し、5号、6号トンネルでは約800人の朝鮮人労務者が掘削作業にあたっていました。
↓この数枚の画像は同トンネル前に設置されているパネルを写したものです。すべて日本語と同時に、英語と中国語、ハングルでも説明が記載されています。非常に大事なことと思います。


この場所は、浦上の西部にあたり、原爆投下時には、甚大な被害を受けた場所です。トンネルの中と外では、すぐ近くでありながら、それこそ「天国と地獄」ほどの差があったわけです。

戦争時代における、強制労働の現場と、被爆後の救護所として使われた場所という2つの面を持つ被爆遺構としては、他に類のないものではないかと思います。

この図で言うと、右側中ほどの「労務者飯場」の右ななめ下に、私の生まれた家が、今でも残っています。もしかすると、その家も「労務者飯場」のまっただ中にあったかもしれません。

現在、8/15の終戦記念日近くになると、日本各地にあった炭鉱や工場が強制労働の行われた現場としてクローズ・アップされるようですが、その意味では、私の生まれた場所もまた、そうであったわけです。・・・・そういったことを忘れない為にも、こういう遺構は残していかなければいけないと思うのですが、残念ながらこのトンネル工場の保存については、行政からではなく、民間の団体の尽力により実現した・・とあります。
「平和教育の重要性」を謳うのであれば、当然行政が取り組むべきことだと思うのですが・・・。

それにしても、ここまで補強?してしまうと、もはや原型をとどめているとは思えず、保存と言えるのか?と思ってしまいますが、それでもやはり、これでも後世に残る意味は大きいことでしょう・・・・。
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しかも同じ、名字だったので・・
私の父は偶然にも、三菱兵器工場で昼は兵器学校と工場で働いていたそうです。
本人(父親)は原爆症で亡くなりましたが
当時の戦争時の話は、殆ど話してはくれませんでした。
被爆後に軍の車で、佐賀の病院へ運ばれたそうです。
小さい頃、一緒にお風呂へ入っていた時 背中を見て他の お父さん達と違う事
に気づき ケロイドの跡が生々しい感じでした。
戦後は福島県で警察の仕事をしていましたが、亡くなる前に一言
苦しい人生だったと・・ この前の地震で福島もいろいろ有りましたが
あの時ふと 長崎を思い出しましたね