これは昭和30年代に撮影された、鹿町町、御堂地区の様子です。商店の立ち並ぶにぎやかな街の様子がうかがえます。
ここ深江免には御堂鉱業所がありました。御堂炭鉱は昭和9年に平田山炭鉱として開鉱され、何回も名称を変えながら、同34年に野上鉱業所KKの御堂鉱業所となりましたが、その後わずか2年後の同36年に閉山となりました。

御堂炭鉱の近くである松浦鉄道(旧国鉄伊佐線-松浦線)の江迎鹿町駅(旧江迎駅)の当時の写真です。駅舎の規模や子どもの洋服などから、やはり当時の賑わいが感じられます。手前に写っている貨車は石炭を輸送するための炭車であるようです。

2008年頃写した江迎鹿町駅です。駅舎の構造が上の写真と酷似しています。屋根や柱は古い時代のものであることがわかりますが、残念ながら同駅は大幅に改修されてしまい、この持ち味がなくなってしまいました。

御堂鉱業所のあった敷地には、現在、鹿町工業高校が立っています。

鉱業所の施設はまったく無くなってしまっているわけですが、高校のすぐ脇には、炭鉱時代を示すもの-炭鉱住宅が今でもほぼ当時のまま残っています。


これだけの規模で当時を彷彿とさせる炭住が残っている場所は、そう無い・・と思われます。



鉱業所のすぐ北側が江迎湾に面しており、そこに石炭を船に積み出す為の施設があったのですが、その場所には積み出しコンベアの台座が海中に残っていました。

さすがに炭鉱会社の造ったものだけあって、これだけの年数が経ってもしっかりしています。

そしてその積出港付近にも多くの炭鉱住宅を彷彿とさせるが残っていますが、どうやらこれは閉山後湿地帯であった場所を埋め立てて、その上に建てられたもののようです。

炭鉱とは直接関係ありませんが、昭和40年前後のRC建築として、非常に興味をそそられます。

また、凹の形にしてあるなど、意匠がこらしてあるのも、炭鉱で栄えたこの時代のですね。こういう形にすることによって住人達は、圧迫感から逃れることができることでしょう。

軍艦島(端島)や池島ばかりが脚光を浴びているようですが、、こういう生活の活きているかつての炭鉱街にも、ぜひ足を運んで欲しいものです・・・・。


「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧
ここ深江免には御堂鉱業所がありました。御堂炭鉱は昭和9年に平田山炭鉱として開鉱され、何回も名称を変えながら、同34年に野上鉱業所KKの御堂鉱業所となりましたが、その後わずか2年後の同36年に閉山となりました。

御堂炭鉱の近くである松浦鉄道(旧国鉄伊佐線-松浦線)の江迎鹿町駅(旧江迎駅)の当時の写真です。駅舎の規模や子どもの洋服などから、やはり当時の賑わいが感じられます。手前に写っている貨車は石炭を輸送するための炭車であるようです。

2008年頃写した江迎鹿町駅です。駅舎の構造が上の写真と酷似しています。屋根や柱は古い時代のものであることがわかりますが、残念ながら同駅は大幅に改修されてしまい、この持ち味がなくなってしまいました。

御堂鉱業所のあった敷地には、現在、鹿町工業高校が立っています。

鉱業所の施設はまったく無くなってしまっているわけですが、高校のすぐ脇には、炭鉱時代を示すもの-炭鉱住宅が今でもほぼ当時のまま残っています。


これだけの規模で当時を彷彿とさせる炭住が残っている場所は、そう無い・・と思われます。



鉱業所のすぐ北側が江迎湾に面しており、そこに石炭を船に積み出す為の施設があったのですが、その場所には積み出しコンベアの台座が海中に残っていました。

さすがに炭鉱会社の造ったものだけあって、これだけの年数が経ってもしっかりしています。

そしてその積出港付近にも多くの炭鉱住宅を彷彿とさせるが残っていますが、どうやらこれは閉山後湿地帯であった場所を埋め立てて、その上に建てられたもののようです。

炭鉱とは直接関係ありませんが、昭和40年前後のRC建築として、非常に興味をそそられます。

また、凹の形にしてあるなど、意匠がこらしてあるのも、炭鉱で栄えたこの時代のですね。こういう形にすることによって住人達は、圧迫感から逃れることができることでしょう。

軍艦島(端島)や池島ばかりが脚光を浴びているようですが、、こういう生活の活きているかつての炭鉱街にも、ぜひ足を運んで欲しいものです・・・・。


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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)















