長崎新聞の連載時代に、一個所だけ現地を訪れていない場所。それが上五島でした。端島や高島、池島といった炭鉱の島に魅せられ、その炭鉱とも縁の深かったカトリック教会(炭鉱マンには信者が多かったそうなので)。先日歩いた北松では、炭鉱町は無くなっていても、点在するカトリック教会の場所で、かつての炭鉱集落の位置がわかりました。
ともかく、ここ上五島にゆくことになるのは、必然的なことに思えましたし、実際の上五島は予想をはるかにこえた、いい場所でした。
上陸した奈良尾港というのは、これまでに訪れたことのある、島の玄関港とは、まったく異なる景色があります。港の周りに山がせまり、不思議な感じがします。軍艦島ほどのインパクトはないにせよ、これから島へ入っていく者に対し、妙な胸の高鳴りを覚えさせます。
島のほぼ南端にある奈良尾港から車で走り出すと、まず最初に顔を見せてくれるのは、この中ノ浦教会です。以前、写真で見て、どうしても見たかった教会のひとつですが、小さな入江に面した姿は、想像以上に美しいものでした。その日は、引き潮の為か、手前の水位が少し低かったのは残念でしたが。

当たり前のことかもしれませんが、教会というのは中に自由に入れる点がすばらしい・・と思います。扉を開ける毎に、それぞれ異なった光と色、そして空気間の世界が広がってきます。中にたたずむ数分間でさえ、自分の精神と肉体が浄化されるような不思議な感覚を味わうことができます。

敷地内にあるマリア像とルルドです。このマリア像も少しずつ表情が違っており、各教会の像を見比べながら歩くのも、また楽しいものです。

もともとこの地区の信者たちは寛政年間に外海の黒崎から移住してきたキリシタンの方達です。近くにある桐古里が伝道師ガスパル下村与作の出身地ということで、五島崩れ(キリシタン弾圧)では信者たちへの迫害がはげしい地区のひとつだったそうです。

この地、五島へカトリックが根付いていった背景というのは・・・・1797年(寛政九年)に五島藩主である五島盛運が大村藩主に農地開墾の為の移民を依頼したことに始まります。これに対し農地の不足していた大村藩領・外海地方のキリシタンたちがすすんで五島へと渡ったことがあります。
進んで五島へ渡ったもうひとつの理由は、当時の大村藩では、人口増加をおさえるために、長男以外の子どもを間引き(殺すこと)するように強制していたということがあったようです。五島では、そのような嬰児殺しもせずにすみ、キリシタンへの取り締まりもそれほどひどくなかったということから多くのキリシタンたちが移住を希望したそうです。
五島がキリシタンたちにとって住みやすいことの理由のもうひとつは、ポルトガル人のルイス・デ・アルメイダが五島の領主の病気を治すとともに布教活動をしていたからです。単に宗教を広めるだけでなく、孤児やハンセン氏病患者を保護・養育し、病院や保育園・授産施設などの礎を築いていったことが、当時の人々にとって大きな救いであったということは、間違いのないことでしょう・・・。
アルメイダは、現在の長崎市そのものを都市として切り開いていった人物なのですが、どういうわけか。あまり知られていません。
しかし、かれらが行った「ミゼルコルディア(7つの慈悲)」に代表される慈悲・慈愛に満ちた慈善事業は、今でも各地に受け継がれていると信じたいです。

どこかの教会かは忘れましたが、ある教会内においてあった、祈りの文には、次のような文言が見えます・・・
『・・・産声を上げられなかった小さな子どもたち、
いのちの危機に瀕している貧しい人々、
残忍な暴力の犠牲となっている女性や子どもたち、
無関心とゆがんだ愛情ゆえに命をたたれる高齢者や病人たち、
このような人々に母としてのまなざしを注いでください。・・・・』
これからのクリスマス・シーズンに絶対おすすめなのが、↓これです。
もし、同町に住んでいるのならば、毎晩でも行きたいところです。きっとすばらしいでしょう・・・。

ともかく、ここ上五島にゆくことになるのは、必然的なことに思えましたし、実際の上五島は予想をはるかにこえた、いい場所でした。
上陸した奈良尾港というのは、これまでに訪れたことのある、島の玄関港とは、まったく異なる景色があります。港の周りに山がせまり、不思議な感じがします。軍艦島ほどのインパクトはないにせよ、これから島へ入っていく者に対し、妙な胸の高鳴りを覚えさせます。
島のほぼ南端にある奈良尾港から車で走り出すと、まず最初に顔を見せてくれるのは、この中ノ浦教会です。以前、写真で見て、どうしても見たかった教会のひとつですが、小さな入江に面した姿は、想像以上に美しいものでした。その日は、引き潮の為か、手前の水位が少し低かったのは残念でしたが。

当たり前のことかもしれませんが、教会というのは中に自由に入れる点がすばらしい・・と思います。扉を開ける毎に、それぞれ異なった光と色、そして空気間の世界が広がってきます。中にたたずむ数分間でさえ、自分の精神と肉体が浄化されるような不思議な感覚を味わうことができます。

敷地内にあるマリア像とルルドです。このマリア像も少しずつ表情が違っており、各教会の像を見比べながら歩くのも、また楽しいものです。

もともとこの地区の信者たちは寛政年間に外海の黒崎から移住してきたキリシタンの方達です。近くにある桐古里が伝道師ガスパル下村与作の出身地ということで、五島崩れ(キリシタン弾圧)では信者たちへの迫害がはげしい地区のひとつだったそうです。

この地、五島へカトリックが根付いていった背景というのは・・・・1797年(寛政九年)に五島藩主である五島盛運が大村藩主に農地開墾の為の移民を依頼したことに始まります。これに対し農地の不足していた大村藩領・外海地方のキリシタンたちがすすんで五島へと渡ったことがあります。
進んで五島へ渡ったもうひとつの理由は、当時の大村藩では、人口増加をおさえるために、長男以外の子どもを間引き(殺すこと)するように強制していたということがあったようです。五島では、そのような嬰児殺しもせずにすみ、キリシタンへの取り締まりもそれほどひどくなかったということから多くのキリシタンたちが移住を希望したそうです。
五島がキリシタンたちにとって住みやすいことの理由のもうひとつは、ポルトガル人のルイス・デ・アルメイダが五島の領主の病気を治すとともに布教活動をしていたからです。単に宗教を広めるだけでなく、孤児やハンセン氏病患者を保護・養育し、病院や保育園・授産施設などの礎を築いていったことが、当時の人々にとって大きな救いであったということは、間違いのないことでしょう・・・。
アルメイダは、現在の長崎市そのものを都市として切り開いていった人物なのですが、どういうわけか。あまり知られていません。
しかし、かれらが行った「ミゼルコルディア(7つの慈悲)」に代表される慈悲・慈愛に満ちた慈善事業は、今でも各地に受け継がれていると信じたいです。

どこかの教会かは忘れましたが、ある教会内においてあった、祈りの文には、次のような文言が見えます・・・
『・・・産声を上げられなかった小さな子どもたち、
いのちの危機に瀕している貧しい人々、
残忍な暴力の犠牲となっている女性や子どもたち、
無関心とゆがんだ愛情ゆえに命をたたれる高齢者や病人たち、
このような人々に母としてのまなざしを注いでください。・・・・』
これからのクリスマス・シーズンに絶対おすすめなのが、↓これです。
もし、同町に住んでいるのならば、毎晩でも行きたいところです。きっとすばらしいでしょう・・・。

















ずっと昔、下五島の教会を回ったことがあります。
今年はこそはフェリー福江も退役することだし、五島に行こうと思っていましたが、
それも達成できぬまま終わりそうです。
12月、忘年会で飲んで騒ぐのも良しと思いますが、こんなコンサートに出かけて
静かに目を閉じながら今年一年を振り返る、そんな穏やかな時間を持ちたいものです。
私は無宗教的な人間ですが、人が集う教会というものは人間として成長するための
いろんな事を教えてくれる場所だと感じます。