昨日の端島(軍艦島)にすっかり魅せられ、作業の合間に訪問前、図書館で借りておいた書物に目を通しました。そのうち「軍艦島~棄てられた島の風景」は1986年に出された写真集なのですが、その中に収められた撮影者・雑賀雄二さんの撮影日記は大変内容の深い優れたものでした・・・。この写真集の存在はかなり前から知ってはいたのですが、「どっかの廃墟マニアが作った写真集」ぐらいにしか思っていなかったのですが、実際の内容は全く違いました。むしろ、その真逆でした。当時愛知県の学生であった彼は、長崎県にある離島のキリシタン関連の写真を撮っている最中に「軍艦島炭鉱閉山」のニュースを耳にして、その足で端島に足を運んで以来、彼もまた、その魅力に取り憑かれ、何ヶ月もかけて島をとり続けた人だったのでした。
日記の中に閉山前後の島の人達の様子が克明に記録されていますが、それは読めば読むほど、昨日抱いた新たな端島のイメージを確証させるものでした。
むしろ、理想に近い住環境のようにさえ思えてきました・・・。
まだ日記も読んでいる途中なのですが、次のようなことが次々と頭によぎってきました・・・・・。

*殆どの人が同じ炭鉱という内容の仕事をしていたために、お互いに理解が深く連帯感も深かった。また危険が隣り合わせな仕事ゆえ「一山一家」という絆、つながりが強かった。

*9階、10階というアパートが多かったが、エレベーターが付いていなかった。その為、上の見晴らし・陽当たりがいい階は登るのがきついし、風が強い。下の方はその逆であるという平等性があった。また皆、きつい思いをして上り下りするということで、やはり連帯意識が強かった。

*通路が狭く建物の隙間をぬうように通っていることで、自然と行き交う相手との譲り合いが生じた。

*アパートの形がコの字形になっていたり、棟と棟が接近していることにより、騒音やマナーなどが自然と守られていた。

等々・・・・こう考えると、この要素は長崎市のひと昔前の町並みを構成していた条件と非常に似通っていることがわかります。つまり、「活気や人情に溢れ、街に教育力があった」頃の長崎です。

なんだかんだ、「廃墟」に向かっているのは、自分達の街の方かもしれません・・・。



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