アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

(動画版)三池炭鉱・宮原坑において、坑底に下げられた対州馬などの坑内馬は、囚人坑夫たちの不満を抑えるための見せしめとして敢えて残虐な扱いを受けた

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 「 知られているようで、知られていない 三池炭鉱での坑内馬たちのストーリー 」

福岡県大牟田市一帯にあった三池炭鉱。 いまでは「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産に登録された「宮原坑の竪坑道やぐら」が保存・公開されているが、そこは対州馬をはじめ、九州地方一帯から集められ、坑底に下げられた多くの馬たちの「墓標」ともいうべき建造物である。 明治から昭和初期にかけて、誰もが口をつぐんだ「事実」がそこにあった。





https://youtu.be/xtZvWN8a-2Y




三池炭鉱・宮原坑において、坑底に下げられた対州馬などの坑内馬は、囚人坑夫たちの不満を抑えるための見せしめとして敢えて残虐な扱いを受けた

武松輝男さんという、三井三池炭鉱で働かれていた方がおられまして、もう亡くなられてしまっているんですが、この方すごい方でして、どうすごい方かは、またいつか話していきたいと思いますが、この武松さんが描かれた「坑内馬と坑内馬と馬夫と女坑夫 地底の記録−−呪咀」とう本があります。

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この本が、もしこの世に無ければ、炭坑の坑内で働かされた馬たちのこと、とりわけ三井三池炭鉱の宮原坑で残虐な扱いを受けた対州馬を中心とする在来馬たちの真実は、文字通り坑底の闇の中に永遠に葬り去られていたでしょう。

 

武松さんの執念ともいえる取材が、そして深い地底で無念の死を遂げていった馬たちの魂が、今私にこうして語らせていると言っても、何ら誇張はありません。

残念ながら、この本。出版社が無くなっていることで絶版となっており、もう古書か図書館でしか見ることができません。

 

思えば、私の対州馬との出会いそのものが、何か見えない力によって、三池炭鉱宮原坑に導かれるための伏線であったような気がしています。

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映画「小さな恋のメロディ」冒頭に出てくる馬のシーン

映画「小さな恋のメロディ」は、私が中学生の頃、爆発的に人気のあった英国の映画。
いや、爆発的に人気のあったのは、主演であったトレイシー・ハイドと言っても過言では無い。
その頃発売されていた映画情報誌の人気女優ランキングでは、公開後(1971年)かなりの年月が経っていたにも関わらず何か月、いや何年もトレイシーが1位であったのを記憶している。

そんな「小さな恋のメロディ」だが、冒頭に「古着などを回収する業者の馬車」が登場し、メロディが、おまけの金魚が欲しいがために、家に戻って勝手に祖母か母親の衣類を売ってしまうというシーンがある。

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名馬キャリコ / バージニア・リー・バートン

この作品が、「小さい おうち」など他の物より知名度が高くないのは、本のサイズがコンパクトで横長ということでしょう。
しかし、子どもに布団の上で読み聞かせするのにはちょうどいいサイズだと思います。
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長崎原爆投下時、疎開など人々の移動の際の主力は、馬だった

これは長崎に限ったことではないのですが、終戦間際は、戦艦や戦闘機の燃料すら不足していたくらいですから、本土の一般人が使用できるガソリンなどの燃料はまったくありませんでした。

ですから、本土空襲が激しくなって、都市から周辺地へ疎開する場合に、主力となったのが「馬車」でした。

原爆投下前に母とともに市内から長崎市北部にあたる長与町高田郷に疎開した愛敬 恭子さんの著書「被爆哀歌」には、その時の様子が綴られています。

・・・私の家は長崎市の南西地には国鉄浦上駅や兵器工場があり、四月頃から強制疎開によって周辺は段々と人の姿が見られなくなってきていた。
母はひしひしと危険を感じていた。しかし、疎開できるあてもない。親戚を頼ろうにも身重の母が相談に出向くには遠すぎた。
そんな時、父の知人が疎開先を世話してくれたのである。そればかりか、混乱の最中に入手困難な荷馬車の手配から荷造りまで手伝ってくれた。
そのおかげで小さな荷馬車に、家具や布団、そして着物と台所用品などの生活に必要な最小限度の品物を乗せて疎開することができた。

愛敬恭子著 「被爆哀歌」より

愛敬さん母子が疎開して47日後に原子爆弾が投下されます。

「長崎は地獄だそうだ」
地獄と聞いては母は、身震いしたという。
(疎開しないでいたら今頃は・・・・・・)
私たちがいる高田郷は、長与村内でも長崎に一番近い位置にある。
真昼だというのに黒煙が上がり空が赤々と燃えているのがはっきりと見えた。家族や知人を思い、泣きだす人もいた。
(馬車ひきの小父さん、大丈夫だろうか)
母が呟いた馬車ひきの小父さんとは、私たち親子が疎開するときお世話になった知人のことである。

愛敬 恭子著 「被爆哀歌」より

愛敬さんの父は、外地に出征していました。
父親や夫がいない内地にあって、力自慢の馬たちは頼もしい存在だったと思うのですが、文中に出てくる方と馬もおそらく無事では無かったことでしょう。


被爆前の長崎市内の地図を細かく復元した、布袋 厚さん著「復元・被爆直前の長崎」の中には、確認できるだけでも7ページに「馬小屋」が見つかります。その多くは、市の中心部より北部一帯に多いようです。

現在の「ブリックホール」から電車通りを挟んだ向かいの狭い通りには「山口馬車」という建物があったことがわかります。

福田 須磨子さん著 「われなお生きてあり」の中には、翌8月10日の岩川町あたりの様子が書かれています。

真直ぐに岩川町の通りを進んでいく。
荷馬車があちこちにたおれているのが目につく。
この通りには安い飲食店が何軒かあった。馬車曳きたちのたまり場みたいな店で、店先に馬を止め秣(まぐさ)をあてがい、自分たちは飲んだり食ったりしている風景をよく見かけたものだ。
恐らく原爆の時も一仕事した連中が一休みしていたのであろう。
横倒しになって死んでいる馬、すかと思えば、まだ死にきれず、目を悲しげにまたたかせている馬、口から白い泡をブクブクとふいて荒い息をしている馬がごろごろしている。
死んだ馬も、シュッシュッ、シュッシュッと音を立てて肛門から白い湯気を噴き出していた。その悪臭は、昨日以来つきまとう悪臭とも違っていた。
何と言ったらいいのか、腐乱した動物の屍臭と、咽喉をつき刺すようなアンモニヤとを混ぜ合わせたような耐えられぬほどの悪臭である。

福田 須磨子著 「われなお生きてあり」より

戦時下、それも敗戦色濃厚という苦しい時代にあって、人のために汗を流して働いた、何の罪もない馬たちが、かくも無残な目に遭ったという事実には、胸が掻きむしられる思いがします。


布袋さんの本の中で確認すると、私自身幼い頃から今も、何百回と通行している道路上にも「馬小屋」があったことが判りました。
現在の地図と照らしてみると山里小学校に近い、岩屋橋の辺りです。

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住𠮷方面から進むと、「岩永時計店さん」の手前辺りです。
この場所を通過する時には、亡くなった多くの馬たちのために祈りたいと思います。


馬小屋

ド・ロ神父が眠るキリシタン墓地が語りかけてくること

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パリ外国宣教会の神父として、外海(そとめ)地方を拠点に活動し、生涯故郷フランスに帰ることなく、ここ出津(しつ)の地に眠っています。

旅行者はほとんど出津教会やド・ロ神父記念館を見学して、墓地には来ないと思いますので、ド・ロ神父が眠るカトリック墓地を紹介したいと思います。

「カトリック墓地が語りかけてくる言葉」をぜひ聞いてみて欲しいと思います。

墓地は、外海中学校(旧出津小学校跡地)の向かいの出津川を挟んだ山あいにあります。

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墓地の前にはツーリスト用の駐車場があります。

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墓地は山の斜面に広がっており、レンガの門から奥へと続いています。

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その門の手前にあるのが、ド・ロ神父の墓碑で、セレモニーなどはこの場所で行われるものと思います。

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しかし、ド・ロ神父の墓はここではありません。
横の門を入り、石段を上がっていきます。

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上の方に、古い鉄の門が見えてきます。

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ここがド・ロ神父の墓地です。

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ド・ロ神父の墓碑。シンプルです。

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ド・ロ神父亡くなった年月などが刻まれていますが、風化が進み、かなり読みづらくなっています。

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ド・ロ神父の墓は斜面の中腹辺りにあり、石段の道はまだ上へと続いています。

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ここは修道会の共同墓地です。

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亡くなられると、こちらに名前が彫られます。

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登り切った場所には磔刑のキリスト像が立っており、墓地を見下ろしていました。
「I・H・S」は、ラテン語で「人類の救い主イエス」(Iesus Hominum Salvator)という意味の言葉の略です。

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キリスト像は、出津教会堂や作業所の方を向いています。


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しかし、墓地は実はここで終わりではありません。

むしろ、ここからが見て頂きたい場所なのです。
石段は、急になり道幅も狭く、鬱蒼とした茂みの中へと入っていきます。

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開けた場所が現れ、地面に無数の平たい石が並べられています。

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これが古い時代の信者のお墓です。
今回、失礼の内容に配慮しながら、撮影させて頂きました。

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ここは、もっと上の段のお墓です。

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人目を避けるように林の中に並べられた墓石。
弾圧の激しかった頃は、カトリック信者の墓だとはわからないように石だけを置き、お祈りに来るときだけ小さな石ころで「十字架状に」並べたり、木の板を十字に重ねてお祈りをして、済むと元に戻していたそうです。

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つまり、上から下にかけて、古い時代から、新しい時代へカトリック墓地のの移り変わりがわかるということなのです。

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手掘りの名前。
ひとつひとつの石に歴史が感じられ、まるで声なき声が聞こえてくるようです。

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教会や資料館を巡った後、ここに来て、ぜひ語り掛けてくる声々を聞いてみてください。

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ここへ来ると、改めて「ド・ロ神父」という存在が、この地にとって、そして多くのキリシタン達にとってどのようなものであったかが判るはずです。



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馬と人の絆のストーリー ~ 八丸 由紀子さんと馬車馬 ダイちゃん


 私の亡き馬「ひん太」の為に、遠く仙台の地からリンゴや生牧草を贈ってくれた村上 敏章さんという方がいました。生まれ故郷は福島で、被災地復興も兼ねて、会ったことも無いひん太の為に、いつも温かい言葉とともに特産のリンゴなどを贈ってくれたのです。

村上さんから看板文字の制作を紹介してもらったのが、美馬森(みまもり)八丸牧場の八丸 由紀子さんでした。

「どんな施設なのだろう?」と思い牧場のHPを覗かせてもらったのですが、そこに書かれているコンセプトを少し読んだだけで、「ここの人たちは、馬や動物の命に対しリスペクトを持って接する人たちだ」ということが判りました。
納品後、自己紹介代わりにと贈って頂いたのが、動画の内容のDVDでした。

村上さんによると、ダイちゃんが亡くなったのは、ひん太が亡くなった数日前打とのこと。

涙無くしては見れないものでした。



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The priests of the Paris Foreign Missions Society, who appeared in times of hardship for Christians in Nagasaki, became "more than God".

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"Mission" released in 1986.
This work depicts the Jesuit mission to South America and the conflict with colonization. I wanted to see this movie again and watched it online.

At the time of the release, I was in Tokyo and had just quit my job, but somehow I was attracted to it and watched it in a small movie theater.

This time, I felt that I finally got the essence of this movie.
It has taken 35 years.

The theme of this movie is not religion, colonial rule, or human drama.
I think that the important thing for a person is to respect life, and that life (existence) should not be discriminated against by any person.

"Mission" is a fiction based on a true story. However, the missionaries who came to Nagasaki have achieved "superhuman deeds" as a historical fact.

In particular, it can be said that the way of life of the priests of the Paris Foreign Missions Society who came to the mission from the end of the Edo period to the Meiji era "influenced people as being more than God" or "lived the supreme way of life as a person". ..


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Les prêtres de la Société des Missions étrangères de Paris, apparus dans les moments difficiles pour les chrétiens de Nagasaki, sont devenus « plus que Dieu ».

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 "Mission" sorti en 1986.

Cette œuvre dépeint la mission jésuite en Amérique du Sud et le conflit avec la colonisation. Je voulais revoir ce film et je l'ai regardé en ligne.

Au moment de la sortie, j'étais à Tokyo et je venais de quitter mon travail, mais d'une manière ou d'une autre, j'étais attiré par cela et je l'ai regardé dans une petite salle de cinéma.

Cette fois, j'ai senti que j'avais enfin compris l'essence de ce film.
Cela a pris 35 ans.

Le thème de ce film n'est pas la religion, la domination coloniale ou le drame humain.
Je pense que l'important pour une personne est de respecter la vie, et que la vie (l'existence) ne doit être discriminée par personne.

"Mission" est une fiction basée sur une histoire vraie. Cependant, les missionnaires qui sont venus à Nagasaki ont accompli des " actes surhumains " comme un fait historique.

En particulier, on peut dire que le mode de vie des prêtres de la Société des Missions étrangères de Paris venus en mission de la fin de l'époque d'Edo à l'ère Meiji « a influencé les gens comme étant plus que Dieu » ou « a vécu le mode de vie suprême en tant que personne". ..

En parlant du gouvernement Meiji, c'est un gouvernement moderne qui mène à l'administration actuelle, mais la discrimination est illimitée, et lorsque les chrétiens sont arrêtés et envoyés en exil, ils sont comptés comme « une bête, deux bêtes ». Les fonctionnaires ne sont pas traités comme des humains.
Les fonctionnaires ont donné aux chrétiens diverses tortures horribles, seulement d'un point de vue agréable, "comment prolonger la souffrance".
Les fonctionnaires ont emprisonné les chrétiens dans une prison inamovible pendant des mois. Finalement, des nourrissons et des enfants sont morts et des cadavres sont tombés à leurs pieds, mais les autorités les ont laissés tranquilles. Le samouraï ivre a également essayé et tué une femme chrétienne enceinte avec un bébé dans son ventre avec son épée. Les fonctionnaires et les samouraïs ruraux ont répété des atrocités qui ne traitent pas les chrétiens comme des humains.


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長崎のキリシタンにとって苦難の時代に現れたパリ外国宣教会の神父たちは、「神以上の」存在となった

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1986年に公開された「ミッション」。
イエズス会の南米への布教と植民地化への軋轢を描いた作品ですが、記事のタイトルを見ている内に、この映画をもう一度見たくなって、ネットで観ました。(しかし、レンタルDVDにも無いし、手頃な有料配信も無かったので、youtubeの英語版を観ました)

公開当時、自分は東京におり、仕事を辞めたばかりでしたが、何となく惹かれるままに小さな映画館で観たのでした。

今回、やっとこの映画の真髄が掴めた気がしました。
実に35年もかかっています。

この映画、テーマは宗教でも植民地支配でも、ヒューマンドラマでもなく、「人にとって大切な事は生命をリスペクトするということ。そして、どんな人もその生命(存在)は差別されるべきではない」ということなのではないかと思います。

「ミッション」は実話を元にしたフィクションですが、標題の通り、我が長崎にやってきた宣教師たちは、史実として「超人的な行い」を成し遂げています。

特に幕末から明治期に布教にやってきたパリ外国宣教会の神父たちの、その生き様は、文字通り「神以上の存在として人々に影響を与えた」、或いは「人として至高の生き方をした」と言っていいだろうと思います。

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クラウス・フェルディナンド・ヘンプフリンク著「馬と踊ろう」”Dancing with horses"by Klaus ferdinand hempfling

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馬の調教についての資料は、ほぼありません。あったとしてもそれは極々一部にしかあてはまらない事しか書いてありません。
そして、そのようなものに頼ろうとしない方が結局はいいのです。

しかし、馬は小~中型の在来馬でも体重が300kg前後あり、本気を出せば大人の男3~4人は簡単に引きずりまわす力を持っています。

なんの理論もイメージも持たずに調教に挑むのは無謀以外のなにものでもありません。
まずどんな馬にも当てはまることぐらいは、わかっていないと馬を修復不可能な状態にしてしまいます。

一言でいうと調教者の「馬に対するマインド」「体の向きと馬との距離(馬語)」は非常に大事で、それを抜きにしては調教はまず成り立ちません。

その辺りのことをうまく説明しているものとして私が一読を薦めるのはドイツ人クラウス・フェルディナンド・ヘンプフリンクの「 Dancing with Horses (邦題:馬と踊ろう)」です。

この書は馬の調教の書というよりも美しい文学としてそのまま読めます。「よし、馬と向き合おう。馬を飼おう」という勇気を起こさせてくれる名著です。

しかし残念ながらこの書は販売されていません。JRAが翻訳本を作ったのですが、販売せずに各都道府県の図書館にのみ配布しています。したがって、県立図書館に行けば借りることができると思いますが、物理的・地理的に難しい方も多いでしょう。どうしても読んでみたいと思う方のために、私が持っているPDFファイルのリンク先を貼っておきますので、DLして読んでみてください。

クラウス・フェルディナンド・ヘンプフリンク著「馬と踊ろう」”Dancing with horses"by Klaus ferdinand hempfling PDF


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ウラヌス号と西 竹一との信頼関係こそが、オリンピック・金メダルを獲った

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クリント・イーストウッドがメガホンをとった「硫黄島からの手紙」によって知られるようになった西 竹一は、日本人として唯一オリンピック馬術競技でメダル(昭和7年、ロサンゼルス大会、馬術大障害飛越競技で金メダル)を獲った人物だが、私は正確には、これは「ウラヌス号と西 竹一との信頼関係」が獲った金メダルだと表現したい。

2021年8月の現在、コロナ・ウィルスの為に1年延期となった「東京オリンピック」が開催中で、昨日、日本の戸本選手が総合馬術個人で4位という快挙を挙げたのだが、マスコミで大して取り上げられなかった上に、騎乗した馬の名前に至っては、ネット上で検索するもヒットすらしなかった

原爆禍や終戦記念日に近い八月にあって、「平和とオリンピック」というテーマにとって、これほどタイムリーなニュースは無いと思うのだが、未だに日本の「オリンピックに対する価値観と意識」はこんな程度
一世紀近く経っても、戦前からほとんど進歩していないのが現状だ。

ウラヌスと西 竹一の話に戻ろう。

西は華族という、上流階級に生まれたものの、実の母の顔を知らず、実父とも10歳で死別している。
莫大な富と地位だけを相続しているが、もし西がウラヌスという馬と出会わなかったら、後世に名を遺すことは、まず無かっただろう。

乏しい資料の中でさえ、西とウラヌス号の信頼関係をうかがわせるものが幾つか残っているので以下、箇条書きに記したい。

◎西が気にいって自費で購入したウラヌス号は、もともとイタリア軍の騎兵中尉が所有していた馬だったが、とんでもないじゃじゃ馬で、イタリア人でも持て余していた大柄な馬だった。

(こういう個性の強い馬と信頼関係を築くには、誠実さと辛抱強さなど、豊かな人間性が要求される。馬には財産も男爵位も関係ないので。ウラヌス号と信頼関係を築く間に、西の人間性が確立されたのだろうと推測される。
オリンピックに関しても馬にはそんなことはわからない。ただ毎日信頼する人間と毎日行ってきたことを、同じ人間と行ったに過ぎない)

◎生前の西は「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」と語っていた。

◎続くベルリン・オリンピックでの不振とそのリベラルな性格が軍部から反感を買い、硫黄島へ左遷配置される際、小笠原諸島付近で乗っていた輸送船がアメリカ軍の潜水艦から撃沈された。
何とか助かった西は、いったん東京へ戻った際、馬事公苑にいたウラヌス号に会いに行った。
西の足音を聴いたウラヌスは狂喜して、西に首を摺り寄せてきたという。
西は、その時ウラヌスの鬣(たてがみ)の一部を切り取り、それを死ぬまで身に付けていた。

アメリカ軍によって発見されたその鬣は、現在北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められている。

◎西の後を追うかの如く、西が硫黄島で戦死した1週間後に、ウラヌスも東京世田谷の馬事公苑の厩舎で静かに息を引き取った。(実に不思議な因縁を思わせる感慨深い事である)


馬(生きとし生けるもの)へのリスペクトを知り、信頼関係を築いていた西にとって小さな島国の当時の理不尽な思想は、とても受け入れられないものであっただろう。

その為に最終的には硫黄島という大左遷の憂き目に遭いながら、その「死の最前線」において、負傷したアメリカ兵を乏しい薬品で治療したり、戦線を離脱した日本兵に対しても情け深い対応をしたという西 竹一の人間性をうかがわせる幾つかのエピソードが遺っている。

これもやはり、ウラヌス号と西 竹一との信頼関係が築いた貴重な「記憶遺産」なのだ。
メダルの数やその色だけに注目していると、大事なものを見落とすことになりかねない。

障害を越えるウラヌスと西。通常、馬が障害を越える際、馬は前足を折りたたむことが多いが、ウラヌスは真っすぐに伸ばしている。これもウラヌスと西が築き上げた技と言えるだろう。
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戦火をあげる硫黄島。この写真が撮られた時、西はまだ生きていてこの島のどこかにいたはずだ。
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「おんぶ」は、子どもの心を育て、社会性を育む

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日本では、ひと昔前によく見られた「おんぶ」ですが、欧米ではこの「おんぶ」スタイルを「Piggy Back」と言って、ほとんどやらないようです。

しかし、この「おんぶ」こそが、子どもの社会性を涵養するものだとして、お茶の水女子大学名誉教授の榊原 洋一教授は「おんぶ」を「重要な子育て法」として推奨しています。

榊原教授は、自身の説の中で、明治10年に来日したアメリカの動物学者エドワード・モースが、日本人親子の「おんぶ」を観察して、大いに賞賛したという日記文を紹介しています。

” この子どもを背負うということは、至る処で見られる。婦人が5人いれば4人まで、子どもが6人いれば5人までが、必ず赤坊を背負っていることは誠に著しく目につく。(中略)赤坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、又私は今迄の所、お母さんが赤坊に対して癇癪を起こしているのを一度も見たことはない。私は世界中に日本ほど赤坊のために尽くす国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界中にないと確信する ”


また明治22年に来日したイングランドの新聞記者エドウィン・アーノルドは、その著書の中で、次のように述べているそうです。

” 背負われた子どもは、おんぶによって、あらゆる事柄を目にし、ともにし、農作業、凧あげ、買物、料理、井戸端会議、洗濯など、まわりで起こるあらゆることに参加する。彼らが四つか五つまで成長するや否や、歓びと混じりあった格別の重々しさと世間智を身につけるのは、たぶんそのせいなのだ ” 

そう言われてみると私自身も大いに思い当たることがあります。

娘がまだ幼い頃、一緒にお祭りを見物に行ったのですが、街中が混雑していた為、車を会場からかなり離れた場所に停めて、歩いて見物に行きました。
その帰り、また歩いて戻る途中のこと。
娘が脚が痛いと言い出し、私は娘をおんぶして帰りました。
その途中に今は無き、古い市場の中を通りました。
市場は、戦後河川を暗渠としてその上に造られた為、細長く、魚屋や肉屋、八百屋、食堂など実に様々な店がひしめいていました。

その間の通路を娘をおんぶしながら、目線と顔が近い近いので、「ほら、ここは魚屋さん。こっちは、八百屋さんたい!」などと話しながら帰った記憶は、今でも鮮明な思い出となって残っています

まさに、この体験こそが榊原教授の説の中に出てくる「共同注視」(ジョイントアテンション)であり、発達心理学の重要な研究対象になっているそうです。
モースやアーノルドの指摘は、まさに「おんぶ」による共同注視が、子どもの社会性の発達を助けていることの描写であると教授は結んでいます。
息子も娘も、保育園への送り迎えの際、自動車よりも自転車の方を喜びました。
「おんぶ」とは違いますが、これも共同注視ではないかと思います。

また「バランスをとりながら揺られる」という行為が、心身のリズムにとって良い作用をしているのだと思います。
これは少し「ホース・セラピー」に通ずるところがあるのかもしれません。
私は、もっと「おんぶ」をしておくべきだったと思っています。

僕の子ども絵日記-64c

僕の子ども絵日記-40c

若者よ、すべてのアルゴリズムを探し求めよ!

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この世に生を受けて以来、この世には、ままならぬ問題が次々と現れます。
それは、時に「生きている、生きてゆく意味」をも、ぼやかせる程、深刻で重大である場合もあるかもしれません。
生きていることは、「うまくいかないことの連続」なのです。
偉そうに言ってますが、私自身の人生も、大小様々なつまづきの連続でした。
原因のはっきりした失敗は、次への糧となりますが、「出口の見えない閉塞感」は厄介です
時に、明日を生きる気力すらも奪いかねません。
しかし、この記事で言いたいことは、「世の中のほとんどの事には、アルゴリズム(ここでは問題の解決方法、或いは最善策と定義します)があるのだが、日本のような単線レール?の学校社会では、そのアルゴリズムの見つけ方を教えられない」ということです。


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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




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