「 知られているようで、知られていない 三池炭鉱での坑内馬たちのストーリー 」
福岡県大牟田市一帯にあった三池炭鉱。 いまでは「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産に登録された「宮原坑の竪坑道やぐら」が保存・公開されているが、そこは対州馬をはじめ、九州地方一帯から集められ、坑底に下げられた多くの馬たちの「墓標」ともいうべき建造物である。 明治から昭和初期にかけて、誰もが口をつぐんだ「事実」がそこにあった。
https://youtu.be/xtZvWN8a-2Y
長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!
武松輝男さんという、三井三池炭鉱で働かれていた方がおられまして、もう亡くなられてしまっているんですが、この方すごい方でして、どうすごい方かは、またいつか話していきたいと思いますが、この武松さんが描かれた「坑内馬と坑内馬と馬夫と女坑夫 地底の記録−−呪咀」とう本があります。
この本が、もしこの世に無ければ、炭坑の坑内で働かされた馬たちのこと、とりわけ三井三池炭鉱の宮原坑で残虐な扱いを受けた対州馬を中心とする在来馬たちの真実は、文字通り坑底の闇の中に永遠に葬り去られていたでしょう。
武松さんの執念ともいえる取材が、そして深い地底で無念の死を遂げていった馬たちの魂が、今私にこうして語らせていると言っても、何ら誇張はありません。
残念ながら、この本。出版社が無くなっていることで絶版となっており、もう古書か図書館でしか見ることができません。
思えば、私の対州馬との出会いそのものが、何か見えない力によって、三池炭鉱宮原坑に導かれるための伏線であったような気がしています。
続きを読む映画「小さな恋のメロディ」は、私が中学生の頃、爆発的に人気のあった英国の映画。
いや、爆発的に人気のあったのは、主演であったトレイシー・ハイドと言っても過言では無い。
その頃発売されていた映画情報誌の人気女優ランキングでは、公開後(1971年)かなりの年月が経っていたにも関わらず何か月、いや何年もトレイシーが1位であったのを記憶している。
そんな「小さな恋のメロディ」だが、冒頭に「古着などを回収する業者の馬車」が登場し、メロディが、おまけの金魚が欲しいがために、家に戻って勝手に祖母か母親の衣類を売ってしまうというシーンがある。
続きを読むこれは長崎に限ったことではないのですが、終戦間際は、戦艦や戦闘機の燃料すら不足していたくらいですから、本土の一般人が使用できるガソリンなどの燃料はまったくありませんでした。
ですから、本土空襲が激しくなって、都市から周辺地へ疎開する場合に、主力となったのが「馬車」でした。
原爆投下前に母とともに市内から長崎市北部にあたる長与町高田郷に疎開した愛敬 恭子さんの著書「被爆哀歌」には、その時の様子が綴られています。
愛敬さん母子が疎開して47日後に原子爆弾が投下されます。
愛敬さんの父は、外地に出征していました。
父親や夫がいない内地にあって、力自慢の馬たちは頼もしい存在だったと思うのですが、文中に出てくる方と馬もおそらく無事では無かったことでしょう。
被爆前の長崎市内の地図を細かく復元した、布袋 厚さん著「復元・被爆直前の長崎」の中には、確認できるだけでも7ページに「馬小屋」が見つかります。その多くは、市の中心部より北部一帯に多いようです。
現在の「ブリックホール」から電車通りを挟んだ向かいの狭い通りには「山口馬車」という建物があったことがわかります。
福田 須磨子さん著 「われなお生きてあり」の中には、翌8月10日の岩川町あたりの様子が書かれています。
戦時下、それも敗戦色濃厚という苦しい時代にあって、人のために汗を流して働いた、何の罪もない馬たちが、かくも無残な目に遭ったという事実には、胸が掻きむしられる思いがします。
布袋さんの本の中で確認すると、私自身幼い頃から今も、何百回と通行している道路上にも「馬小屋」があったことが判りました。
現在の地図と照らしてみると山里小学校に近い、岩屋橋の辺りです。
パリ外国宣教会の神父として、外海(そとめ)地方を拠点に活動し、生涯故郷フランスに帰ることなく、ここ出津(しつ)の地に眠っています。
旅行者はほとんど出津教会やド・ロ神父記念館を見学して、墓地には来ないと思いますので、ド・ロ神父が眠るカトリック墓地を紹介したいと思います。
「カトリック墓地が語りかけてくる言葉」をぜひ聞いてみて欲しいと思います。
墓地は、外海中学校(旧出津小学校跡地)の向かいの出津川を挟んだ山あいにあります。
墓地の前にはツーリスト用の駐車場があります。
墓地は山の斜面に広がっており、レンガの門から奥へと続いています。
その門の手前にあるのが、ド・ロ神父の墓碑で、セレモニーなどはこの場所で行われるものと思います。
しかし、ド・ロ神父の墓はここではありません。
横の門を入り、石段を上がっていきます。
上の方に、古い鉄の門が見えてきます。
ここがド・ロ神父の墓地です。
ド・ロ神父の墓碑。シンプルです。
ド・ロ神父亡くなった年月などが刻まれていますが、風化が進み、かなり読みづらくなっています。
ド・ロ神父の墓は斜面の中腹辺りにあり、石段の道はまだ上へと続いています。
ここは修道会の共同墓地です。
亡くなられると、こちらに名前が彫られます。
登り切った場所には磔刑のキリスト像が立っており、墓地を見下ろしていました。
「I・H・S」は、ラテン語で「人類の救い主イエス」(Iesus Hominum Salvator)という意味の言葉の略です。
キリスト像は、出津教会堂や作業所の方を向いています。
しかし、墓地は実はここで終わりではありません。
むしろ、ここからが見て頂きたい場所なのです。
石段は、急になり道幅も狭く、鬱蒼とした茂みの中へと入っていきます。
開けた場所が現れ、地面に無数の平たい石が並べられています。
これが古い時代の信者のお墓です。
今回、失礼の内容に配慮しながら、撮影させて頂きました。
ここは、もっと上の段のお墓です。
人目を避けるように林の中に並べられた墓石。
弾圧の激しかった頃は、カトリック信者の墓だとはわからないように石だけを置き、お祈りに来るときだけ小さな石ころで「十字架状に」並べたり、木の板を十字に重ねてお祈りをして、済むと元に戻していたそうです。
つまり、上から下にかけて、古い時代から、新しい時代へカトリック墓地のの移り変わりがわかるということなのです。
手掘りの名前。
ひとつひとつの石に歴史が感じられ、まるで声なき声が聞こえてくるようです。
教会や資料館を巡った後、ここに来て、ぜひ語り掛けてくる声々を聞いてみてください。
ここへ来ると、改めて「ド・ロ神父」という存在が、この地にとって、そして多くのキリシタン達にとってどのようなものであったかが判るはずです。
村上さんから看板文字の制作を紹介してもらったのが、美馬森(みまもり)八丸牧場の八丸 由紀子さんでした。
「どんな施設なのだろう?」と思い牧場のHPを覗かせてもらったのですが、そこに書かれているコンセプトを少し読んだだけで、「ここの人たちは、馬や動物の命に対しリスペクトを持って接する人たちだ」ということが判りました。
納品後、自己紹介代わりにと贈って頂いたのが、動画の内容のDVDでした。
村上さんによると、ダイちゃんが亡くなったのは、ひん太が亡くなった数日前打とのこと。
涙無くしては見れないものでした。
"Mission" released in 1986.
This work depicts the Jesuit mission to South America and the conflict with colonization. I wanted to see this movie again and watched it online.
At the time of the release, I was in Tokyo and had just quit my job, but somehow I was attracted to it and watched it in a small movie theater.
This time, I felt that I finally got the essence of this movie.
It has taken 35 years.
The theme of this movie is not religion, colonial rule, or human drama.
I think that the important thing for a person is to respect life, and that life (existence) should not be discriminated against by any person.
"Mission" is a fiction based on a true story. However, the missionaries who came to Nagasaki have achieved "superhuman deeds" as a historical fact.
In particular, it can be said that the way of life of the priests of the Paris Foreign Missions Society who came to the mission from the end of the Edo period to the Meiji era "influenced people as being more than God" or "lived the supreme way of life as a person". ..
Cette œuvre dépeint la mission jésuite en Amérique du Sud et le conflit avec la colonisation. Je voulais revoir ce film et je l'ai regardé en ligne.
Au moment de la sortie, j'étais à Tokyo et je venais de quitter mon travail, mais d'une manière ou d'une autre, j'étais attiré par cela et je l'ai regardé dans une petite salle de cinéma.
Cette fois, j'ai senti que j'avais enfin compris l'essence de ce film.
Cela a pris 35 ans.
Le thème de ce film n'est pas la religion, la domination coloniale ou le drame humain.
Je pense que l'important pour une personne est de respecter la vie, et que la vie (l'existence) ne doit être discriminée par personne.
"Mission" est une fiction basée sur une histoire vraie. Cependant, les missionnaires qui sont venus à Nagasaki ont accompli des " actes surhumains " comme un fait historique.
En particulier, on peut dire que le mode de vie des prêtres de la Société des Missions étrangères de Paris venus en mission de la fin de l'époque d'Edo à l'ère Meiji « a influencé les gens comme étant plus que Dieu » ou « a vécu le mode de vie suprême en tant que personne". ..
En parlant du gouvernement Meiji, c'est un gouvernement moderne qui mène à l'administration actuelle, mais la discrimination est illimitée, et lorsque les chrétiens sont arrêtés et envoyés en exil, ils sont comptés comme « une bête, deux bêtes ». Les fonctionnaires ne sont pas traités comme des humains.
Les fonctionnaires ont donné aux chrétiens diverses tortures horribles, seulement d'un point de vue agréable, "comment prolonger la souffrance".
Les fonctionnaires ont emprisonné les chrétiens dans une prison inamovible pendant des mois. Finalement, des nourrissons et des enfants sont morts et des cadavres sont tombés à leurs pieds, mais les autorités les ont laissés tranquilles. Le samouraï ivre a également essayé et tué une femme chrétienne enceinte avec un bébé dans son ventre avec son épée. Les fonctionnaires et les samouraïs ruraux ont répété des atrocités qui ne traitent pas les chrétiens comme des humains.
1986年に公開された「ミッション」。
イエズス会の南米への布教と植民地化への軋轢を描いた作品ですが、記事のタイトルを見ている内に、この映画をもう一度見たくなって、ネットで観ました。(しかし、レンタルDVDにも無いし、手頃な有料配信も無かったので、youtubeの英語版を観ました)
公開当時、自分は東京におり、仕事を辞めたばかりでしたが、何となく惹かれるままに小さな映画館で観たのでした。
今回、やっとこの映画の真髄が掴めた気がしました。
実に35年もかかっています。
この映画、テーマは宗教でも植民地支配でも、ヒューマンドラマでもなく、「人にとって大切な事は生命をリスペクトするということ。そして、どんな人もその生命(存在)は差別されるべきではない」ということなのではないかと思います。
「ミッション」は実話を元にしたフィクションですが、標題の通り、我が長崎にやってきた宣教師たちは、史実として「超人的な行い」を成し遂げています。
特に幕末から明治期に布教にやってきたパリ外国宣教会の神父たちの、その生き様は、文字通り「神以上の存在として人々に影響を与えた」、或いは「人として至高の生き方をした」と言っていいだろうと思います。
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馬の調教についての資料は、ほぼありません。あったとしてもそれは極々一部にしかあてはまらない事しか書いてありません。
そして、そのようなものに頼ろうとしない方が結局はいいのです。
しかし、馬は小~中型の在来馬でも体重が300kg前後あり、本気を出せば大人の男3~4人は簡単に引きずりまわす力を持っています。
なんの理論もイメージも持たずに調教に挑むのは無謀以外のなにものでもありません。
まずどんな馬にも当てはまることぐらいは、わかっていないと馬を修復不可能な状態にしてしまいます。
一言でいうと調教者の「馬に対するマインド」と「体の向きと馬との距離(馬語)」は非常に大事で、それを抜きにしては調教はまず成り立ちません。
その辺りのことをうまく説明しているものとして私が一読を薦めるのはドイツ人クラウス・フェルディナンド・ヘンプフリンクの「 Dancing with Horses (邦題:馬と踊ろう)」です。
この書は馬の調教の書というよりも美しい文学としてそのまま読めます。「よし、馬と向き合おう。馬を飼おう」という勇気を起こさせてくれる名著です。
しかし残念ながらこの書は販売されていません。JRAが翻訳本を作ったのですが、販売せずに各都道府県の図書館にのみ配布しています。したがって、県立図書館に行けば借りることができると思いますが、物理的・地理的に難しい方も多いでしょう。どうしても読んでみたいと思う方のために、私が持っているPDFファイルのリンク先を貼っておきますので、DLして読んでみてください。
クラウス・フェルディナンド・ヘンプフリンク著「馬と踊ろう」”Dancing with horses"by Klaus ferdinand hempfling PDF
クリント・イーストウッドがメガホンをとった「硫黄島からの手紙」によって知られるようになった西 竹一は、日本人として唯一オリンピック馬術競技でメダル(昭和7年、ロサンゼルス大会、馬術大障害飛越競技で金メダル)を獲った人物だが、私は正確には、これは「ウラヌス号と西 竹一との信頼関係」が獲った金メダルだと表現したい。
2021年8月の現在、コロナ・ウィルスの為に1年延期となった「東京オリンピック」が開催中で、昨日、日本の戸本選手が総合馬術個人で4位という快挙を挙げたのだが、マスコミで大して取り上げられなかった上に、騎乗した馬の名前に至っては、ネット上で検索するもヒットすらしなかった。
原爆禍や終戦記念日に近い八月にあって、「平和とオリンピック」というテーマにとって、これほどタイムリーなニュースは無いと思うのだが、未だに日本の「オリンピックに対する価値観と意識」はこんな程度。
一世紀近く経っても、戦前からほとんど進歩していないのが現状だ。
ウラヌスと西 竹一の話に戻ろう。
西は華族という、上流階級に生まれたものの、実の母の顔を知らず、実父とも10歳で死別している。
莫大な富と地位だけを相続しているが、もし西がウラヌスという馬と出会わなかったら、後世に名を遺すことは、まず無かっただろう。
乏しい資料の中でさえ、西とウラヌス号の信頼関係をうかがわせるものが幾つか残っているので以下、箇条書きに記したい。
◎西が気にいって自費で購入したウラヌス号は、もともとイタリア軍の騎兵中尉が所有していた馬だったが、とんでもないじゃじゃ馬で、イタリア人でも持て余していた大柄な馬だった。
(こういう個性の強い馬と信頼関係を築くには、誠実さと辛抱強さなど、豊かな人間性が要求される。馬には財産も男爵位も関係ないので。ウラヌス号と信頼関係を築く間に、西の人間性が確立されたのだろうと推測される。
オリンピックに関しても馬にはそんなことはわからない。ただ毎日信頼する人間と毎日行ってきたことを、同じ人間と行ったに過ぎない)
◎生前の西は「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」と語っていた。
◎続くベルリン・オリンピックでの不振とそのリベラルな性格が軍部から反感を買い、硫黄島へ左遷配置される際、小笠原諸島付近で乗っていた輸送船がアメリカ軍の潜水艦から撃沈された。
何とか助かった西は、いったん東京へ戻った際、馬事公苑にいたウラヌス号に会いに行った。
西の足音を聴いたウラヌスは狂喜して、西に首を摺り寄せてきたという。
西は、その時ウラヌスの鬣(たてがみ)の一部を切り取り、それを死ぬまで身に付けていた。
アメリカ軍によって発見されたその鬣は、現在北海道中川郡本別町の歴史民俗資料館に収められている。
◎西の後を追うかの如く、西が硫黄島で戦死した1週間後に、ウラヌスも東京世田谷の馬事公苑の厩舎で静かに息を引き取った。(実に不思議な因縁を思わせる感慨深い事である)
馬(生きとし生けるもの)へのリスペクトを知り、信頼関係を築いていた西にとって小さな島国の当時の理不尽な思想は、とても受け入れられないものであっただろう。
その為に最終的には硫黄島という大左遷の憂き目に遭いながら、その「死の最前線」において、負傷したアメリカ兵を乏しい薬品で治療したり、戦線を離脱した日本兵に対しても情け深い対応をしたという西 竹一の人間性をうかがわせる幾つかのエピソードが遺っている。
これもやはり、ウラヌス号と西 竹一との信頼関係が築いた貴重な「記憶遺産」なのだ。
メダルの数やその色だけに注目していると、大事なものを見落とすことになりかねない。
障害を越えるウラヌスと西。通常、馬が障害を越える際、馬は前足を折りたたむことが多いが、ウラヌスは真っすぐに伸ばしている。これもウラヌスと西が築き上げた技と言えるだろう。
戦火をあげる硫黄島。この写真が撮られた時、西はまだ生きていてこの島のどこかにいたはずだ。