これは長崎に限ったことではないのですが、終戦間際は、戦艦や戦闘機の燃料すら不足していたくらいですから、本土の一般人が使用できるガソリンなどの燃料はまったくありませんでした。

ですから、本土空襲が激しくなって、都市から周辺地へ疎開する場合に、主力となったのが「馬車」でした。

原爆投下前に母とともに市内から長崎市北部にあたる長与町高田郷に疎開した愛敬 恭子さんの著書「被爆哀歌」には、その時の様子が綴られています。

・・・私の家は長崎市の南西地には国鉄浦上駅や兵器工場があり、四月頃から強制疎開によって周辺は段々と人の姿が見られなくなってきていた。
母はひしひしと危険を感じていた。しかし、疎開できるあてもない。親戚を頼ろうにも身重の母が相談に出向くには遠すぎた。
そんな時、父の知人が疎開先を世話してくれたのである。そればかりか、混乱の最中に入手困難な荷馬車の手配から荷造りまで手伝ってくれた。
そのおかげで小さな荷馬車に、家具や布団、そして着物と台所用品などの生活に必要な最小限度の品物を乗せて疎開することができた。

愛敬恭子著 「被爆哀歌」より

愛敬さん母子が疎開して47日後に原子爆弾が投下されます。

「長崎は地獄だそうだ」
地獄と聞いては母は、身震いしたという。
(疎開しないでいたら今頃は・・・・・・)
私たちがいる高田郷は、長与村内でも長崎に一番近い位置にある。
真昼だというのに黒煙が上がり空が赤々と燃えているのがはっきりと見えた。家族や知人を思い、泣きだす人もいた。
(馬車ひきの小父さん、大丈夫だろうか)
母が呟いた馬車ひきの小父さんとは、私たち親子が疎開するときお世話になった知人のことである。

愛敬 恭子著 「被爆哀歌」より

愛敬さんの父は、外地に出征していました。
父親や夫がいない内地にあって、力自慢の馬たちは頼もしい存在だったと思うのですが、文中に出てくる方と馬もおそらく無事では無かったことでしょう。


被爆前の長崎市内の地図を細かく復元した、布袋 厚さん著「復元・被爆直前の長崎」の中には、確認できるだけでも7ページに「馬小屋」が見つかります。その多くは、市の中心部より北部一帯に多いようです。

現在の「ブリックホール」から電車通りを挟んだ向かいの狭い通りには「山口馬車」という建物があったことがわかります。

福田 須磨子さん著 「われなお生きてあり」の中には、翌8月10日の岩川町あたりの様子が書かれています。

真直ぐに岩川町の通りを進んでいく。
荷馬車があちこちにたおれているのが目につく。
この通りには安い飲食店が何軒かあった。馬車曳きたちのたまり場みたいな店で、店先に馬を止め秣(まぐさ)をあてがい、自分たちは飲んだり食ったりしている風景をよく見かけたものだ。
恐らく原爆の時も一仕事した連中が一休みしていたのであろう。
横倒しになって死んでいる馬、すかと思えば、まだ死にきれず、目を悲しげにまたたかせている馬、口から白い泡をブクブクとふいて荒い息をしている馬がごろごろしている。
死んだ馬も、シュッシュッ、シュッシュッと音を立てて肛門から白い湯気を噴き出していた。その悪臭は、昨日以来つきまとう悪臭とも違っていた。
何と言ったらいいのか、腐乱した動物の屍臭と、咽喉をつき刺すようなアンモニヤとを混ぜ合わせたような耐えられぬほどの悪臭である。

福田 須磨子著 「われなお生きてあり」より

戦時下、それも敗戦色濃厚という苦しい時代にあって、人のために汗を流して働いた、何の罪もない馬たちが、かくも無残な目に遭ったという事実には、胸が掻きむしられる思いがします。


布袋さんの本の中で確認すると、私自身幼い頃から今も、何百回と通行している道路上にも「馬小屋」があったことが判りました。
現在の地図と照らしてみると山里小学校に近い、岩屋橋の辺りです。

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住𠮷方面から進むと、「岩永時計店さん」の手前辺りです。
この場所を通過する時には、亡くなった多くの馬たちのために祈りたいと思います。


馬小屋