アトリエ隼 仕事日記

長崎の遺産とも言うべき炭鉱・教会・対州馬など、「よかもん」をご紹介いたします・・・

長崎

私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その⑤

対州馬との出会い


イラストレーターの仕事をしている時に、地元新聞社の仕事で県内の各地を舞台にしたイラスト&エッセーの「ぼくの子ども絵日記 ~ ながさきの四季」という連載を持つ機会が3年間ほどありました。
その連載の取材の為に、県内を離島を含め隅々まで周ったのですが、大村市に行った時に、ある山中のカフェで一頭の対州馬に出会いました。
長崎市で対州馬が街中で荷運びをすることは知っていたのですが、それまで対州馬に対して熱狂的な興味があるというわけではありませんでした。
初めて間近で見る対州馬はけっこうな歳の牝馬でした。柵のところへ近寄っていくと、私の方を注目しているのですが、近寄ってはきません。
名前は知っていたので、その名前を何度か呼んでみました。すると最初はモジモジしていたのですが、ゆっくり私のところまで歩いてきました。
そして、顔を私の体に擦り付け、まるで犬か猫のように甘えてきたのです。着ていたジャンパーの裾を噛みますが、馬本来の強い噛みではなく、遊ぶように軽く噛んできます。
私は完全にこの馬に惚れ込んでしまいました。惹き込まれてしまいました。
それからは、私の中で「対州馬」という存在が大きく膨らんでいきました。

後から思えば、ここでまた私の壮大な「買い被り」が起きたのかもしれません。



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ナガサキ、昭和40年代のサヨナラたち・・・

この間、ふと「長崎のニュース00年誌」みたいなやつをめくっていると、どうも昭和40年代の長崎というのは、やたら「サヨナラ」の文字が付く記事が多いような気がしました・・。

まず41年12月には「長崎競輪」の廃止。強く廃止の意向を示してきた県と、貴重な財源として継続を望んできた市との間で、法廷闘争の一歩手前まできた競輪問題でしたが、当時の諸谷市長は17年間続いてきた競輪事業の廃止を決断しました。場所は今の松山サッカー・ラグビー場にあたります。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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対州屋~写真のデジタル化




荷運び馬復活を目指す長崎市唯一の対州馬、ひん太FBページ

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馬運・馬搬・作業萬ず/
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