アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

軍艦島

軍艦島の基礎づくりを支えた、肥後の石工の技術とそのルーツ


ほぼ岩礁であった端島(軍艦島)に石炭があるとわかったのは、江戸時代からでしたが、なにせ東シナ海に面した外洋に位置する岩礁でしたから、当時の技術力で石炭を採掘しようとしても限界がありました。
もともとの島(岩礁)の面積は、今の約6分の1にすぎませんでした。
端島S48

採炭のための何らかの施設を作ったとしても、台風あるいは台風並みの風浪が押し寄せては、それらの施設を破壊してしまったわけです・・・・
端島地盤072


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軍艦島 ~ 日本最古の鉄筋コンクリート建築・30号棟

2010年の3月4日、長崎市の許可の元、テレビ番組の収録で、軍艦島に入った時に撮影した画像を紹介したいと思います。
その時の画像を元に、私の本の中の数点の作品がつくられました。

これから紹介するのは、「無人となった空間」ですが、その一枚一枚の中に、とてもあたたかなコミュニティの中で生活していた、子どもたちや人々の姿を重ねて見ていただければ、幸いです。


大正5年に建てられた、7階建て(地下1階)の30号棟。日本最古の鉄筋コンクリート製(RC)建築と言われています。
そして、ツアーにおいて、もっともゲストの方がコースから近づいて見ることのできる建物でもあります。
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30号棟の立つ外洋側南西部は、船で言う「ブリッジ」の場所にあたり、ひとたび海が荒れると、一番激しい風雨、波が打ちつける場所でした。
gunnkann 1895





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軍艦島 ~ 階段・通路など

2010年の3月4日、長崎市の許可の元、テレビ番組の収録で、軍艦島に入った時に撮影した画像を紹介したいと思います。
その時の画像を元に、私の本の中の数点の作品がつくられました。

これから紹介するのは、「無人となった空間」ですが、その一枚一枚の中に、とてもあたたかなコミュニティの中で生活していた、子どもたちや人々の姿を重ねて見ていただければ、幸いです。


今回は、住人の方や子どもたちが、生活をしていた通路や階段などのうち、軍艦島らしさを表していると思われるものを数点ご紹介します。


独身寮である67号棟の「X(エックス)階段」。昭和25年の建設ですが、非常にモダンなと言うか、斬新なデザインが目をひきます。
DSCF3161

このX階段は、クルーズ船からも、見ることができますので、機会があれば、ぜひ見てください。
ここは当時から、やはり絵になるのか、よく撮影スポットとなったようですね。
67号棟947





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軍艦島 ~ 65号棟と端島幼稚園・保育園

2010年の3月4日、長崎市の許可の元、テレビ番組の収録で、軍艦島に入った時に撮影した画像を紹介したいと思います。
その時の画像を元に、私の本の中の数点の作品がつくられました。

これから紹介するのは、「無人となった空間」ですが、その一枚一枚の中に、とてもあたたかなコミュニティの中で生活していた、子どもたちや人々の姿を重ねて見ていただければ、幸いです。

終戦をまたいで完成した65号棟。この頃はまだ小中学校も木造であり、島内最大の建物としての威容を誇っています。別名、「報国寮」と呼ばれました。
ボイラー煙突から吹き出す煙が、「軍艦島」らしさをいっそう引き立てていました。
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軍艦島への上陸がなぜ難しいか

通常、「島への上陸」と言いますと・・・・船が島へ近づくと、大きな防波堤に囲まれた港へ入っていき、水深も浅くなるので、海は急激に穏やかになる・・・というパターンです。海が少々荒れていても、上陸する第1歩は、海の上に浮かんでいる浮き桟橋なので、ほとんど問題なく上陸できます。

しかし、軍艦島のツアー上陸地点は下図の赤い部分、ドルフィン桟橋ですが、通常の港とは形状も構造もまったく違うことはおわかりだと思います。
map118
では、なぜ他の島のように防波堤や浮き桟橋を造らないか?
・・・答えは簡単です。造れないからです。

もともと軍艦島(端島)がある場所は、現在の面積の約1/3(資料によっては1/6という説も)であり、とても「島」とは呼べない、小さな岩礁にすぎませんでした。
その為、水深があり、潮流早く、もし防波堤や浮き桟橋を作ったとしても、翌朝にはなくなっているかもしれません。

現在、ツアーのお客さんが上陸しているドルフィン桟橋は海底を掘り下げて石積みの基礎を固め、コンクリートで構築してあります。形状もエンジニア達が練りに練ったもので、言うならば「炭鉱エンジニア達の血と汗の結晶」なのですが、このドルフィンですら、3代目(昭和37年製)であり、1,2代目は台風で流されています。
つまり軍艦島は、島と言うよりも、「海上都市」であり、そういう場所へ上陸するのだと考えてください。









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軍艦島の設計

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「アパートの博物館」とも言われる軍艦島。大正から昭和30年代まで、様々な時代のアパートが混在しています。かつて一度はアパートぐらしをしたことがある人なら、どれか1棟は、自分の住んでいたアパートに似た建物を見つけられるはずです・・・。
私の場合は、幼い頃住んでいた「隼(はやぶさ)」と名付けられたアパートが、↑この昭和25年に建てられた2号棟に感じがよく似ています。隼棟も推定では同年代に建てられているはずです。

map118さて軍艦島の鉄筋コンクリート製の住居アパート群は左図の左側半分に集中していることがわかります。右側には「端島鉱業所の施設があったわけですが、実はこの住居AP群、「鉱員家族が生活する」という目的以外に、「右側鉱業所を東シナ海の波浪から守る防波堤の役割をする」という意味もあったわけです。
それでも、台風クラスの大波が押し寄せると、最も高い場所にあった3号棟を越えて、鉱業所側に落ちたということですので、そういう時の住人家族達の恐怖感はいかばかりであっただろうかと思います。

また複雑にかつ、芸術的に入り組んだ住居建築物群ですが、この「端島」という人工島そのものは、外国の著名な建築家などがデザインしたものではなく、三菱の名も無き炭鉱技師達が設計し造り上げてきたものなのです。

69号棟は端島病院
70号棟は小中学校
9階建ての65号棟の屋上にあるピンクの場所が幼稚園・保育園です。

端島坑道127
しかし考えて欲しいのは、この人工島の下には、図のように最深部で1000m、最も離れた場所で3km近くに及ぶ地下坑道が網の目のように走っているということです。
想像を絶する地圧、噴出する海水や地下水、メタンガスや有害な一酸化炭素・・・・これらの劣悪な環境から鉱員達の命を守る坑道の設計と建設こそが、設計エンジニア達の血と汗の結晶だったわけです。
従って、強風や荒波が押し寄せるとは言え、地上に人工島を建設することは、彼らにとっては我々が考えるほど「無謀な」ことではなかったわけです・・。

さて、今回はその中で、69号端島病院と70号小中学校、及び幼稚園・保育園の位置に注目したいと思います。

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↑これは幼稚園の窓から鉱業所側を見下ろした図です。遠くに写っている建物の横に第二竪坑やぐらが立っていました。つまり、幼稚園からも小中学校からも鉱業所の敷地内が一望できます。端島の子ども達は、幼・小・中とずっと父親達の働く仕事場を見ながら育ってゆくわけです。
炭鉱での事故を知らせるサイレンが鳴り響くと、きっと皆いっせいに窓から鉱業所の方を心配しながら見つめていたことでしょう・・・。「自分の父親は大丈夫か・・・」と。

病院内部881
また炭鉱は何かと怪我や病気の多い場所でもあったようですが、病院に入院するようなことがあれば、病室からはすぐ間近に子ども達の遊び回るグランドがよく見えるわけです。きっとこの光景には随分と心癒されたことでしょう・・・。

端島の建物の配置は時代によって移動していますので、こういう配置が意図的に行われたのかどうかは知るよしもありませんが、住居群がほぼ全て岩盤を挟んで鉱業所から見えない位置にあったのに対し、前述の3つの建物がこの配置にあったのは、何かしら意図的なものがあったように思えてなりません。



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「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧



『 軍艦島のくぼみと防波棟31号棟 』

家族の病気と子どもの状態を考え、軍艦島ツアー船をいったん降りることにしました。

だから・・・というわけではないですが、軍艦島(や炭鉱)について、この5か月間、感じた事などを、ツアーの興ざめにならない程度に記事にしていこうかと思っています。このことが、更なる充電につながればよいのですが・・・。

『 軍艦島のくぼみと防波棟31号棟 』

ご存じ?かと思いますが、軍艦島(端島)は平面図で見ると、けっこう「ぐにゃぐにゃ」な形をしています。普通、大都市の港湾部にある埋め立て地という場所は、ほぼ長方形やなだらかな流線型をしており、波の抵抗を考えると、できるだけ直線或いはなだらかな曲線をしている方がいいわけです。
下図の黄色の矢印のように、くぼみがあると、波が集中して入ってくることになり、構造として非常にまずいと言うか、よろしくないわけです。
端島073

では何故矢印のような海岸線(埋め立て)になってしまったかというと、それは下図を見れば一目瞭然である通り、もともとこの場所には海面下に、埋め立てに足る岩盤(岩礁)がないからです。
端島地盤072

古い時代、この場所には、個人商店などが建ち並んでいました。
しかし、大きな波が来ると、下図の通りです。またこちら側の岸壁は東シナ海(外海)側を向いており、台風クラスの波がくるととんでもないことになります。
近くの25号棟の屋上から多くの住人が見物していますが、手前のお店は倒壊し始めています。
商売を営む家族が暮らしていたと思うのですが、どういう気持ちだったのでしょうか・・・。考えると胸が痛みます。
こういうことは、あまり書きたくありませんが、島で商売をされていた人達は、こういった地理的に条件のきびしい場所に住むことを余儀なくされていたようです。(日給住宅などでは、防潮階と呼ばれる増水に備えるための半地下にお店等がありました)
31号以前078

そして海面から約10mある護岸も垂直に立っているため、波の破壊力を増強させ、ついにはこのようなことになってしまうのです・・・・。
つまり、ここ「くぼみ」のあたりは「鬼門」なのです。
台風被害077

そこで造られたのが、「防波棟(ぼうはとう)」と呼ばれた数棟の内の1つ、31号棟です。
その名の通り、護岸すれすれに建っており、護岸の形状に合わせて、九の字に曲がっています。
下図の通り、隣の30号棟より40年後に建てられた、当時最新鋭の白亜のアパートなのでした。
ちなみにこの31号棟、私が端島で一番好きな建物です。
31号棟

防波棟と呼ばれる所以ですが・・・・
①海側の窓が他の棟より小さい。
②壁は城壁並みに厚く造ってある。
③海側に居室でなくて、廊下がある。
              ・・・などの設計上の特徴があります。

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まさに「最前線」の造りをしているわけですね。

その他にも、この31号棟、ど真ん中を「ボタ・コンベア」が貫いていたり(実際はコンベアの方が先にあった)、郵便局や共同浴場があったり・・・と島の為に「人一倍?」がんばっていたアパートなのです。













本日、9/16の31号棟です。かなり傷み、塗装もはげていますが、閉山後36年経った今でも、「防波棟」としての堂々とした姿は保っていますね。
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ちなみに以前、来られたお客さんの中にかつて31号棟に住んでいたという方がいました。お話をうかがうと、波の恐怖よりも、「住みやすい、いいアパートだったという思い出しかない」と話しておられました。

また、別の機、日給住宅の地階で親がお店を出していたという方とも話しをする機会がありました。
確かに波が島内にあふれるような時は大変だったらしいのですが、それよりもやはり「島はひとつの家族」のようなもので、立場は違ってもみんな仲良く楽しく暮らしていたという思い出が強い・・というようなことを話されていました。


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何故か、石原良純さんと一緒に軍艦島を歩く

昨日、NPO軍艦島を世界遺産にする会・理事長坂本さんが端島(軍艦島)においてTV番組のロケを石原良純さんと共に行うのに同行させてもらい、島の中を取材することができました。今まで資料の中でしか見たことがなかった光景を直接見た瞬間から、私の中の「端島」というものが、確実に変わったように思いました。それほどまでにインパクトの大きな体験でした。
そして感じたことのもうひとつは、「無人化して36年たった今でも尚、建物達は生きている」ということでした。それは予想以上のものでした。「廃墟」なんかではなく、言い換えれば長い間「眠っている街」なのでした・・・。
私が育ったアパート群とは当然構造も環境も違うのだけど、やたらなつかしい感じがして、またあそこへすぐにでも行きたいという気持ちにかられるのはどうしてだろうと思いました。
詳しく述べる段階には至ってませんが、同会の為に微力ながらお手伝いしていきたい・・・いや同会の一端を担うつもりで自分の持てる力を出したい・・・と考えているところです。
(*石原さんの横は、全てNPO軍艦島を世界遺産にする会の理事長さんです。私は写っておりません。・・・私が撮ったので)
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




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