アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

対州馬物語

西日本新聞・「宝を未来へ~対州馬物語」③~⑥

西日本新聞・長崎版に2月上旬に掲載されたシリーズの③~⑥の4回分を掲載しています。
なにせ、文字が多いので、余計な説明などは省略したいと思います!?
第3回
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西日本新聞・「宝を未来へ~対州馬物語」②

記事によると、トラックや耕耘機の普及に伴って、馬の需要がなくなった・・・と。確かにもっともな理由・なりゆきです。
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対馬で需要のなくなった対州馬は、車の入れない坂の小径の多い長崎市へと、活躍の場を移した・・・・これもよくわかるところです。
(画像は昭和50年頃、長崎市高平町)
昭和50年高平町・対州馬330

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西日本新聞・「宝を未来へ~対州馬物語」①

この間、対州馬のいるカフェ「WARANAYA」で霜川氏から教えてもらったのですが・・・
西日本新聞でも、「対州馬物語」の連載が始まりました。^^
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下から2段目の文中・・・「今年は2頭が限度。これといった活用法もないし馬は利益も生まない」!
・・・・言い切りましたねぇ!
じゃあ逆に言うと、活用法があって、利益を生みさえすれば、予算をまわすし、尽力してくれるわけですね!?
よっしゃ!!

↓は世知原町・松浦炭鉱で、炭車を引く馬の姿です。「対州馬」という記載はありませんが、天井の低い坑内では、在来馬が多く使われたそうですから、大人しく従順で力の強かった対州馬は、真っ先に使われたことでしょう。
画像にも見られますが、炭車5台くらいは、常に引いていたそうです。北松などの各炭鉱でも、鉄道が十分に発達していない時代には、このように海辺の積み出し港まで何キロも往復していたのです。
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一度、坑内に下げられた馬たちは、死ぬまで地上に上がってくることはなかったそうです。
かつて、ここまで人間に酷使された歴史のある在来馬たちですが、今も尚、「ヒトのために働きたい、ヒトのために役に立つことを喜ぶ」という気質は変わっていない(霜川氏談)、この馬たちを、けっして絶滅させてなるものか・・・と思うのは、私だけではないでしょう。

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長崎新聞連載~「対州馬物語」③

連載の組み立てが、いかにも新聞社という感じですが、毎日担当者が替わってることもあり、なかなか切り口が新鮮です。
それにしても、記事の内容については、溜息しか出ません。
これだけのことを公立高校の一教諭がやっているというのは、驚き以外の何ものでもありません・・・・。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




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荷運び馬復活を目指す長崎市唯一の対州馬、ひん太FBページ

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