対州馬物語
記事によると、トラックや耕耘機の普及に伴って、馬の需要がなくなった・・・と。確かにもっともな理由・なりゆきです。
対馬で需要のなくなった対州馬は、車の入れない坂の小径の多い長崎市へと、活躍の場を移した・・・・これもよくわかるところです。
(画像は昭和50年頃、長崎市高平町)
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対馬で需要のなくなった対州馬は、車の入れない坂の小径の多い長崎市へと、活躍の場を移した・・・・これもよくわかるところです。
(画像は昭和50年頃、長崎市高平町)
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この間、対州馬のいるカフェ「WARANAYA」で霜川氏から教えてもらったのですが・・・
西日本新聞でも、「対州馬物語」の連載が始まりました。^^
下から2段目の文中・・・「今年は2頭が限度。これといった活用法もないし馬は利益も生まない」!
・・・・言い切りましたねぇ!
じゃあ逆に言うと、活用法があって、利益を生みさえすれば、予算をまわすし、尽力してくれるわけですね!?
よっしゃ!!
↓は世知原町・松浦炭鉱で、炭車を引く馬の姿です。「対州馬」という記載はありませんが、天井の低い坑内では、在来馬が多く使われたそうですから、大人しく従順で力の強かった対州馬は、真っ先に使われたことでしょう。
画像にも見られますが、炭車5台くらいは、常に引いていたそうです。北松などの各炭鉱でも、鉄道が十分に発達していない時代には、このように海辺の積み出し港まで何キロも往復していたのです。
一度、坑内に下げられた馬たちは、死ぬまで地上に上がってくることはなかったそうです。
かつて、ここまで人間に酷使された歴史のある在来馬たちですが、今も尚、「ヒトのために働きたい、ヒトのために役に立つことを喜ぶ」という気質は変わっていない(霜川氏談)、この馬たちを、けっして絶滅させてなるものか・・・と思うのは、私だけではないでしょう。
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西日本新聞でも、「対州馬物語」の連載が始まりました。^^
下から2段目の文中・・・「今年は2頭が限度。これといった活用法もないし馬は利益も生まない」!
・・・・言い切りましたねぇ!
じゃあ逆に言うと、活用法があって、利益を生みさえすれば、予算をまわすし、尽力してくれるわけですね!?
よっしゃ!!
↓は世知原町・松浦炭鉱で、炭車を引く馬の姿です。「対州馬」という記載はありませんが、天井の低い坑内では、在来馬が多く使われたそうですから、大人しく従順で力の強かった対州馬は、真っ先に使われたことでしょう。
画像にも見られますが、炭車5台くらいは、常に引いていたそうです。北松などの各炭鉱でも、鉄道が十分に発達していない時代には、このように海辺の積み出し港まで何キロも往復していたのです。
一度、坑内に下げられた馬たちは、死ぬまで地上に上がってくることはなかったそうです。
かつて、ここまで人間に酷使された歴史のある在来馬たちですが、今も尚、「ヒトのために働きたい、ヒトのために役に立つことを喜ぶ」という気質は変わっていない(霜川氏談)、この馬たちを、けっして絶滅させてなるものか・・・と思うのは、私だけではないでしょう。
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12月18
連載の組み立てが、いかにも新聞社という感じですが、毎日担当者が替わってることもあり、なかなか切り口が新鮮です。
それにしても、記事の内容については、溜息しか出ません。
これだけのことを公立高校の一教諭がやっているというのは、驚き以外の何ものでもありません・・・・。
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これだけのことを公立高校の一教諭がやっているというのは、驚き以外の何ものでもありません・・・・。
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最新記事(画像付)
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- The priests of the Paris Foreign Missions Society, who appeared in times of hardship for Christians in Nagasaki, became "more than God".
- Les prêtres de la Société des Missions étrangères de Paris, apparus dans les moments difficiles pour les chrétiens de Nagasaki, sont devenus « plus que Dieu ».
- 長崎のキリシタンにとって苦難の時代に現れたパリ外国宣教会の神父たちは、「神以上の」存在となった
プロフィール:江島 達也
長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236
以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。
長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
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荷運び馬復活を目指す長崎市唯一の対州馬、ひん太FBページ
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馬運・馬搬・作業萬ず/
「対州屋」(たいしゅうや)
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