アトリエ隼 仕事日記

長崎の炭鉱・教会・対州馬などをご紹介しています。 多くの方が炭鉱時代の事を探しておられるますので、炭鉱記事へのコメントは、どうぞアドレスをお書き添えください。橋渡しいたします!

対州馬

(動画版)三池炭鉱・宮原坑において、坑底に下げられた対州馬などの坑内馬は、囚人坑夫たちの不満を抑えるための見せしめとして敢えて残虐な扱いを受けた

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 「 知られているようで、知られていない 三池炭鉱での坑内馬たちのストーリー 」

福岡県大牟田市一帯にあった三池炭鉱。 いまでは「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産に登録された「宮原坑の竪坑道やぐら」が保存・公開されているが、そこは対州馬をはじめ、九州地方一帯から集められ、坑底に下げられた多くの馬たちの「墓標」ともいうべき建造物である。 明治から昭和初期にかけて、誰もが口をつぐんだ「事実」がそこにあった。





https://youtu.be/xtZvWN8a-2Y




長崎原爆投下時、疎開など人々の移動の際の主力は、馬だった

これは長崎に限ったことではないのですが、終戦間際は、戦艦や戦闘機の燃料すら不足していたくらいですから、本土の一般人が使用できるガソリンなどの燃料はまったくありませんでした。

ですから、本土空襲が激しくなって、都市から周辺地へ疎開する場合に、主力となったのが「馬車」でした。

原爆投下前に母とともに市内から長崎市北部にあたる長与町高田郷に疎開した愛敬 恭子さんの著書「被爆哀歌」には、その時の様子が綴られています。

・・・私の家は長崎市の南西地には国鉄浦上駅や兵器工場があり、四月頃から強制疎開によって周辺は段々と人の姿が見られなくなってきていた。
母はひしひしと危険を感じていた。しかし、疎開できるあてもない。親戚を頼ろうにも身重の母が相談に出向くには遠すぎた。
そんな時、父の知人が疎開先を世話してくれたのである。そればかりか、混乱の最中に入手困難な荷馬車の手配から荷造りまで手伝ってくれた。
そのおかげで小さな荷馬車に、家具や布団、そして着物と台所用品などの生活に必要な最小限度の品物を乗せて疎開することができた。

愛敬恭子著 「被爆哀歌」より

愛敬さん母子が疎開して47日後に原子爆弾が投下されます。

「長崎は地獄だそうだ」
地獄と聞いては母は、身震いしたという。
(疎開しないでいたら今頃は・・・・・・)
私たちがいる高田郷は、長与村内でも長崎に一番近い位置にある。
真昼だというのに黒煙が上がり空が赤々と燃えているのがはっきりと見えた。家族や知人を思い、泣きだす人もいた。
(馬車ひきの小父さん、大丈夫だろうか)
母が呟いた馬車ひきの小父さんとは、私たち親子が疎開するときお世話になった知人のことである。

愛敬 恭子著 「被爆哀歌」より

愛敬さんの父は、外地に出征していました。
父親や夫がいない内地にあって、力自慢の馬たちは頼もしい存在だったと思うのですが、文中に出てくる方と馬もおそらく無事では無かったことでしょう。


被爆前の長崎市内の地図を細かく復元した、布袋 厚さん著「復元・被爆直前の長崎」の中には、確認できるだけでも7ページに「馬小屋」が見つかります。その多くは、市の中心部より北部一帯に多いようです。

現在の「ブリックホール」から電車通りを挟んだ向かいの狭い通りには「山口馬車」という建物があったことがわかります。

福田 須磨子さん著 「われなお生きてあり」の中には、翌8月10日の岩川町あたりの様子が書かれています。

真直ぐに岩川町の通りを進んでいく。
荷馬車があちこちにたおれているのが目につく。
この通りには安い飲食店が何軒かあった。馬車曳きたちのたまり場みたいな店で、店先に馬を止め秣(まぐさ)をあてがい、自分たちは飲んだり食ったりしている風景をよく見かけたものだ。
恐らく原爆の時も一仕事した連中が一休みしていたのであろう。
横倒しになって死んでいる馬、すかと思えば、まだ死にきれず、目を悲しげにまたたかせている馬、口から白い泡をブクブクとふいて荒い息をしている馬がごろごろしている。
死んだ馬も、シュッシュッ、シュッシュッと音を立てて肛門から白い湯気を噴き出していた。その悪臭は、昨日以来つきまとう悪臭とも違っていた。
何と言ったらいいのか、腐乱した動物の屍臭と、咽喉をつき刺すようなアンモニヤとを混ぜ合わせたような耐えられぬほどの悪臭である。

福田 須磨子著 「われなお生きてあり」より

戦時下、それも敗戦色濃厚という苦しい時代にあって、人のために汗を流して働いた、何の罪もない馬たちが、かくも無残な目に遭ったという事実には、胸が掻きむしられる思いがします。


布袋さんの本の中で確認すると、私自身幼い頃から今も、何百回と通行している道路上にも「馬小屋」があったことが判りました。
現在の地図と照らしてみると山里小学校に近い、岩屋橋の辺りです。

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住𠮷方面から進むと、「岩永時計店さん」の手前辺りです。
この場所を通過する時には、亡くなった多くの馬たちのために祈りたいと思います。


馬小屋

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絶滅危惧種である長崎の対州馬を救うための一助となるよう商品を販売しています。
お求めは各ショップか、「対州屋」サイトより直接ご依頼ください。

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私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その⑤

対州馬との出会い


イラストレーターの仕事をしている時に、地元新聞社の仕事で県内の各地を舞台にしたイラスト&エッセーの「ぼくの子ども絵日記 ~ ながさきの四季」という連載を持つ機会が3年間ほどありました。
その連載の取材の為に、県内を離島を含め隅々まで周ったのですが、大村市に行った時に、ある山中のカフェで一頭の対州馬に出会いました。
長崎市で対州馬が街中で荷運びをすることは知っていたのですが、それまで対州馬に対して熱狂的な興味があるというわけではありませんでした。
初めて間近で見る対州馬はけっこうな歳の牝馬でした。柵のところへ近寄っていくと、私の方を注目しているのですが、近寄ってはきません。
名前は知っていたので、その名前を何度か呼んでみました。すると最初はモジモジしていたのですが、ゆっくり私のところまで歩いてきました。
そして、顔を私の体に擦り付け、まるで犬か猫のように甘えてきたのです。着ていたジャンパーの裾を噛みますが、馬本来の強い噛みではなく、遊ぶように軽く噛んできます。
私は完全にこの馬に惚れ込んでしまいました。惹き込まれてしまいました。
それからは、私の中で「対州馬」という存在が大きく膨らんでいきました。

後から思えば、ここでまた私の壮大な「買い被り」が起きたのかもしれません。



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長崎で役馬として働いた荷運び馬の馬装

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長崎の街で建築資材や墓石などを運んでいた「荷運び馬」の馬装をイラストにしました。
こういうものでも、残しておけばいつか役に立つこともあるかもしれないので。


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私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その④


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学校と教師とHSP


対州馬につなげる為に、もう少し私自身のことを話したいと思います。
先日、娘が通う高校で三者面談がありました。いつもは私の妻が参加するのですが、今年はコロナ・ウィルスの影響で妻が職場を抜けられなかった為です。
実は私の娘も自身で「私はHSP!」と公言しているのですが、普段から担任教師の事を毛嫌いしていることはよく判っていました。
「これは下手すると担任と激論になる。それだけは何としても避けたい!」と思っていた私は、前日たまたま観た「大草原の小さな家」の再放送の中で父親チャールズが示したような寛容な態度を心がけて(笑)面談に臨みました。


そのおかげか、最後まで穏やかに面談を終えたのですが、その担任の言動・価値観以前の人柄は「教師の前に、人として最低」なものでした。
私自身が教師として何度も三者面談を経験していますから、一般の方よりは客観的にその面談を測ることができると思うのですが、簡単に言うと、その面談は時間内ずっと娘に対してネガティブな内容を話し続けるような内容でした。

そしてその担任が放ったある言葉が印象的でした。「娘さんは、私との連絡帳に一言ぐらいしか書かないんですよね。それから、クラスの前で私が話すときに他の子よりリアクションが無いんですよ。社会に出たら、もう少しその辺をどうにかしないとね」と。これはまるで「芸人の私がネタをやっているのに、ちっとも笑わないじゃないか。なぜもっとリアクションしないんだ!」というような話に聞こえました。
つまらない、面白くないからリアクションしないのに決まっているのに、自分のネタに問題があるのではなく、笑わない観客にあるのだというようなものです。

私は内心「なぜこの教師は、自分が受け入れられてないし、娘との間に信頼関係が構築されていないから日誌の言葉が少ないのだし、リアクションもしないのだ」と思わないのか、不思議というか滑稽でした。私自身は教師として授業をしていた時に、常に授業を受けている生徒たちの表情を見ていました。真剣に聞いている時は表情が違っていましたし、つまらない時には眠そうな顔。それが自分にとっての授業の内容・質のバロメーターでした。日誌についても同じで、大きな学校の時は15クラス45人全員、つまり600人くらいと日誌を交わしていました。当然、何も書かない生徒も沢山いますが、私は授業を合間を見つけて、かならず全員に一言書いて返していました。そんな生徒がある時、「今日は楽しかった」と一言書いているのを見つけると、教師として大いに励まされ、やり甲斐を感じました。
面談の最後に少し時間があったので、そのようなことを担任の先生にやわらかくかいつまんで話しました。担任は「はい。」と言ってただうつむいていましたが、おそらく内容などちっとも入っておらず、ただクレームっぽい親が何か言ったぐらいにしか伝わっていなかったでしょう。

こういったこともアーロン博士らのHSPを用いれば、見事なほど完璧に説明がつきます。
また、私が両親や兄について同じような違和感をもっていることも25%ということから妙に合点がいきます。

私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由  その③

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「買い被り」は昔のことだけではありません。
数々のアルバイトでは、「応募する前と実際では大違い」といったことは、おそらく誰もが一度は経験したことがあるでしょう。
しかし、ある語学学校の校長職も十分この「買い被り」によって落胆させられた事例に該当するものでした。
私は開校申請前の校長職としてある会社から招かれました。
教育学部卒で実存主義やフリー・スクール構想について仲間と学んだ経験のある私は、外国の青年たちにとって「真の教育」を与えられる学校を創ることができると信じて、各資料を練り上げ、文部科学省までヒアリングに行きました。
運営会社の社長の肩書はそれこそ、立派なものが幾つも並べられていました。
その社長が参加する姿を一度も見たことも聞いたこともない、不登校の生徒たちが通うフリースクールの理事とか、県内の青年協議会の会員とか。
そこでも、またもや「買い被って」しまったのです。
開校後、目の当たりにした現実は、「酷い」を遥かに超えた「悲惨」なものでした。
これは、あくまで私のいた日本語学校の話ですが、ネパールやインドなどのアジア諸国において、学校と契約した現地ブローカーが『経済力のある日本に行けば、留学生ビザでアルバイトができる。その稼いだ金で生活費はもちろん次の学費(100万円とか)も工面できる。更には、母国の家族に仕送りもできる』などと言って巧みな嘘で騙し、一生かかっても返せないような借金を負わせた上で日本へ留学させます。
家族や一族は日本円に換算すると1000万から1500万というお金を借金するために土地や建物を担保にします。おそらく利息も日本では考えられないような額になるはずです。
そんなことをして日本にやってきたアジアの若者たちがどんな悲惨な運命をたどるか、詳しくは本題からあまりにそれてしまうので、ここではやめておきます。
私が「校長として未来のあるアジアの若者の人生に寄り添える」と思った買い被りは、実際は生活費にも苦労をし、借金の為に帰国することもできないという地獄にすり替わってしまっていたのでした。校長の権限を持ってしても、その状況を覆すことはできませんでした。
「月に1万5千円の家賃が払えない」と担当教員に相談した外国人生徒に、担当教員が「お金を〇日までに払わないなら、部屋を出て、近くの公園で寝てください」と答えたのが、私は人として許せませんでした。それは運営会社の指示で言わせられたことでした。生徒は泣きながら私に訴えてきました。
「そういう言葉を言うのは、悪いことですよね?」と。私はうなづくしかありませんでした。

対州馬の飼養と調教 35「 馬運車を自作する場合、どのような構造にすべきか 」


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考えておかないといけない大切な点は次の5つ程度と考えます。

①走行中、馬の頭部を保護できる構造
②走行中、馬が飛び出さない構造
③乗り降りがスムーズにできる踏板の設置と積載
④滑りにくい床構造
⑤馬が怪我をするような突起などがないか



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対州馬の飼養と調教 34「 どうやって初めて馬運車に載せるか 」

未調教であった馬を単独で馬運車に載せ、移動することができれば、一応一区切りの水準に達したと言っていいでしょう。
まず載せようとするする馬にあった構造を持つ馬運車を準備するところから始まります。
特に注意するべきは、移動中に安全に馬体を守れる構造になっているか、という点と乗り降りしやすくかつ頑丈なスロープが容易にセットできるかという点でしょう。もともと馬運車として作られているものは、競馬馬のものであり、対州馬のような馬のものではないので、自作で馬運車をつくるか、牛や豚などの家畜を運ぶ専用車を使うかのどちらかになると思います。ここでは、馬運車の構造にまでは触れません。
最初は当然ながら馬にトラックに乗る理由もその魅力もありません。長い時間をかけて「こうすること(馬運車に乗ること)を覚えていくよ」ということを馬に伝えていかなければなりません。
この段階までに人間に従って曳かれたり、止まったりするということができるようになっていなければなりません。


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対州馬の飼養と調教 19「 馬を叩く、打つということは馬にとってどのような意味があるか 」

馬を叩くという行為は、これは競馬では通常の行為と言えますが、感情に任せて行われる場合はただの虐待であるし、馬との関係を著しく悪化させるものです。しかし、これが「no good」を伝える行為として適度な強さとタイミングで行われる場合はコミュニケーションとなります。
一般的に誤解されやすいのは、同じ力で叩かれたとしても、馬は人ほど敏感には感じないということです。夏にはサシバエという吸血バエが多数馬の体にたかることとなるが、これをハエ叩きで叩かれることは馬はまったく苦にしません。鞭は叩くための道具ではありません。


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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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