アトリエ隼 仕事日記

長崎の遺産とも言うべき炭鉱・教会・対州馬など、「よかもん」をご紹介いたします・・・

宮本常一

民俗学者・宮本 常一さんは写真の中で常に笑顔

正直言って、民俗学者の写真集を買ったのは初めてですし、今後このようなことはまず二度とあり得ない・・と思うのですが、それは宮本 常一(みやもと つねいち)さん(明治40年~昭和56年)の映っている写真を多く見てみたいと思ったからでした。
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まるで宮本さんの73年の生涯の7~8割?が笑顔であったのではないか?・・というくらい、笑顔の写真を残しています・・・。調査途中の昼食でしょうか?いい顔ですね。
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笑うと無くなる?目、その笑顔を向けられると、誰もが警戒心をといてしまい、それが民俗学の調査においては功を奏したのでしょうが、実はその笑顔の下には大変きびしい仕事への執着と男気が隠されていたようです・・・
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宮本 常一著「日本人を考える」より『逃げ場のない差別のひだ』

様々な文化人と宮本氏との対談集となっている同書の中で、秀逸な章だと思いました。
同氏が日本中を歩いて感じた、地域の中の「差別」について述べたものなのですが、この(人の心の中にある)差別の中にこそ「戦争」の論理がある・・・と、読み終わってから自分なりに結論にいたりました。

キーワードは「土地」だと思います。特に日本の歴史において徳川時代におし進められ、日本全土にあった「ある特定の土地にしがみつくこと=生きる」という閉鎖的な環境がこれまでの言われ無き差別を生み出し、その精神性は戦争を肯定させる要素になったと思うのです。
同氏はこの差別性を我が長崎県では(その時代において)離島を例に説明しています。もともと島に住んでいた人々(と言っても太古には移住者であることにかわりなく、ここでは先に土地を占有していた人々という意味)は、移住者を非常に警戒し、執拗に区別しました。まぁ先住者にとって、後から移住して来る者たちというのは、自分達が生活の糧としていた様々な資源や土地を奪う(或いは減らす)かもしれないという脅威であったことはうなずけます。先住民は、移住者にやせた土地のみを与え、漁業権さえ厳しく制限しました。結果的に移住者は、生活していくのに大変な労苦を強いられました。また移住者の中にたまたま成功した者が出ても、地主は決して、そういう移住者に土地を売るということはしなかったそうです。そういうことをすれば、その後自分達が移住者にしていたことをやり返される恐れがあったからです。また先住民は、その地区を統制していくために、先住民の中でも細かく縦割りのランク付けをしたといいます。この中には、例えば「先代が移民の家系だった」とか「親類すじに罪人がいた」とかいったことが判定材料となりました。しかし、多くは何の判断材料もないわけで、この時にこそ「ライ病すじ」だとか「狐つき」「へびつき」「犬神」と言ったまったく何の根拠もない差別や蔑称が誕生?したわけです。そしていったんその根拠なきレッテルを貼られると、その差別の呪縛から何代も逃れることができなかったというわけです。こう書いてくると、小中学校の閉鎖的なクラスにおける「いじめ」の構造レベルとなんら変わらないような気もするのですが・・・。
要は「土地をとられる=利益を奪われる」という脅威が攻撃・排除というベクトルへと向かわせるということです。このことは、例えば、現在の我が県でも、土地の利用について対立が深刻化していますし、世界の至る場所で(日本も含め)国境紛争は続いています。もっと個人的なレベルまで下げて説明するならば、単なる運動会や花見の場所とりや、乗り物等の空席の確保などにおいても、常に奪い合い(譲り合いではなく)が起こっているぐらいのことは誰もがうなずけるでしょう。
「自分のテリトリーに入ってくる者を激しく攻撃する!」というのならば、もうそれは野生動物の生態そのものですね。

とすれば、戦争を放棄するキーワードは「寛容」あるいは「流動性」ということにでもなるのでしょうか・・・。
宮本氏は、差別ということに観点を置いた時、戦前戦後ではなく、昭和30年頃の集合住宅などが各地に出来始めた頃を転換期だと説明しています。これはまさに炭鉱住宅などが存在していた時期に重なります。つまりそういった集合住宅が集まって出来た街には、当然全国より人々が集まり、流動していました。地域にあった差別性という呪縛も、そこでは及ばなかったわけです。また同じつくりの長屋が建ち並んでいたという条件も、江戸時代より受け継がれていた長屋文化を発展させる素地となりましたし、何より苦しい時代を助け合って生きていこうという精神性を育てるまたとない環境であったことがうかがえます。
かつて「筋違い」な婚姻は許されなかったという地域の慣習(呪縛)を打ち破っていったのも、そういう街で育った若い男女であったそうです。そういうことから、もうひとつキーワードを足すとすると、やはり「愛」ということになるのでしょうか。

自分の畑に水をひくのなら、隣の畑にも同じか、それ以上の水が流れ込むようにする・・・・
混んでいる乗り物で席に座ることができたなら、ちょっと辺りを見まわし、よりその席を必要とする誰かに譲ってあげる・・・・
結局は、そういうことなのかなぁ・・・と思ってしまいます。

日本人を考える317

「 第4回 宮本常一写真講座 写真が語る地域像 」

「 第4回 宮本常一写真講座 写真が語る地域像 」
平成22年9月25日(土)14:00~17:00
周防大島町東和総合センター大ホール

基調講演「写真の記録性について」平嶋彰彦
      「記憶の糸口、日々のほつれ」中村鐵太郎
      「歴史研究と写真資料」河西英通
パネルディスカッション
      「宮本常一の写真に見る昭和の生活誌」

先日、県立図書館でたまたま置いてあったチラシの内容です。

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私が尊敬する人物の一人、故・宮本氏が撮影した写真が添えられていました。彼らしさのよく出ている一枚です。生活の場となっている船の上の姉妹のやさしい眼差しが、撮影者である宮本氏の方へ向けられていることがわかります・・・・。

宮本常一075裏面に掲載されていた宮本氏の写真。
また機会を変えて、宮本氏のことは書いてみたいと思いますが、今に残されている写真は、同氏の仕事に対する厳しさ、ストイックさとは裏腹にほとんどが、このようなやさしい「笑顔」のものです。
私は、彼の写真を見るたびに、このような表情で写真に写れるようなヒトになりたい・・・と思うのです。



それにしても周防大島、遠いなぁ・・・。



「私の日本地図⑮ 壱岐・対馬紀行」 宮本常一

宮本常一著の「私の日本地図⑮ 壱岐・対馬紀行」を読了しました。とっても面白く深い名著でした。
この宮本常一というヒトの考え方・感じ方に大変共感を覚えるとともに、その人柄にも引きこまれてしまいました。
「対州馬」の縁で、この本に出会えたことをとてもうれしく思います。そして宮本氏の撮影した同著の表紙にも子どもの姿が見えることで、何か全てがわかったような気がします・・・。

同著のp223から224にかけて特に秀逸な文章があると思いましたので、一部紹介します。

・・・・いずれにしても島は大きく変わり始めている。
 それにしても、これからさきこの島人は何をしてゆけばよいのか。この島を訪れる観光客は次第に多くなりつつある。その多くはこの島の自然美をもとめてやって来る。岳の辻、八幡崎、そのほか郷ノ浦、勝本付近の海岸美をもとめて来る。この島には人の心をひくような文化的な遺跡は比較的少ない。史蹟といわれるものも文永・弘安の役の古戦場であるとか、国分寺西北の古墳群、安国寺などが旅人の心をひくものであろうか。
そういうことを反省するにつけて、現在の人々は何を残してゆけばよいのであろうか。いま次々に建てられつつあるコンクリートの建物は、はたして人の心をひく文化財たりうるだろうか。もうぼつぼつ島の文化を知る手がかりになるような博物館、それも歴史や民俗ばかりでなく、陸や海の自然や動植物などの生態を知り得るような公園なども作られてよいのではなかろうか。それもケチなものでなく、壱岐の人達の夢やエネルギーのあふれ出たようなものであってほしいと思う。
 その気になれば、そういうものは年数をかけさえすれば実現もむずかしくない。日本ではそういうものを多くは観光客のために作られる。そういう施設を訪れるものはたいてい観光客である。しかし家族で訪れることのできるようなものを作りたい。外国では博物館や植物園、動物園は親子や家族が多くそこを訪れている。そして親と子をつなぐ大切な絆の役割をはたしている。日本のそうした施設は親子をつなぐに足るほどの充実した内容をもったものが少ない。むしろ無いところが多い。
 近頃歩いていてもしきりに思うのは、今の人達は後世の人達に対して誇り得るものとして何を残せばよいのだろうかということである。今日の観光というのは、先祖の残した文化、あるいは自然美などの居食のようなもので、現代の人々の作り出したものはきわめて少ない。これでよいのだろうかと思う。・・・・・

宮本氏が壱岐・岳の辻において風景を眺めながら考えたことなのですが、すでにこの時、来るべき近未来を予見していたのでしょう。
とても考えさせられる部分だと思いました。

taisyuu2861


2/28(日)長崎新聞子ども欄「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」最終回は、ささやかながら福岡県に実在した江崎 舞さんという少女へのレクイエムという意味合いがありました。江崎さんについては1/11の記事に詳しく書いています。本当に僭越なことだとは思うのですが、対馬という背景、対州馬とつなげて、車椅子の少女=江崎舞さんという自然なイメージのつながりが持て、この最終作ができました。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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